表現の自由、自由権、社会権、生存権、進歩主義、多文化主義、機会平等、男女平等、公平公正な分配、弱者とマイノリティへの慈悲と救済および支援。能力主義は公正な倫理観が前提となりそれに加えて生存権を重視しての結果の平等の必要性を社会は理解すべきではないか?

認識について -普遍性-

そもそも世界の構成は基本的で部分的な構造だけではミクロもマクロも相似的な様相を呈しており、それらが相関関係のなかで特定の意味を形成しているということが普遍的なありかたとして理解できるが、これはまるで異なる文化世界においても、同じように理解され得るものであることは明白だ。

基本的な構成要素がある目的に伴って関係性を得てそれが一定の機能を獲得することで意味ある役割を担うことになるが、そういったものがそれぞれの目的ごとの機能的役割によってより大きな目的のために関連付けられて一つの集合となっているのがある種のいきものといわれる形態だが、それぞれの機能的役割のある要素がその機能において自然に協調的に働くということによりそれが個別生命体の場合に健康な状態にあるということになる。

個別の生命体が集団となり組織化されていく過程も、個別生命体の生命が維持されている状態に類似しているが、異なるのは個別の生命体においては、それぞれがそれぞれの価値観や行動選択の自由があることであって、その権利は保障されなければならないものだが、結果として社会が一定の生命のような恒常的な維持機能がある場合は、その構成要素である生命体と社会の間に相似的な要素がないわけではないだろうから、非常に柔軟で概念的な意味理解の世界においては、各種の要素が個別の目的で行為していることの個別性ではない単なる目的行動性があるというかたちを捉えることにより、その構図の普遍的な様としての理解に矛盾があるとはいえないことが分かる。

しかし、同時にそれぞれの構造要素の関係性も、それがある目的で関係付けられて機能しているその役割の集合要素も、またその集合要素と別の集合要素が協調して果たす役割が複数存在して成り立つ社会構造も、それぞれがそれぞれの状況の変化に柔軟に対応して無理のない範囲で変容しているという普遍的事実もある。

故に個別の生命体であっても社会であっても、それが必要に応じて変化することは当然の如くあるわけで、環境変化にうまく対応できることが世界を維持することになるわけだから、その変化を知るために相互の構成要素間もしくはより外側からの情報を得る何らかの手法を通じて必要な情報を得て柔軟にものごとに適応していくのだけれど、その過程でそれぞれがその情報をすべてかのようにしてその情報に支配されるのを避けるために、例えば自我だとか細胞膜だとか憲法や国境などが存在しているので、個別構成要素の恒常的ありかたを維持しながら変化への適応を可能にするシステムが、変化と相関関係という普遍的世界においての普遍性として存在する。

その普遍的世界が平和かつ平穏に維持されるためにはそれぞれの個別要素の安定が必要であり、それぞれがそれぞれのための目的行動を他の利益と重なるようにしつつ無理のないあり方で行為することで、それぞれが疎外されることなく安定して存在することが可能になる。

もしそれぞれの何れかが疎外されるようなことがあれば、それぞれの役割が本当に本来の自然的なあり方なのかの見直しも必要なので、同時に無理のあるシステムになっていないかを確認しつつ、それぞれが自然にかつ十分に安定してそれぞれの個別構成要素として存在できることを目的にした情報の交流により、変化に適応して安定する状況への対応をそれぞれができるようにしていく必要がある。

 

 

 

(実はこれはいま書いているSFファンタジー小説のなかで主人公が思索しているときの思考内容なのだけれど、こちらに引用しておいた方がいいんじゃないかと思うようなものになったからアップしました。パーソンズ、人権思想、神経科学、仏教哲学、ルーマン、カント、マルクス、ハーバマスのイロハを部分抽出して公式化したものです。小説の方はここまで堅い内容ではないのだけれど…)

2050年からの世界への希望

僕の考え方がリベラルすぎるという批判もあるが、この場合のリベラルとはは中道左派社会自由主義的なものであり、要するに革新を前提とし社会的市場経済において再分配を十分にすることで市場経済での格差を是正する民主的な社会という意味でのリベラルなのだけれど、日本社会の保守的な価値観では21世紀の大変動時代を乗り切るのは難しいのではないかと日ごろから感じているので、革新なりリベラル左派なりの価値観をベースとした社会にしていく必要があるのではないかと思う。

 


新たな経済のあり方とは

経済は需要と供給によって成り立つが、需要は市民の社会生活にとって必要なものからなり、供給は人口の一割程度の一次・二次産業が生産したものをサービス産業などの三次産業が分配するなどして成り立っている。

かつての牧歌的な社会ではない高度情報化産業社会においては、生産に直接従事する人は極めて少なく今後AIとロボットの利用が進むにつれて、生産従事者はますます減っていくと思われる。

人の労働を前提とした従来の社会モデルは、近未来においてはイノベーションにより効率が悪くなるため維持することが難しくなることは明白で、一次二次産業は機械化が進み産業従事者は減るばかりのため、サービス産業などの三次産業に従事する労働者の比率は上がるばかりだ。

その結果、現在の日本社会のようにサービス産業が低賃金労働であるという価値観のまま未来を迎えた場合は、低賃金労働で生産物を流通するだけの非常に貧しく忙しい社会になる懸念すらある。

少ない労力で生産が可能な社会においては、本来なら人は労働から解放されても生活水準は維持できるどころか豊かな社会を享受できるはずなのだが、素直にそう理解する人があまりに少ないことには不思議な感じを抱かざるを得ない。

実際のところ生産に携わる人が少ないのだから、雇用を維持する目的もあってサービス産業などで労働の場をつくることにより、少ない労働量で作られた生産物を流通させて経済が成り立っており、その結果全体として経済の分配機能が発揮されている現代の社会だが、これはあくまで雇用と労働により経済社会を維持するためのものであり、生産以外の国民生活のためにどうしても必要な流通や小売などの産業に必要な労働量も効率化すれば実はそれほど多くないのではないか。

現在、近未来での実現化を目指して自動車の自動運転の研究が進められているが、その技術が可能になる時代のAIの機能はその他の分野でも応用が可能だろうけれど、そういった社会が成立すれば生産も流通や小売もより少ない人的労働で経済が廻るわけで、それ以外は行政の維持を除けば雑用や娯楽で社会経済がなりたっているだろうことが予測できる。

行政においても制度を複雑化することなくシンプルな制度とシステムにすれば仕事量も大幅に減り、シンプルなシステムは専門家でなくても理解しやすいため民主主義に多くが参加しやすくなる。

誤解は避けたいが、これは一見するとかつてネオリベラルといわれたものに似ているけれど実際はまるで異なり、必ずしもネオリベのように小さな政府を志向するのではなく、むしろ大きな政府における新しいアイデアの一種なのだけれど、故にネオリベのようには福祉や医療の予算を減らすことはせず、むしろ大きな政府の下で医療福祉教育を無償化し充実させることを志向するものだ。

そういった未来を前提にしなくとも現在であっても、実際のところは無駄な労働を省けば最小限の労働量で社会と経済が機能するのが実態であって、それ以外は国民経済を維持するための賃金労働の場を便宜上提供するためにつくられた雑務と娯楽産業だとするなら、必要なものだけに労働を整理して、市民を労働から解放することは可能だろうし、そうであるなら新たな価値観をつくりだすことが模索されていくだろう。

日本のように働く人たちが効率の悪いながら仕事であってもより長時間働くことが評価されるような価値環境があると、前述のような社会の変化に対応することが難しくなる可能性がある。

社会は人によって成り立っているけれど、社会を構成する人々はそれが労働現場でなくとも、目的に向けて作業する場合に必ずしも最も効率のいい手法を選ぶとは限らず、共同作業の過程でも互いに足を引っ張るようなことが往々にしてあり得るわけで、仕事でなくても人間関係の構築のなかには苦労するようなことが含まれるわけだから、実際の人の労働に関しても本来の労働時間は実際よりずっと短い可能性がある。

それらがAIに代替された場合は、人では想像できないレベルの効率化が可能になるだろう。

それなら、本当に必要な仕事だけはみんなでシェアして、一人あたりの労働時間を大幅に削減することが可能になるため、残りの時間は社会活動およびボランティアやNPO、政治活動、研究、生涯学習や趣味、スポーツなどをして暮らせばいいことになる。

 


ベーシックインカムは可能か

人はものを消費して生きているのだけれど、生活必需品などの生産物が配給されるのでなければ、通貨などの商品と交換するための何らかの手段が必要であり、一般的には通貨を利用する。

その際の収入だが、前述のようなワークシェアリングによる短時間労働に応じて時給を文化的で健康的な生活を営むために十分以上になるレベルに大幅にアップさせる手法を選ぶか、法人や金融に課税してベーシックインカムを配ることを基本とした社会経済にするかということになる。後者の方が本質的に公平で平等な仕組みだろう。

ちなみにこの場合の時給に関しては、企業の総利益に対する雇用者報酬である労働分配率を維持するか増大することを前提にすべきだろう。

医療福祉教育は無償で提供するので、ベーシックインカムや収入は生活面に活用されることになるが、住居の提供を公がやるかは考えなければいけない課題だ。できることなら住居も公により提供されれば、収入は衣食などの生活のみに使われる。

これはあくまで現状において可能な範囲ではあっても実現はどこもしていないかもしれない。

上述の前者に近いワークシェアと高い最低賃金という組み合わせに関しては、欧州の一部ではそれに近い状況にあるようだけれど、日本ではそうではない。

そもそも日本では最低賃金が低く、自動車産業や商社などの外貨を稼ぐ法人と、一般の中小企業労働者との賃金格差は大きい。

グローバル産業は国外との競争が激しく、しかしマネーは金融緩和などにより大量に提供されているから、優秀な人材を確保するための高報酬競争により非常に高い賃金を得る者もいるが、その場合の報酬は一般レベルではないにしても、グローバル企業の従業員に関しては全般に高い賃金を得ている。

それに対して、ローカルな産業は国内が相手なのでそれに応じた報酬体系になっているけれど、小売の価格競争などで値下げが進むと同時に賃金も抑制されたから、グローバル企業に比べれば非常に低賃金になる傾向があった。

これが日本のデフレの原因のひとつでもあったはずだ。

そういった低価格競争がなければ、国内産業は経済の仕組みによって分配がうまく機能すればいいだけなので、グローバル企業に優秀な人材が採用されることを阻害しない範囲でローカル産業も高賃金にしてもうまくいくようになるだろう。

ただし、その条件下では物価が安くなるわけではないから、実際のところ輸入品が手ごろになる程度の状況だろうけれど、結果として国内の格差は小さくなるはずだ。

その際には、最低賃金を十分に引き上げておくための政治的な社会制度と経済システムを安定的に維持する対応は必須になる。

これは現状における最低限の対応策であるが、日本に関しては採用しなかったにしても、現在までの欧州ではそのような手法が用いられていたと思われる。

この手法だと内需が豊かになるため経済発展もしやすい。欧州の場合の内需は教育医療福祉というサービス産業にリソースが多く投入されているから持続的な経済が維持されている。

技術革新と十分な生産増強にともなって途上国が中進国になり先進国になっていく過程でも前述のような仕組みが望ましいのではないか。

ただし、世界中で消費が増えることになるので、生産量が間に合わなければインフレになりかねないが、教育医療福祉というサービス産業への消費に多くを割けば、過剰なモノの消費という問題は起こりにくく、教育医療福祉という社会を安定化させるインフラ投資により理想的な状態が維持できるはずだ。

今後はより高度な社会を志向すべきだから、イノベーションを最大限活用しつつ平等で公平な社会を築くために必要な手法を考える必要があり、ベーシックインカムを志向する社会に向かっていくと思われる。

 

 

マネーゲームのある未来にしていいのか

経済を簡単な言葉であえて表現すれば、作って配って消費する、ということだけれど、消費するまでの過程を自動化できる時代がいつかくるとすれば、通貨に関する価値観やあり方にも変化が生じるだろう。

そもそもが自動化された生産により、いつか市民は労働から解放されるわけだから、それを全員に公平に分配することができればいいわけだ。

そういった社会が到来すれば歓迎だが、実際のところ現在からはまだ遠く、いまの課題を解決しながら社会が技術に追いつくのを待たなければいけないだろう。

大きな社会変化においては、税制と給付という大きな課題があるが、それさえ克服できれば社会システムの移行は難しいものではないのかもしれない。

現在における課題としては金融課税が可能かどうかにあるが、金融緩和でベースマネーを大幅に増やしているにも係わらず信用創造が十分に機能しておらず国債の購入などに廻り政府が公共投資が可能になるが、この手法では国の負債が膨大に膨れ上がるだけだ。

故に実質的には金融課税の方が借金に依存せず健全な経済を構築できることは言うまでもないことだ。

これは従来の人が働いて生産し流通させるなかでの社会的市場経済を前提としているわけで、市場経済の範囲において投資家が巨額のマネーを操り、経済のあり方を決める手法における、一般市民の生活に格差が忍び寄る問題を再分配により是正することが前提だが、これですら実際は単なるマネーゲームに過ぎない懸念がある。

それでは未来における生産が自動化された社会の経済とはどのような機能と役割を果たすのだろう?

AIによる流通革命があるはずで、生産も人口構造と需要が予測がつく範囲においては自動化が可能と思われる。そのためマネーゲームのような経済の仕組みは不要になり、ベンチャー企業によるイノベーションに期待する部分にのみ投機的なあり方が残ることになる可能性がある。

マネーゲームの勝者による支配となるようでは、健全な民主主義の社会を維持するということにはならない。

もしそのような時代が存続するのでであれば、SDG'sのような企業による理想の実現が重要な価値観なのだろうけれど、企業の存続が経済社会の維持に最も効率的かつ効果的かということには疑問が生じる時代になるかもしれない。

現在の経済のような仕組みにおいて企業体が存在する場合は、企業自体を民主化することでSDG'sのような理想を体現する存在としてありつづける可能性がある。

マネーゲームではない社会経済モデルが存在したらどうだろう?

前述の通り未来における経済の分配手法の一つにベーシックインカムがある。ベーシックインカムの場合は配ったあとに回収しなければインフレになるわけで、通常は税制により市場のマネーを回収するのだが、金融機関を介してマネーが巡回するケースもある。

しかし、その手法が全てだろうか?。

例えば公がベーシックインカムを配り、消費者が商品やサービスを消費したときにマネーがそのまま公に戻る仕組みを考えた場合は課税の問題はなくなる。社会主義のひとつかもしれないが、課税を嫌がる人々の持続的な忌避感を回避できるし、仕組みがシンプルなので問題が生じ難い。

ただし、市場経済の要素が小さいためAIなどで完全に調整できるならともかくも、固定化された仕組みになってしまい社会変動に伴う修正が十分にできない場合は経済の硬直性を招かない保障はないので、何らかの柔軟なシステムと並存させる必要がある。

何らかの柔軟なシステムとは何かということになるが、ひとつに市場経済の手法を消費の過程で利用するという方法だが、ある意味においては当然のことかもしれない。

消費に関してはベーシックインカムで適切な需要に応じて経済が廻るが、その需要に応える供給においては実際の経済動向と共に、AIを用いて市場予測をして状況に応じた多様な供給が可能になる柔軟な経済システムをつくることになるのではないか。

この手法の利点は、最初から計画で全てを運営し配給に近いかたちで分配するのではなく、状況に応じて人々が自由に消費できる状況があって、それにより全体の調整がなされることにあり、生産側の利点は効率が最大化するということにある。

市場経済において供給の面で金融機関が果たしてきた機能をAIが担うことになるが、もしかしたらそのAIを政府ではなく現在における金融機関が提供することになるかもしれない。その場合は金融機関は市民に対する説明責任が伴うだろう。

 

AIの担う経済:公的サービス+ベーシックインカム総量=社会インフラ+教育医療福祉+住宅+エネルギー+生活必需品+サービス商品

 

その過程で見えない新たな需要をどのように捉えるか…アンケートや意見募集などを使うだろうけれど…ということや、イノベーションを生産供給にどう反映させるかという、AIではできないだろう柔軟な対応は人的な関与により追加的に常になされていなければいけないだろう。

 


未来における民主主義のありかたとは

需要をAIに予測させて供給を決めるような方法に問題があるとすれば、決定の過程が不透明になることだ。AIが一部の人間に都合よく利用される可能性もあり得て、それが一般市民には分からないかもしれないという懸念がある。

消費において市場経済の手法を導入しても、結局は個人における不透明さが混入し誰かが不正や詐欺行為をしていないかという問題が残るが、それに関しては現在と同様に経済犯罪を取り締まる仕組みが必要かもしれない。

AIの利用の裏に政治支配や経済支配が隠れている可能性から公正さに関する懸念があるということになるが、これを解決して公正で公平なシステムをつくるには、全てを開示して皆で不正をチェックする民主的手法が必須となるはずだ。

懸念の最大のものは見えない独裁にならないかということにあるからだが、現在の民主主義および社会民主主義が、文明が高度化する過程の手前における人を完全に監視するようなことが不可能な人間的な時代につくられたものだから理想を目指すことが容易になったわけであって、これをいま失うと今後は民主主義のような権力に反対できる社会システムをつくることができるか疑問もあり、そこに大きな禍根が残りかねない時代の節目にあるわけだから、現状の民主主義を最大限活用して新たな時代に対応する必要があるだろう。

従来の労働価値観からパラダイムシフトしなければいけないようなイノベーションの時代になっているのだけれど、同時に社民主義フランクフルト学派第一世代が20世紀にナチス独裁を批判したように、この価値観の変動期において問題を最小にして独裁などが起こりえないシステムを維持形成し、理想と現実の狭間で弁証法的解決を見出す必要性がある。

やはり情報公開がその中心になるだろうけれど、一般市民の関心とリテラシーへの啓蒙的な対応を、特定の価値観ではなく思考の基本と社会のあり方を考えるという観点からなす必要もあるかもしれない。

現時点では希望的近未来のなかにある懸念でしかないものだが、パラダイムシフトの足音は着実に近づいているので、いまから社会のあり方の移行のための準備を政治も含めてしておく必要があり、もし成り行きに任せた場合は、大失業時代と不十分な生活保障という恐ろしい状況を招きかねないことに十分に想像をはたらかせ対応する必要もある。

税のあり方から生き方まで全てが変わる可能性があるイノベーションが現在の科学技術情報というかたちで目の前で展開されており、しかし、それに対する政治的な動きは遅く、故にメディアやアカデミックな世界における様々なかたちの抵抗と懸念も大きいように思える。

SDG'sのような新たな動きもあり、世界的には準備が進みつつあるのは確かなようだが、日本においては意識が低く、むしろAIの普及に対する失業懸念ばかりが先行している。

フランス社会党がテロに対し緊急事態を宣言して国民に嫌われて崩壊してしまっているが、当時の党首が非公式にロボット税の必要性とベーシックインカムについて言及していた。リアルな政治としては先を考えすぎたのかもしれないが、その視点は無視することができない重要な示唆を孕んでいる。

現状においてはまだまだ人でなくてはできない労働が多いが、イノベーションのスピードは恐ろしく速いので、どこかで実現性がはっきりするような状況が訪れるだろう。

実際に極めて少ない労働で国民経済を支える生産が可能になった場合は、労働を基本とした価値観では社会の仕組みとして矛盾してしまい、現在とおなじ観念で社会を維持できなくなる可能性があるので、ベーシックインカム生涯学習等の組み合わせによって社会を再構築すべきときに、社会的価値観のあり方までが問われる時代がくるのだろうけれど、もし、従来の価値観を維持するようなことがあれば最悪な場合、雑用をみんながする経済のままになりかねない。

日本では労働の効率より長時間働くことの方に価値を置くような社会が長く続いているようなので、21世紀の本格的なパラダイムシフトにおいては、非常に苦しい経済から抜け出せなくなる懸念があることに大きな危機感を抱かざるを得ない。

だからといって拙速に先走るような対応は失敗を招くだろうから、その場合は致命的に理想から社会が遠のいてしまうかもしれない。

慎重かつ果敢に長期的な議論を展開しはじめなければいけない時代になっている予感があるということだ。

 

 

コロナ禍に際して考える

コロナ禍で世界各国が感染拡大を抑えるために緊急事態状況なのだけれど、それは経済の著しい縮小を招いている。

この状況に関してはテレワークなどの新しい労働スタイルを確立する機会でもあるものの、経済対策をした結果、財政赤字が世界中で急拡大するわけで、このような危機状況が今後にどのような影響をもたらすか長期視点も必要なのだと思う。

例えば過去のスペイン風邪だと世界の3割が感染している。

日本の場合は内務省衛生局によれば1918年8月~21年7月に感染者数2380万人、死亡者約39万人、致死率1.63%という記録がある。日本の人口は5千万人くらいなので半数近くが感染しており、終息に3年もかかっている。
心配ではあるけれど、当時に比べると時代が進歩しており、事前の対応もしているわけで、医療崩壊が最小で抑えれるとすれば、スペイン風邪の規模のパンデミックではないだろう。

しかし最悪のケースだった場合は東京五輪は中止になるだろうし、何とかコロナ禍を終息させても、その後に経済苦が待っている可能性があるということになる。

普通に考えればリーマンショックを超えるような現状がさらに悪化した経済恐慌が発生しただけでも大変な事態なのに、もしコロナ禍が終息していない状況だったケースを想定すると恐ろしいことになる。

故に最悪の事態は回避したいけれど、先を考えて今すべき対応は何だろうか?

こんなことは起き得ないという前提だが、もし万が一でも最悪の事態が世界で起きたなら、大都市では大混乱にも係わらず外出も難しい地獄絵図になるだろうし、それにより経済活動がストップすれば一般市民が食事が十分にできるかわからないような酷い社会状態もあり得るだろう。そういう状況下において海外でも同様の事態が発生していたならば、余裕のある国や国連による支援も十分には間に合わないかもしれないということになりかねない。

このような状況において日本より事態が先行している英国の元首相が、一時的に世界政府が必要だと言っていた報道があったが、彼はきっと最悪の事態を想定したのだろうと思う。

世界政府があれば何でも解決できるとは限らないけれど、余裕のある地域が困難にある地域を救済することがしやすくなることは確かかもしれない。

ただ、世界という広い範囲において様々な価値観や習慣の違う民族が混在するなかで、民主的合意が難しくなることが容易に想像できる構想は無理だし、そこで無理に世界政府のようなものをつくれば強権化しかねないから、人類がやっと勝ち得た民主主義という制度が危機になりかねない。

むしろ平時の備えを充実できる福祉国家体制を構築すべきだろう。

この場合は北欧などをモデルとしつつ独自の仕組みを想定してのことなのだけれど、福祉国家という平時から医療や福祉が充実している体制においては、医療福祉従事者の数が多く病院などの施設の受け皿も十分であるが故に、非常時においても医療崩壊などが起こりにくいというメリットがあるからだ。

これは仮定のはなしだが、各国がそのような体制にあることを想定すると、最初はそれぞれの自国の問題を改善するフェーズがあるだろうけれど、その後に先行して感染し対応を終えて余裕があるところが、問題が深刻なところに人や資材を派遣して、相互協力を超える利他的行為により、コロナ禍のみならず世界における問題の数々を解決できる可能性がある。

世界政府よりはそのような国際的な枠組みを構築することが望ましいのではないかと思う。

 

ちなみに過去現在において僕が考える福祉国家は、ワークシェアリングと時短労働により一人当たりの労働時間が極めて短いことがあり、その結果として雇用数が多くなるため、それにより経済が廻るように最低賃金が十分に高いことが前提なのだけれど、教育福祉系サービス産業により国民経済が有効に機能するものなので、非常時などにも人的余裕があることになる。

教育が無償でその期間の生活保障もあることが前提なので、専門知識を有する市民の数が多くなる社会においては、緊急時に人が不足する懸念も小さいだろう。

例えば複数の看護師が感染して医療に直接従事できない状況が発生しても、従事していなかった有資格者やそれに近い知識を有する生物学や別の医療の知識がある人がいて、その知識が活用できることを臨時に認定することがすぐに可能であれば、医療崩壊は回避しやすいはずだ。

  

福祉国家に関しては、近未来の像も考えているのでそれは後日記載します。)

 

 

 

 

 

補足


 

先日、緊急事態宣言を含む新型インフル特措法の改正があったが、

・国会事前承認という付帯決議程度で合意していいのか?

・事前承認の際に野党が反対の場合は効果があるのか?

・緊急事態の条件があいまいという懸念。

などの問題があり、もし法令順守や人権に対する意識が低い政権がそれらを濫用した場合の懸念に十分に考慮すべきで、何らかのかたちで権力を監視する機能の強化が必要。

  

緊急事態に関する法律として、警察法災害対策基本法原子力災害対策特別措置法新型インフルエンザ等対策特別措置法国家安全保障会議設置法 、武力攻撃事態等及び存立危機事態法・国民保護法、公文書管理法がある。
このうち公文書管理法を除いた全ての緊急事態を解除する為の法律を設けることはできないのだろうか。

(公文書管理法を除くのは、公文書をつくることを止めなければ危ない事態を想定できないから。)

 

その後に、コロナウイルスが拡散しないように関東関西等の7都府県(東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡)に緊急事態宣言がなされ、名古屋飛ばしといわれていたが、愛知県・岐阜県三重県・石川県・福井県香川県が独自に緊急事態を宣言している。感染拡大の抑制に効果が十分あることに関して期待する。

だからといって経済危機などが重なってかつてのような暴走を政府がしない保障が完全にあるわけではないので、第三者に止める権限も必要と思われ、今後の対応が望まれる。

 

 

 

 

 

補足2


 

一般に届かぬ百兆何処廻る
  緊急事態も意味なきゃいいが (時事短歌)

 

政府が108兆円の経済対策をするらしい。

国民ひとりひとりに百万円近く配れるレベルの規模だ。

にも係わらずかなりの収入減があって初めて30万円ということで、実際は産業界に多額の税金が流れる。企業を守るのもいいが、消費不況は消費者の側の視点が必要だ。

消費者の視点から経済対策をした場合、外出できなくても一般商店などがネット通販をはじめたり、新たなアイデアで経済が生まれるなどし、またテレワークが広がり、新しい時代に社会が適応するようになるわけで、政府もそれを期待しているわけだから、基本的な観点から経済対策をした方がいいだろうにとは感じる。

要するに野党案を丸呑みした方がよかったのではないかということ。

コロナ対策に関しては拡散を抑制して感染ピークを低くする手法がなされているけれど、それにより医療崩壊を回避することで致死率を下げる効果が期待できるから自然免疫より優先されるので理解するけれど、五輪開催までに終息できるかという疑問もある。しかし当然のことだけれど命が最優先されるのは当たり前なので難しい状況なのだと感じる。

 

 

 

 

補足3


 

こんな時代は大変だと思う。

しかし、ダメだけど頭も性格もいい人が多い左派たちが生きやすい社会ってどういうものだろう?と考えてしまう。

もっと端的な表現だと障碍者さんたちにとっても生きやすい社会ってどうだろう?ということもある。

それらを前提とすれば、どんな人でも快適に生きていける社会がそれだということになる。

日本がややおかしな国なのはアンケートや予算配分、格差などのデータを国際比較して検討すれば分かること。

その結果分かるだろうことは、左派を大切に、ということだろう。

困難を乗り越えて、時代よ変われ!

 

(近未来における)リベラルな社民主義を望んで

社民主義を支持している。同時に社会自由主義としてのリベラルも重視したい。

一般に社会主義から派生したとみなされる社民主義だが、マルクス経済学にフランクフルト学派政治学が融合したものであると考えているが、そこに社会進歩と平等の理想が民主主義を通して現実可能な目的として存在する。

一般に平等か社会発展か経済成長かという議論があるが、平等であれば皆が貧しくてもいいというわけにはいかないだろうから、皆が健康で文化的な生活をする権利を満たして平等であることを目指すべきであって、そのためには社会的市場経済という市場経済の恩恵を享受しつつ再分配により市場の歪みを是正するという手法が、皆が豊かで平等になるという観点からは重要であり、そのうち社会発展と市民の幸福に必要なものをどのように導入するかを考慮しなければいけないから、社会自由主義という視点も求められると考える。

具体的な例を挙げれば、フリーソフトオープンソースの概念が自由なネット空間において個人の情報を得る権利を大きくしていることがあるだろう。この恩恵は計り知れないものだ。

そういったサービスにおける自由に関しては、個人の権利を侵害しない保障や規制も求められるが、オープンソースの世界においては、ソースコードが公開されていることが前提になっているため、個人情報の侵害を防止することが容易になる。

21世紀においては日常生活に必要な家電などの物質的な発展は一定水準に達しており、日本がその先端に長くいたことから分かるのは、必要とは思えない機能による付加価値の追求には限界にあって、同時に例えば壊れやすい部品をつけることによる買い替え需要で経済を維持するような手法は望ましいものではないわけで、物質的なモノの提供という観点においては本来は丈夫で長持する機器を流通させる義務が企業側にあって、すでに経済の発展はサービス産業に依存するという段階にある。

その際に、格差がある社会であっても多くがサービスの恩恵を受けなければ経済は大きくならず、格差を是正することが社会発展に重要であって、同様にフリーソフトやシェアリングエコノミーの発想も格差のある社会で基本的人権を満たす上では必要だが、それらもイノベーションによる社会発展に寄与するわけで、それらを総合して進歩が実現していくのだろうけれど、それは格差のある社会でも発展するためという理由では社会として乏しいから、やはり根本的な富の再分配や、AIとロボットが産業の中心となるにつれてベーシックインカムの議論も今後されていくはずだが、その過程でAIによる支配のような懸念を払拭できるような新たな権力監視システムを模索しつつ、平等と民主主義および平和と博愛の理念を求める努力は続けていくべきだろう。

(現実的目標になり得る)福祉国家を目指すべきことに関して

2009年にリーマンショックが発生したが、それはそれまでの新自由主義中道右派)の勢いが強かった格差社会の時代の終焉の予兆であった。

一般人や弱者の視点が反映されてなかった政治に逆に中道左派の穏健な平等主義の観点の再導入が必要と感じていたが、丁度、民主党政権ができていく過程でのことだったので、社民主義やソーシャル・リベラリズムの主張をする中道左派系野党の応援をしていた。政治に関してはひと通り政策の基本的なことをわきまえつつ、国際比較の視点で北欧の社会と制度が優れていると考えていた。ずっと、日本社会の行き詰まりと社会問題を見てきて、その解決策は何だろうかと考え続けていた結果、パズルが上手く嵌る手法が明確にあり、それが偶然ではないだろうけれど北欧社民主義国家のあり方に類似していることが分かったので、その利点と課題を捉えていた。
当時の新自由主義中道右派)の勢いが強かった格差社会において、一般人や弱者の視点が反映されてなかった政治に逆に中道左派の穏健な平等主義の観点から世直しが必要と感じていたが、丁度、民主党政権ができていく過程でのことだったので、社民主義やソーシャル・リベラリズムの主張をする中道左派系野党の応援をしていた。政治に関してはひと通り政策の基本的なことをわきまえつつ、国際比較の視点で北欧の社会と制度が優れていると考えていた。ずっと、日本社会の行き詰まりと社会問題を見てきて、その解決策は何だろうかと考え続けていた結果、パズルが上手く嵌る手法が明確にあり、それが偶然ではないだろうけれど北欧社民主義国家のあり方に類似していることが分かったので、その利点と課題を捉えていた。

北欧のような組織率の高い全国労組が日本にない問題を解決するために、中小企業の横の連携により大企業並の交渉力を作る仕組みと、非正規や中小零細企業の全国労組のような組織の必要性を痛切に感じていた。それ以外にも、主に左派側の考え方であった短時間労働や同一労働同一賃金ワークシェアリング、社会的セーフティネット、クォーター制、教育無償化、医療福祉の充実などが、如何にいまの社会の問題を連動的に解決するかという観点が重要と思われた。ただ、福祉国家である大きな政府において富の再分配に関しては、富裕層を含む一般市民の全体でされるべきか、それとも富裕層もしくは高所得層から低所得層へされるべきか、大企業に負担を求めるか、それとも肥大化した金融市場に課税すべきか、それらの優先順位はどうすべきか難しい課題だ。

経済においては左派政策としては異論はあるかもしれないが、(かつての英国における左派政策としては順応性があるかもしれない)比較優位の観点から地域や工場などでの役割分担と生産性を向上させるための賃上げとニーズに応じた研究開発投資、時短労働とシェアワークによる失業対策、および余暇の充実からくるサービス消費の増加、福祉への産業転換による富の再分配と、モノではなく人への投資による社会の発展など、総合策が必要だろう。

ケインズ政策は投資をすればただ穴を掘っても経済が大きくなるという比喩がいわれるものの、財源は税金なのでニーズ無き分野への課税による投資は好まれないから、大きな政府による経済発展を考えればニーズのある福祉や教育への人的投資を重視することが望まれ、そうであれば市民にその理解を求めることで増税への寛容な態度も生まれる可能性があり、穴を掘るよりは効果的かつ継続的に社会を発展させることができれば世の中も変わっていくだろう。もちろん、食料と資源の輸入分だけは外貨を稼ぐ必要があるので、第2次産業の重要性は変わらないが、雇用に関しては限られるため、そこについてのみは社会への供給と外貨獲得のためという割り切りと競争政策が必要だ。エネルギーについては近い将来に自然エネルギーで全てがまかなえる日は近い。

前述のように日本は第一次産業が弱いので第二次産業で補いつつ、第三次産業、なかでもニーズのある福祉分野で富の再分配を通じての信用創造をすることにより、社会、経済を継続的に発展させることは可能だし、新たな福祉サービスが拡大するに従って再分配により使われず眠っていた資金が投資されると、その分だけ経済が大きくなる。人への投資であるため、他国の産業を侵食することも、途上国の発展を阻害することも、第三世界の資源を奪うこともなく、我が国の福祉が充実し救われる人がサービスを受ける側と雇用される側の両方に恩恵があり、サービスが増えたところへの再分配による信用創造は当然だが経済を大きくするので税収も増えるし、将来のためとはいっても十分に使われることもなかった貯蓄が国の福祉サービスに変わることで、より安心が享受される。

しかし、もし新自由主義のように十分な再分配なしに上記と同じようなことを、持てる者(富がある者)の間だけですることによって経済を拡大することは、功利主義における最大多数の最大幸福では正しさの範疇に入るのかもしれないという皮肉もいえるが、それは格差をまったく考慮しておらず、一部が貧しくとも他が豊かで全体の富が増えれば幸福という欺瞞であり、20世紀後半から21世紀初頭の日本やアメリカの社会に近い。極端な話だと、サービスが0だったひとが5のサービスを受けることは、既に30という十分過ぎるサービスが35になることとは同じではないという話であるくらいのことは、誰でも理解できるだろう。最大多数の最大幸福よりは、最小不幸、もっといえば全員幸福を目指すことがより望ましいということだ。

そのような発想での政治経済の政策が成功すれば、平等と経済成長が両立する。ぜひともこのような手法を採用すべきだろう。

そういったことを実現するために、民意に即した比例的な選挙制度と、既得権益者に民主主義を歪められないための企業団体献金及びパーティ券の禁止と、不正を防止するための情報公開の徹底も望まれる。

これらの意見は、現在の立憲民主党に近い立場のものだが、民主党時代の彼らが忘れてしまったよき価値観を含むものである。(当時の僕は民主党内左派および社民党を支持していた。)

理想的な社会にするために僕たちは何をすればいいだろう

目次
1. 我々は何を前提に真実を捉えているのだろう?
2.啓蒙の是非と民主主義のための開かれた社会における透明な議論の重要性
3. 民主的コミュニケーションにおいて理想と現実をつなげる

 

 

 

1. 我々は何を前提に真実を捉えているのだろう?

フッサール現象学的還元におけるエポケー(判断中止)や西田幾多郎純粋経験などに代表される認識論のなかにどのように真実を捉えるべきであるかという考え方がある。

それによると、ものごとを捉えた際に意識による何らかの付加がつけられる前の認識状態は、とりあえず真実として理解できるものであるということが言われる。

現象学的還元においてはエポケー(判断中止)から脳が認識を意識化する過程で、意識により何らかの付加価値(ノエシス=意味付与)がつけられて意味(ノエマ)が生じている。

 

エポケー (出典:マイペディア)
ギリシア語で〈判断中止(停止)〉の意。古代ギリシア懐疑論者,とりわけピュロンは哲学上の論争において徒労に終わる真偽の判定を避けるべく,デカルトは真の認識に至るための精神指導の規則として,さらにフッサールは〈現象学的還元〉の対概念としてこの語を用いた。

 

葛藤や苦悶があるときに人は心的防衛機制が働くが、その中に合理化といものがある。都合の悪い矛盾を正当化することだが、そのときの葛藤から逃れるだけで、長期的には問題と向き合わないため解決ができなくなる可能性があり、よって正当化は避けるべきで、社会的に評価されるものに昇華した方がいい

心的防衛機制については、認識段階で付加された認知の歪みではなく、認識をした結果として受け入れがたい事実に遭遇したときに、それについて人がどのように心を守る傾向があるかについて類型化したもの

 

フロイト精神分析における心的防衛機制

・否認
 都合の悪い現実を否定する。事実を正確に把握できなくなる。

・投影
 相手との立場をすり替えて、自分の気持ちを相手の気持ちであるかのように思う状態。相手を誤解することになる。

・同一視(同一化、取り入れ)
 相手の好ましい部分(態度や行動、服装など)を自分のものとして捉えて取り入れる。若いときにアイデンティティを構築する過程でも見られる行動。

・合理化
 自分の行動や態度を正当化するために言い訳や論理的な説明をすること。事実との乖離があれば問題になり得る。

・抑圧
 都合の悪い感情や欲動、記憶を抑え込んで無意識化すること。不安障害などの原因になり得る。

・隔離
 自分の考えと気持ちが切り離されること。つらくても淡々と事実だけを捉えたりするが、結果として強迫性障害に繋がる。

・反動形成
 自分の考えとまったく逆の態度をとること。例えば嫌いな人に過度に愛想よく接したりする。社会適応のためにはある程度は必要な要素ともいわれる。

・昇華
 満たされない欲求を社会的に受け入れられるものに置き換えること。不満などのエネルギーを自己実現のための努力や社会的に認められるものに向けること。

通常は以上のような心的防衛機制により自己のこころを日常の不合理や認知的不協和(心的矛盾)から守っている。

 

フロイトは無意識の世界(潜在意識)を発見した精神科医であり、人が抑圧して認識できない無意識領域が様々な問題に繋がると考えていたようだが、実際には自動化された思考による認知の歪みが日々の問題の原因にあって、それが抑圧された感情として累積した場合に、問題を伴う行動に繋がるとシンプルに捉えた方が分かりやすいかもしれない。

後で説明する「認知行動療法」は、無意識領域を問題にせず、自動思考によって認識に付加(ノエシス)される認知の歪みを捉えてそれを改善するものである。

エポケー(判断停止)や純粋理性により、ありありとしたリアルな真実を、何らかのかたちで歪んでしまう意味付与(ノエシス)が全くないまま客観的に捉えることができるかは、実際のところは分からないし、現実的にはどうしても人間である限りは何らかの歪みが認識に生じてしまうだろう。それが個性ということになるが、その歪みがあまり大きくなければそれほど問題ではないということになる。

エポケーというのは、そういった歪みの生じる前の段階でものごとをありのままに認識することを前提に事実を捉えるという考え方なのだが、ノエシス(意味付加)における認識の個人差に関しては、認知の歪みを是正することが正しくものごとを認識するという観点からは課題になるだろう。

 


 

ここでは実存問題や認識論ではなく実社会における認識や認知のあり方と問題について考えたい。

一般の生活においては、人が自然にしている上述のような心的防衛機制で特に問題が生じていなければいいが、それが過度に働きすぎている状況は心理的な葛藤が無意識領域に存在して、自分の思わぬところで問題が起こりかねないため、後で説明をする自動思考における認知の歪みを知り改善する「認知行動療法」の手法は様々な問題の解決に繋がる。

社会心理学の用語になるが、人には内包的特性理論といって既存の概念を認知に結びつけて理解する特性があり、例えば第一印象で人をある程度判断してしまう。その際もフッサールのいうノエシス(意味付与)が働いていると考えられるが、やはりどうしても人にはある種の先入観があるということになるだろう。

先入観というのは事実を誤った認識で捉えたときの理解からくるものでもあるが、それを避けるためにデカルトは「全てを疑え」と主張し、フッサールはエポケー(判断停止)すればいいという発想の転換をした。西田幾多郎は禅における瞑想から純粋経験という自我を抑制した客観的で先入観のないところでものを捉えればいいと考えた。

一般レベルでは、何もかもを疑っていては疑心暗鬼により日常生活に支障をきたすわけで、哲学者でもなければエポケー(判断停止)して実在論を回避する必要もなく、禅の瞑想による純粋経験を体験して真実に迫る必要もないから、何が真実か分からない状況に遭遇した場合は、○は、△なのかもしれないが、△ではないかもしれない、という中立の観点から、明らかに事実であるという真実が判明するまでは留保(ペンディング)しつつ、不要な誤解を避けるようにした方がいいだろう。

少なくともデマやフェイクニュースなどの情報に関しては、真に受けないようにするか情報ソースを調べる必要がある。

我々が生活する世の中には様々な情報が飛び交っているが、それについて考えるときには考えることで答えが得られるものと、そもそもの情報が不確定で考えても答えが得られないものがあるので、考えても答えが得られないものについては余計に思案したり考えたりしない方が望ましいし、不確定の情報に関してはどうでもいいものは無視して、どうしても無視できないものに関しては留保しておけばいいのだと思う。

それでも人は何らかの情報を得たときに、どうしても先入観が入り込んでしまう傾向があるのは否めない事実だ。

先入観の原因のひとつに偏見がある。偏見とは根拠なしに何かを決めつけていてそれが正確ではない状態であり、その人の価値観やその時の感情状態が認識の歪みに影響する。

偏見のひとつである感情バイアスは、事実が正確に分かっていても、感情によってそれを肯定的もしくは否定的な方向に理解して認知が歪むことである。感情は人にとって大切な要素であり、それ故に適度に抑制し制御しておかなければ、場合によっては事実認識が歪んでしまう懸念があるため、なるべく穏やかな感情状態であった方がものごとに惑わされ難くなるだろう。

常にあらゆる情報を得て判断することなど通常は不可能であるから、そのときどきで適時適切にものごとを捉えていくために、既存知識の網にある関連情報に基づいて理解する(内包的特性理論)ことで先入観に繋がってしまう。先入観が認識として固定化されずに修正されていけば、それは予断だったということになる。

最初の段階における先入観で認識を固定化することなく、事実が実際はどうであるかを再認識し常に微修正し続けることが、誤解や偏見などの歪みが小さくなる認識に繋がり、日常におけるトラブルも減少するだろう。

人が人であるが故に、新たなものごとを既存の知識に基づいて理解するとが先入観に繋がってしまう傾向があるなら、本質とは何か、本質を認識することができるのだろうか、という疑問も浮かぶかもしれない。

ものごとの本質とは、変化する現実のなかで、一定程度の普遍性が認められる変化しなかったものだが、その他の変化していく事象を捉えたときに、どうしても生じる認識の歪みに対しては修正を続けなければ正しい理解とはいえない。

 


 

※物事を捉える際に、絶対視点と相対視点という観点がある。本質論は普通は絶対視点で捉えるものであるが、マルクス・ガブリエルのように世界を認識する人の中の世界も実際にある世界も同時に認識している事実であり相対視点のそれぞれが真実であるという価値観も、仏教哲学における空の思想のようにあらゆるものが諸行無常諸法無我であり変化し相互に関係しているという視点も、どちらも相対視点にもかかわらず本質であるから、以下の内容に関しても同様に多角的な視点で捉えてもらわないと誤解が生じるのだが、この場合は人間存在と社会という2つの視点から本質を捉えなおす作業をしている。

サルトルによる「実存は本質に先立つ」という有名な言葉がある。

実存は本質に先立つとは、生きているという人間的実存があり、それによる自由意思に基づく選択が先にあって、結果として本質が生じていくという意味。

あくまで個人における心象景としてはそれが真実であるにしても、個人の自由意志は最大限尊重するものの、その個人がものごとを認識して判断するより前から社会は存在し、また同じ時代を構成する人々も多様であるから、実際は社会としての本質は個人がそれを見出す以前から存在しているということがいえる。

しかし、例え本質であっても、それを社会の本質という限定した捉え方をした場合は、その時代ごとにより優れた社会モデルが提供されることによって徐々に変化していくと思われる。

自由意志については尊重したいので必ずしも自由意思を批判する意見ではないし、同時に本質を固定的なものとして捉えていないことは前述の内容からも理解されると思う。

生きている人間の実存という意味では、もともとがそれぞれの独自の人の自由意思がある自然状態の時代から、徐々に社会が形成されていった過程で、様々な人の営みとその衝突を経て、人権が認識されるようになったが、人々が安心して生活していくためには人権相互の衝突を避ける必要性があることからも、法治と民主主義が現在における人間社会の本質になっていったという歴史が人類には存在する。

人間的実存を守るための本質として民主主義や法治があるというのが現在の社会ということになる。故に実存ばかりを重視して本質を蔑ろにすれば、人権相互の衝突が社会全体としての格差として生じかねない。

これは自由意志を尊重する自由権と、それに伴う格差を是正し福祉を重視する社会権の両方が、社会の幸福にとっては共に重要な基礎的概念であることを示唆する。

現状においては自由権社会権も発展途上であり、日本では特に後者(社会権)の意識が遅れていると感じるものの、昨今では自由権も危うくなっているのではないかと懸念する政治事情が続いている。

 


 

フッサール現象学的還元や西田幾多郎純粋経験認知心理学脳科学の知見などからも、人がどのようにものごとを理解するかが分かるが、たとえ実存が本質に先立つとしても、人間的実存がものごとを理解して選択する過程で、その認識に誤りがあっては結局は道に迷うばかりになってしまうだろう。

前述しているが社会心理学における内包的特性理論といって、知らない人を理解するときなどに、その人のもつ既存の概念がそのときの認識に結びつけられて推測されるという特性が人にはあって、そのようなノエシス(意味付与)があるがために先入観や予断、偏見に繋がっているという問題は、それが実存における自由意思においては尊重されなければならないものであるとしても、それぞれの認識の歪みが結果として社会が本質を捉えることを阻害してしまう。

民主主義における言論の自由だが、事実とは異なる認識に基づくものやデマは修正されるべきであり、また言論活動もあくまで他者の人権を侵害しない範囲でなされるべきものなので、自分とは異なる意見を尊重し相手の意見を理解する努力を伴うものである。

自由言論であっても論理的に矛盾している場合は、正当化などをせずにその矛盾を解消するための努力が必要だろう。

論理的矛盾や言論を歪めることにもなりかねない先入観および偏見に繋がるものとして、前述した感情バイアスとは別に認知バイアスがある。

その構成要素のひとつに偽の合意効果というものがある。

偽の合意効果とは、他の人々も自分と同じように考えていると思ってしまう心理的傾向により、その結果として存在しない合意があるかのように感じてしまうというもの。

事実とは異なるから偽のという枕詞がついており、集団において何らかの問題が生じるきっかけとなりかねない。

偽の合意効果が利用され集団や権威への同調圧力と化せば忖度や斟酌のある状況に繋がり、権威がそれを強要した場合は追従、服従といった民主主義とは相反する方向の社会になりかねないため、自由権立憲主義などを重視し、権力が独断的にものを決めることを否定し、独裁を回避する政治システムが必要になるというのが人類が歴史上経験してきたことだった。

かつて日本は村社会ともいわれて同調圧力が極めて強い社会だったが、それはある意味では同調や迎合をしない者への排他性に繋がる世界である。

そこで疎外された社会的弱者や不遇の人を救うためである社会権と、同調圧力に屈さない自由権は、日本社会にとっても非常に大切な概念だろう。

(前述の疎外は単に除け者にされるという一般語義で使っているが、哲学的概念の人間がみずから作り出した事物や社会関係・思想・資本などが、逆に人間を支配するような疎遠な力として現出し、人間が本来あるべき自己の本質を喪失した非人間的状態という意味とは異なるものの本質は同じかもしれない。)

偽の合意効果は情報が少ないことによって自己利益のための恣意的理解もしくは先入観や同調圧力から生じるものであり、故に、十分な情報に基づいて心から他者の考えが正しいと認め自分の行動を変える私的受容とはまるで異なる。

(これもフロムによる疎外(人間が自分自身を例外者として経験する経験様式)への対応における類型の一つである格差社会権威主義を従順に受け入れ抵抗しない者である受容的性格の受容とは異なる。前述の受容はフロムの類型であれば互恵的・利他的な生産的性格に近い概念となる。)

自由権社会権などの権利を実現する仕組みとしての民主主義は、多様な市民の価値観の上に成り立つため、それぞれの思想言論の自由を尊重しつつ、その言論の前提となる情報の正確性の重要さはいうまでもないが、それらの情報を捉える市民が客観的な理解をするための情緒的スタンスとでもいえる偏見や先入観に惑わされずにものごとを捉えるための中立で客観的な情動教育のようなものが、思想的中立を前提になされるなら、民主主義が実体を伴うものとして実現可能になるはずだ。

デマやフェイクニュース、忖度政治、改竄、公文書管理のあり方、汚職などが社会問題となっていることも、情報を客観的に評価することの重要性や、偏見による認知の歪みと、同調圧力の存在の問題を、再認識させられるきっかけとなっている。

 


 

認知の歪みを修正するためには、健康な人の生活と精神衛生の向上にも有効で、鬱病パニック障害強迫性障害などの治療に使われる認知療法が望ましいのではないかと感じる。

認知行動療法は自分で自分の認識の傾向や特徴を捉えて客観的に自己の認識の癖を知り、自分から望ましい方向に修正するというもの。

自分で自分の考え方の癖を捉え、それを自分の意思で修正し、自分の人生と周りとの関係をいい方向にもっていくという認知行動療法の手法は、強制性も思想性もないので信教の自由に抵触しないから、道徳教育とは異なり、たとえ公教育に導入したとしても問題はない。

社会一般に広く普及すれば様々な問題が治まっていく可能性はある。

認知行動療法をするにあたっては、人の認知がどのように歪む傾向があるのかを知って、自分が改善すべき認知の仕方と、日常においてそれが具体的にどのようなかたちで現れているかを捉えて徐々に改善していくことになる。

日常でそういうことを意識して改善するだけでも、人生が拓かれていくかもしれない。

【認知の歪み】(ウィキペディアを参考に)

・全か無かの思考
 物事を全てを白か黒かの極論で認識する。常に、すべて、などの言葉を使う傾向があるが、極論であり全体性を喪失した認識になる。

・心のフィルター
 物事全体のうち、悪い部分もしくは良い部分の方ばかりに意識がいって偏った評価をすることで、総合性とバランスを失う。(選択的抽象化)

・拡大解釈、過小解釈
 失敗、欠点、脅威を実際よりも過大に受け取ったり、逆に成功、長所、チャンスについて実際よりも過小に評価する。

・マイナス思考
 良いことを無視したり、悪くないことでも悪く解釈してしまう傾向。感情バイアスや認知バイアスなどの偏見が強くでていて固執しているような状態。

・感情の理由づけ
 単なる感情のみを根拠として、自分の考えが正しいと結論を下すこと。感情バイアスが強い場合、それが事実とは異なっても感情に即した理解が正しく感じられる現象。

・行き過ぎた一般化
 根拠が不十分なまま少ない情報からの先入観により、対象を一般的なものと判断すること。

・レッテル貼り
 偶然の出来事でも、既存の概念に結びつけて理解(内包的特性理論)して、事実とは異なるレッテルを張ること。

・論理の飛躍
 心の読みすぎ:他人の言動から内面を推測し否定的なものを読み取る。論理的にはあり得ても根拠が不十分なことが多い。
 先読みの誤り:物事が悪い結果をもたらすと十分な論拠もなく飛躍して推測すること。

・誤った自己責任化(個人化)
 自分がコントロールできないような結果が起こった時、それが良い悪いに関係なく自分の責任とすること。

・~すべき思考
 状況に関係なく特定の道徳や倫理を期待したり義務付けること。

上述のような、人が陥りやすい認知の歪みに関する自動思考を認識できるかが、自分では自覚できない問題を解決するためには重要なポイントになる。

 

自分がどのような認識の傾向があるか、無意識にどう認識しているかを把握し、それを改善していくのが認知行動療法である。

認知行動療法における認識の再構成

・普段の日常で出来事が起きたときに頭に浮かぶ考えや状況に対して自動思考となっている解釈を捉えて認識できるようにする。

・それらの思考を一つ一つ客観視して、それらが状況に対して合理的な評価かどうかを判断できるようにする。

・自動思考による非現実的もしくは不合理な考えを、現実の状況をより良く反映し自分自身に助けとなるようなかたちに言い直す。

・より現実的な思考に基づいて行動することによって、自分自身に助けとなるような考えを段々と実践できるようにしていく。

(感情に惑わされず客観的になるために、息を普通に吸ってからゆっくりゆっくり吐くということを意識して、瞑想に近い脳活動状態できれば理想的だろう。)

 

多様な個々人の人格の形成において、認知の歪みが少なくなるように認知行動療法を標準化して導入することは、この手法が個人の価値観に関係のないものであるため、個人の価値観への介入にはならず、故に多様な価値観の現代において個人の人格の確立が好ましいものになり、それぞれが丁寧に対話し議論を重ねて民主主義を形成すれば、社会が自由と平等において調和した理想を目指すことを阻害しないどころか、過去の理想主義を目指した改革の失敗の数々を乗り越える可能性があるかもしれない。


【補足】

認知行動療法は自身の問題を解決するためのものだが、他者との関係においては以下に説明する「アサーティブネス」という考え方がある。

言いたいことが言えずに意思や権利を自分自身で守れないような「受身的な自己」ではなく、また、相手の権利を尊重せず自分の権利ばかりを主張する「攻撃的な自己主張」でもなく、「アサーティブネス」とは、相手の自己主張する権利を認め自他を尊重して自分自身の意思や権利を主張する態度ということになる。

 

アサーティブネス(誠実な自己主張)権利章典
・あなたはあなたが何をし何を考えるか判断する権利を有する。
・あなたはあなたの行動について理由や弁解をしない権利を有する。
・あなたは他の人の問題の解決方法を見つける責任を負わない権利を有する。
・あなたはあなたの考えを変える権利を有する。
・あなたは間違う権利を有する。
・あなたは「知らない」と言う権利を有する。
・あなたは自分で自分の決断を下す権利を有する。
・あなたは「わからない」と言う権利を有する。
・あなたは「どっちでもいい」と言う権利を有する。
・あなたは罪悪感を感じずに「いやだ」と言う権利を有する。


相手を尊重しながら自己主張をする権利を有するという民主主義社会では当然のことも忘れてはいけない。

(公共の福祉を人権相互の衝突の回避と捉えるかは学者によって見解が分かれるが) 相手の人権を侵害しない範囲での自己主張は、自己の権利を守るために必要なものである。

 

 




 





 

 

 

 

2. 啓蒙の是非と民主主義のための開かれた社会における透明な議論の重要性

啓蒙(蒙(くら)きを啓(あき)らむ)とは、人々に正しい知識を与え合理的な考え方をするように教え導くことだが、近代以降の市民社会において、各人が自分で判断する能力を身に付けることを促す啓蒙思想が広まり、理性によってものごとを合理的に捉えようとする傾向が強まった。

しかし、その後にナチズムという民主主義がつくった化物を近代社会が経験したことから、ユダヤ系の知識人が多いドイツのフランクフルト学派はその端緒となった「啓蒙の弁証法」を著し、啓蒙思想における問題を提起する。

啓蒙は神話や暴力を克服するためであるのに、結果としてナチスのような思考が明晰なままの妄想である民族主義パラノイアともいえる新たな神話や暴力を生み出したのは、啓蒙が道具化した理性となり、個々人の質を単なる量へと還元し、文化的な画一化による管理された世界を招いたことが問題の本質であったとした。

僕には本来の啓蒙という語義における基本概念とその本質的なあり方にまで問題があるとは思えないのだけれど、それは近代の理性中心の合理主義によって人間は完全ではないのに問題のある者が自らを完全であるかのように妄想的に捉えた結果としてナチスのような独裁が生まれたという事実が問題であり、そうであるなら問題の本質は啓蒙ではなくて独裁と強権それ自体にあって、故に問題を独裁と強権だけに限定することで、啓蒙が問題であるという捉え方を回避して、理想を目指すことを容認した方がいいのではないかと感じたからだ。

啓蒙という名の下に自然を征服し合理的な世界を建築しようとすることに無理があることは同意しつつ、また、人間の理性の限界も意識しつつも、一般市民が民主主義および市民社会における自由と人権や社会権を尊重して理想を目指す行為を尊重するという、現在では常識となっている観点を重視する意味における啓蒙は、現代においても重要な価値観ではないのだろうか?

しかし、ポストモダンでは理性や真理などが実際に存在するとは限らないとされる。

ポストモダン以前の構造主義は言語構造が無意識のレベルで主体を規定しているというものだが、それ故に我々は構造に無意識的に支配されていることになり、実存主義が自由な主体意識を重視していることと構造主義は対照的だ。

構造主義マルクス主義が衰退していったときに、経済が土台となっているというマルクスの下部構造部分を無意識における言語構造に替えたかのように見えるが、経済構造を改革すれば上部構造を変えられるという価値観の放棄でもある。

実存主義サルトルなどによりマルクス主義の政治参加(アンガージュマン)というかたちで革命への闘争性を一部踏襲しているように思う。

その後に現れたポストモダンに関しては、大きな物語の終焉により真理のようなものが存在しないとしており、そのため相対主義の立場である。デリダは革命とは異なり序々に社会の古い構造を再構築することを重視する脱構築を主張している。

まるで全てがマルクスをどう扱うかの違いというところに収束しているかのように感じるが、マルクスという人が思想の世界においては巨人であったということだろうけれど、必ずしもマルクスとは限らず、単に平等と権力のあり方、および自由に関する民主主義がどのように存在すればいいかという普遍的な課題がそこにあるからだろう。

個人的にはこういった左側の思想を書いていても、革命という考え方には、その先にある種の暴力行為が伴ったり、その後の反動形成などの懸念があるため、民主主義(社民主義)という穏健な手法による社会問題の改善を希望している。

フランクフルト学派は、全体主義における独裁を問題視しつつマルクス思想をソ連などとは異なる西欧の側の民主主義を中心とした価値観で踏襲し、平等や民主主義の理想をどのように追及するかを模索している。

フランクフルト学派による「啓蒙の弁証法」においても道具的理性という概念により理性の批判をしているが、しかし、理性それ自体を疑ってはいない。同じくフランクフルト学派のハーバマスは、ポストモダンの近代理性批判そのものが彼らの批判する理性によるものであることを問題視した。

社会の複雑性と民主主義のあり方からすれば、理性によって一定の方向に社会を誘導する啓蒙という価値観には、理性と合理主義の限界という点から問題があっても、カントの時代ですら合理論と経験論を道徳を目的とする定言命法により乗り越えており、また、フランクフルト学派による近代への道具的理性という批判も、同じくフランクフルト学派のハーバマスのコミュニケーション的理性という概念で補って克服できることから、それにより理想主義を問題視すること自体が意味をなさないのではないかと考える。

ハーバマスはウェーバーの合理性概念を再解釈して、近代理性が追及した合理性はそれぞれの文化領域の自立化をもたらし、それにより統一性が失われた結果として、各文化領域のズレが生じて、誤解等による非合理的な闘争を招いたことから、相互理解に基づくコミュニケーションを重視した(コミュニケーション的行為)。

 

コミュニケーション的行為
現代ドイツの社会哲学者ハーバーマスの用語。権力や貨幣といった何かの力によって相手の意思決定に影響を及ぼそうとする「戦略的行為」とは異なり、自分が表明する考えや意思の内容自体に対して、相手の自由な納得と承認を求める行為のことをいう。例えば「水をもってきてください」と教授が学生に頼むとき、それが権力関係にもとづく脅しでなくコミュニケーション的行為であるとする。その際には、「水が近くにあるはずだ」(真理性)、「私の発言は命令ではなくお願いであるから、不当な行為ではない」(規範の正当性)、「私は正直な気持ちを語っていて、そこにウソはない」(主観の誠実性)という3つの点について、暗々裏にその正しさを主張し相手の納得を求めているといえる。だから相手は、そのどれかに納得できないときには反論し議論することができる。こうしたコミュニケーション的行為の重要性をハーバーマスが主張するのは、人間同士が自由に考え納得しつつ互いの関係を作り上げていく可能性を求めるからであり、その点で彼は、近代が求め闘ってきた自由の理想を継承しようとする。その姿勢はまた、「どこにも真理などない」と考える傾向のあるポストモダン思想に対して、絶対的な真理とはちがう「合意されるかぎりでの真理」を、積極的に擁護することになる。(出典:(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」:西研 哲学者 / 2007年)


相互のズレを補いつつ理想をコミュニケーション的行為で目指すのは、ポスト構造主義者のデリダ脱構築のあり方と大きく違わないのかもしれない。というのは各文化領域のズレという観点においては、デリダが、同じ言葉(音声言語=パロール)が繰り返し反復される過程(原エクリチュール)で生じる差異とその時間経過による差延という概念を扱い、また、脱構築デコンストラクション)によりものごとのズレから真実を浮き上がらせて再構築につなげる価値観を提唱しているからだ。

ただ、ハーバマスによると、デリダ脱構築は解釈の残滓を積み上げることで、逆に露わにしたい基底部が埋まってしまうものであるとの批判がなされている。デリダは、透明性、民主主義的討議、公共空間におけるコミュニケーション、コミュニケーション的行為などは、こうしたものに好都合な言語モデルの押し付けであるとハーバマスを念頭において反論している。しかし、両者は2003年のイラク戦争における空爆への批判を共同声明というかたちで発表している。ハーバマスは論敵から学ぶ姿勢がある識者なので、そのあたりが関係しているのだろう。

近代合理性がもつ権力による戦略的な主体が中心となる道具的な理性への批判と、その問題を回避しての啓蒙という近代の「未完のプロジェクト」のために、それらを乗り越えて市民社会のなかで理想を目指すためには相互理解が重要になる。

ハーバマスは、市民の生活を犠牲にした政治や経済のための「システムによる植民地化」を回避し、権力による戦略的なシステムが追及する指示・命令的な合理性とは異なる、市民の相互理解に基づくコミュニケーション的行為によって社会を形成すべきことを主張している。

貨幣経済により社会が形成されている現状に対して、ハーバマスの提言はコミュニケーション的行為による社会的合意で社会が形成される方が望ましいというものだ。平等な発言機会と自由が保障された理想的な発話環境の想定が理性的な合意の条件になり、そこで弱者を救済する道徳的な行為の普遍性を模索し、十分な納得を伴うかたちで合意を形成するという、ある種の理想論でもある。

多くの人が合意するには、様々な価値観を包括した者である必要も生じるが、人は他者からの承認を求める傾向があるため、弱者救済の動機が小さいひとも、人の為に役にたつことが他者から承認されることに繋がることにより、合意に至ることもあるだろう。丁寧な議論を理性的で理想的な環境で行えば合意ができるというのは決して崇高な理想論というわけではなく、現実論として理解されるのではないか。

一定の理想に向けて議論するという行為は必要なものだろう。理想的な環境での議論において権力の誘導はあってはならないものであるが、それ故に民主主義における議論に関しては完全な透明性が必要であるということがいえる。

以下は私見ではあるけれど、リベラルな民主主義を前提とすると、多様な人々による議論であるだけにその場を支配的に影響する論者が現れる可能性があるが、透明化された議論においては特定の影響がある種の誘導となった場合でも、それが理念の方向にあるのか、それとも一部の強欲な経済界や政治の影響による誘導なのか、を批判的に判別することができるはずで、だからこそ民主主義における議論の透明性は最重要の課題ということになる。

決して啓蒙が問題なのではなく、それを利用するのが、公平で民主的な者であるか、差別的で独裁的かつ強権的な者であるか、ということに注目して、理想がポピュリズムという仮面を被った独裁権力に汚されないように、議論が透明で開かれた民主主義によるものであるか、その議論が問題あるポピュリズムになってはいないかを問い続けることが、民主主義における課題ということになる。

難しいのは、市民によるあるべき民主主義と経済社会における機能性および社会福祉が持続的に維持される状態にするための議論には、各文化領域におけるコミュニケーションのズレを、相互理解を伴うコミュニケーション的行為により調整する必要があり、その際に理念と現実の機能性を同時に実現するためには、そこを補完するための信頼できる客観的で専門性のある高度な人材か、それに代わる何らかのシステムが補完的に必要になるだろうということだ。

というのは、全ての仕組みや概念を把握できる人は存在しないし、全ての領域のズレを解消することも容易ではないからだが、同時にそれがコミュニケーション的行為を最大限尊重できる仕組みである必要がある。

もし、何らかの専門的な補完の仕組みなしに市民社会によるコミュニケーション的行為のみによりそれを成そうとするなら、あらゆる文化的領域における類似した内容にも関わらず異なる表記になっている言葉の中心的な語義と表記を統一する必要があるだろう。そうでなければ専門分野が異なる場合の言葉の相違と多様性を把握できなくなる可能性があるからだ。その上で、それぞれの専門分野における違いを補完する修飾語をつければ分野ごとの語彙の違いを尊重できるのではないか。

そういった努力が成されれば、コミュニケーション的行為による相互了解の社会の形成がより現実的に可能になるが、言葉の語義の統一の過程における経緯も、コミュニケーション的行為を重視した透明な議論のもとで成される必要がある。しかし、それは現実の自由な社会における言葉の自由な創造を阻害することにもなりかねないし、そこまで徹底する必要はないにしても、新たに創造される言葉が定着して、それを統一的な語義にするための努力には時間差が生じることになるだろう。

また、各地域の言語におけるそれぞれの全く異なる文化からなる語の概念の違いを克服することも困難であり、それらの問題によって、理想にある種の制限が伴ってしまうのではそれは理想とは異なるため、語義の統一がない状況で文化のズレを補完するコミュニケーション的行為というあり方においては、一定の距離的空間的な物理的制約が伴うことは現実的には受け入れざるを得ないものかもしれない。

要するに小規模な国家もしくは自治体や州などの距離感であれば、コミュニケーション的行為は可能であり、それを超える場合は、それぞれの自治体や州もしくは小規模な国家から代表者を出して、各地域内でされたようなコミュニケーション的行為と同様の過程による、より大きな合意を透明な議論を経て得るということになるだろう。

人類の壮大な時間感覚という超長期の観点では、時間をかけることで空間的なズレを補完することも緩やかには可能かもしれず、遥かなる未来においては、各文化領域におけるズレをコミュニケーション的行為によって補い続けることが未来の民主主義の社会においては必然ということになるかもしれない。いつの世であっても、自由も民主主義も人権も、そこに暮らす人々の絶えまない努力によって担保されるものであることは、普遍的価値観といえる。

上で認知行動療法の導入を提案しているが、この手法はコミュニケーション的行為を成功させるための人的基礎を形作るうえでも、人が認知の歪みを克服するわけだから効果的なものであるだろう。

 

 




 






 

 

 

3. 民主的コミュニケーションにおいて理想と現実をつなげる

誤解は避けたいが中道左派の理論に仏教理論を一部導入するのは決して保守的な発想ではなく、日本の保守思想のなかに独裁の要素が紛れ込んでいることへの批判であって、同時に左翼の実践が歴史的に暴走したことへの懸念である。

西田幾多郎は、西洋哲学と仏教思想を融合させるために禅宗の影響による純粋経験論から、自己を否定して成立する真の自己意識が全体的に統合される絶対矛盾的自己同一論を展開しており、僕は彼に必ずしも賛同するつもりはないが、というのは氏の生きた時代や当時の日本の価値観の反映の結果として保守権力を正当化できる絶対精神を主張するヘーゲルおよび(マルクスヘーゲル左派とは異なり宗教権力に配慮し思想に宗教を持ち込む)ヘーゲル右派的なあり方は、日本の儒教文化や仏教右派の価値観に親和性があるだろうから、そのような上からの平等性という全体主義の方向性には批判的でありたいから。

ヘーゲルの絶対精神における世界精神は、キリスト教の神に代わって理性に基づく統合的意志が国家を形成する国家主義を正当化する支配側の観念論にもなり得るので、民主主義の立場からは批判したい。

(当時の欧州における宗教的権威を否定する反既得権・反権力の青年ヘーゲル派である)ヘーゲル左派だったマルクスや(ナチスを否定し批判理論を展開する)フランクフルト学派の思想をより評価すべきと考える。

平等を追求するためには牙を剥き出しにした資本主義による苛烈な格差社会で労働者や市民が物質的にもしくは精神的に不条理によって苦しむ状況を克服する必要があり、結果として唯物論というかたちをとってマルクスが資本主義が何であるかという理論を形成し、唯物史観による階級闘争という思想と革命行動を促したが、フランス革命ロシア革命のように革命は独裁や悲劇を生む結果となり得る。

誤解されて修正主義と批判されるかもしれないけれど、下部構造および上部構造という概念を否定することはしないが、現実の21世紀の世界においては労働と経済だけではなく、あらゆるタイプの人々の生活が平等の対象としてその前提にあるので、平等を志向する過程で各々の多様な意思が(ハーバマスの)コミュニケーション的行為を経た民主的手法を通して透明な検証の結果として高度に洗練され偏ることなき民意として理想的なかたちで反映され、それを(ルソーによる)一般意志の概念のように理念的な法体系を追求した結果として多様でリベラルな社会における平等と公平が成就されることが理想的だろう。

平等や公平という理想の実現にはそのような民主的手法を用いるのが前提ではあるけれど、理論的手法においては、絶対精神を主張するヘーゲルによる弁証法ではなくて、仏教思想の中観派による三諦偈を使う方がいいと考えた。

というのは、三諦偈は仏教思想における絶対性の否定を内包しているからだ。

三諦偈は無常無我から生じる空とそれに対峙する仮名から中道を導く論理であり、絶対精神や世界精神に繋がるとされるヘーゲル弁証法のような全体主義的独裁という現実世界の権力が行使した場合に非常に危険性が高い政治体制に陥る懸念がない。

この場合、仏教思想の哲学思想的要素だけを重視しており宗教性は別としておきたいが、そもそもが仏教思想は純粋に哲学にすぎず、生活空間において宗教儀式と同居していただけと考えても問題はないだろう。

そういった理由から、民主主義における市民や論者のスタンスをハーバマスのコミュニケーション的行為やロールズの重なり合う合意に置き、民主主義の法における理想的構図をルソーの一般意志的(共同体の成員が総体として持つとされる意志であり法律や憲法と解釈できる。個別の特殊意志や全てによる全体意志とは異なる)概念に置いて、それを提にした理想的な民主主義を作り出すためにも、世界をどのように捉え理解し合意していくかという概念的構図を三諦偈に置くのがいいのではないかと考える。

三諦偈(さんたいげ)
因縁所生の法は、我れ即ち是れを空なりと説く。また、名づけて仮名と為す。また、是れ中道の義なり〔『中論』第二十四「観四諦品」の第十八偈に〕

 【三諦】さんだい〔「さんたい」とも〕
中国天台宗で唱えられた説。空,仮,中の三諦のこと。諦とはサンスクリット語 satyaの訳語で「真理」という意味。空諦とはあらゆる物事にはおよそ実体というようなものはないという真理。仮諦とは,すべての存在はいろいろな構成条件によって成立しているから,存在するといってもかりの存在であるという真理。中諦とは,あらゆる存在は空や仮で一面的に考えられるべきものではなく,真理は言葉では言い表わせないということ。(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 

 仏教哲学の空・仮・中の三諦偈の方が独裁的な全体主義に繋がらないので弁証法より望ましいのは、仏教が物事を固定的に考えず、全ての物事が繋がっていて同時に常に変化していると捉えることによる空の概念から、欲と所有の無意味性を説いている(この場合の欲の否定には理想を目的とした意欲の否定は含まれないと考える)ことにより平等思想の導入に向いており、同時にヘーゲルが陥る絶対知、絶対精神といった絶対的なものをはじめから否定していることにある。

それを前提として、関係が相互に変わりゆく物事を包括的に捉えつつ、その無常の縁起から空という捉えきれない非有の概念ができ、さらにそれが空であるということから成立する非有非空の中道の理念を、左派の理想と現実の三諦偈的弁証法として適応することを考えるべきだろう。

これは二重否定という捉え方もあるようだが、その否定は全否定ではなく、双方が相互に矛盾を持つことによる部分的二重否定の要素を孕んでおり、否定されていない部分は否定しなくていいということにもなる。

双方の矛盾を双方の長所が補い合い不足を創造で埋めて機能性を修正することを繰り返す行為が現実を理想化していく。それらを固定的に捉えることなく融通無碍に無常のときの中で関係性を捉えながら必要に応じて新たな創造を生み出し、社会発展と進歩に寄与し、市民ひとりひとりが生きるときに自分の思い通りにならない苦の現実を可能な限り無に近づける柔軟な社会の仕組みを構築し、それを常に変化する現実で理想に向けて対応し続けることにより、左派思想と現実を三諦偈の中道思想により融合するという社会哲学における理論として用いたなら、きっと理想が実際の世界のなかに現れるだろう。

三諦偈における空の理論は、それを実現するにあたって「諦観」を重視する。

諦観とは明らかに見るが原義ということだが、自分の問題の本質を見極めその背後にある欲をあきらめて(主に強欲のことであり、個人的には意欲は別の扱いと考える)、理想的な本質に至るためのスタンスであり、前述の認知行動療法をすることに近い意義がある。

この認知行動療法により諦観の境地に至った状況で、コミュニケーション的行為に臨めば、民主主義により理想が実現できると信じる。

現実を不条理のない平等の理想を漸進的に近づける道筋だろう。

 
※ちなみに、僕は無宗教ですが、特定の主義主張にこだわるつもりはなく、しかし極論は避けつつも、公平性と平和、人権は最重要視します。仏教哲学に関しては、あくまで哲学としての活用であって、それは現代思想マルクスなどを哲学として扱うことと何ら変わりはないと考えています。

※この文章は過去に書いた文をまとめたものなので、もしかしたら流れに不自然なところがあるかもしれないけれど、論理展開は民主主義において理想を実現するために必要なものは何かという観点から比較的妥当性が高いものと考えます。

※要するに、民主主義をするには皆が勝手すぎるけれど多様性は尊重しなければならず、民主主義を構成する市民の人間性のゆがみが小さい状態であれば、民主主義はある程度の理想を体現する可能性があると考えて、そのための論理的な構図を考えたということです。

 




 

誰も不正ができない世の中にするにはどうすればいいのか

「誰も不正ができない世の中にするにはどうすればいいのか」という設問について、少し前まではリベラル価値観が現在の右傾化した時代より有利にあって、故に情報公開の流れが政治の世界に存在したが、同時にプライバシーを守ることを目的に個人情報の保護という潮流も存在し、そのなかで法制化もなされていた。

僕はリベラルな社民主義の価値観の人間なので、決してその潮流を否定するわけではないが、プライバシーを守るということは、同時に一部の悪質な不正をする人も秘匿されるがために、その不正が見つかり難くなるということでもある。

故に悪質な不正を発見し防ぐには、個人まで情報公開をすればいいということにもなり得るが、その場合はストーカー被害者や犯罪被害者が、加害者から見つかりやすくなるという問題が生じる懸念があるため、彼らに限定してプライバシーを守るという対応がなされることになる。

もし仮にそのような社会が実現したならば、社会で不正を試みようとする勢力や個人は、自作自演でストーカー被害者になってから被害を防ぐためのプライバシーを守られた状況をつくっておいて不正を行うという手法をするかもしれない。
それでは、それに対応するにはどうすればいいだろうか?

そのような不正を意図して行われる自作自演策を暴けばいいということになるが、その不正を隠すための自作自演が反権力組織と反社会的勢力の間の裏協定のような形でなされた場合に対策は可能だろうか?

もしもその反社会的勢力が権力とつるんでいた場合に、不正を暴くはずの権力が不正に加担するということになるから、どうすることもできないように感じるが、必ずしもそうではないことは以下のような説明で分かってもらえるはずだ。

その状況で問題を解決するには、そのような権力含みの不正義が不可能になるように、政府の透明化と徹底的な情報公開をすればいいということになる。

しかし、そういった対応をした政府の外部に別の国が存在し、それらによる諜報合戦と謀略があるような世界においては、政府の完全な透明化は自国政府を不利にするため不可能であり、不正義を防止するための透明な政府をつくるためには国際社会全体で問題を共有して、世界を構成する全ての国が情報公開をすることで初めて不正を防ぐという解決が可能になっていくということがいえる。

さらに企業と非政府組織も透明化しなければいけないのだが、というのは政府が透明化しても企業などが透明化していない場合、企業のような非政府の組織に不正に関する問題が移行してしまう可能性があるからだ。

だからといって企業などを完全に情報公開させるには、企業の活動は民主政府と異なりビジネス競争があるため、企業による技術革新情報は秘匿しなければならないという状況を克服する必要があると同時に、そのようなビジネス環境にあって企業秘密を隠さざるを得ない状況が不正の隠蔽工作に利用される懸念もあるだろうから、それらの懸念を回避しつつ企業に完全な情報公開させるためには、特許や著作権を守るルールを国際社会に徹底することが必要になる。

これらの対策を全て漏れることなく実施した結果として、あらゆる存在の透明化が可能になれば、その状況下で不正があった場合には犯人はすぐに発見されるだろうから、不正ができない世の中にすることができるということになる。

それでは「その状況下でも不正をすることはできるだろうか」という設問については同考えればいいだろうか?

それに関してはSFレベルの未知の技術があれば可能かもしれないということになるが、政府も企業も技術革新を徹底的に公開しても特許を取ることで研究開発投資が完全に守られ収益として回収できるという前提下では、不正は難しいだろうということになる。

しかしこの条件は国際的な対立があれば政府が軍事技術の開発を公開しないだろうから、国家間の対立をなくすという難しい課題がつきまとうかもしれない。

 

※補足

もともとがメモ的なもので文章が独善的でやや分かりにくいようでしたので補足修正しました。ちなみにこの内容をアップするにあたって、このブログで住所も氏名も公表することにしましたが、それは僕が不正をしないからです。

ここでの文章はあくまで設問に対して論理的に思考し解答を書いたものであるということに過ぎませんのであしからず。