表現の自由、自由権、社会権、生存権、進歩主義、多文化主義、機会平等、男女平等、公平公正な分配、弱者とマイノリティへの慈悲と救済および支援。能力主義は公正な倫理観が前提となりそれに加えて生存権を重視しての結果の平等の必要性を社会は理解すべきではないか?

理想的な社会にするために僕たちは何をすればいいだろう

目次
1. 我々は何を前提に真実を捉えているのだろう?
2.啓蒙の是非と民主主義のための開かれた社会における透明な議論の重要性
3. 民主的コミュニケーションにおいて理想と現実をつなげる

 

 

 

1. 我々は何を前提に真実を捉えているのだろう?

フッサール現象学的還元におけるエポケー(判断中止)や西田幾多郎純粋経験などに代表される認識論のなかにどのように真実を捉えるべきであるかという考え方がある。

それによると、ものごとを捉えた際に意識による何らかの付加がつけられる前の認識状態は、とりあえず真実として理解できるものであるということが言われる。

現象学的還元においてはエポケー(判断中止)から脳が認識を意識化する過程で、意識により何らかの付加価値(ノエシス=意味付与)がつけられて意味(ノエマ)が生じている。

 

エポケー (出典:マイペディア)
ギリシア語で〈判断中止(停止)〉の意。古代ギリシア懐疑論者,とりわけピュロンは哲学上の論争において徒労に終わる真偽の判定を避けるべく,デカルトは真の認識に至るための精神指導の規則として,さらにフッサールは〈現象学的還元〉の対概念としてこの語を用いた。

 

葛藤や苦悶があるときに人は心的防衛機制が働くが、その中に合理化といものがある。都合の悪い矛盾を正当化することだが、そのときの葛藤から逃れるだけで、長期的には問題と向き合わないため解決ができなくなる可能性があり、よって正当化は避けるべきで、社会的に評価されるものに昇華した方がいい

心的防衛機制については、認識段階で付加された認知の歪みではなく、認識をした結果として受け入れがたい事実に遭遇したときに、それについて人がどのように心を守る傾向があるかについて類型化したもの

 

フロイト精神分析における心的防衛機制

・否認
 都合の悪い現実を否定する。事実を正確に把握できなくなる。

・投影
 相手との立場をすり替えて、自分の気持ちを相手の気持ちであるかのように思う状態。相手を誤解することになる。

・同一視(同一化、取り入れ)
 相手の好ましい部分(態度や行動、服装など)を自分のものとして捉えて取り入れる。若いときにアイデンティティを構築する過程でも見られる行動。

・合理化
 自分の行動や態度を正当化するために言い訳や論理的な説明をすること。事実との乖離があれば問題になり得る。

・抑圧
 都合の悪い感情や欲動、記憶を抑え込んで無意識化すること。不安障害などの原因になり得る。

・隔離
 自分の考えと気持ちが切り離されること。つらくても淡々と事実だけを捉えたりするが、結果として強迫性障害に繋がる。

・反動形成
 自分の考えとまったく逆の態度をとること。例えば嫌いな人に過度に愛想よく接したりする。社会適応のためにはある程度は必要な要素ともいわれる。

・昇華
 満たされない欲求を社会的に受け入れられるものに置き換えること。不満などのエネルギーを自己実現のための努力や社会的に認められるものに向けること。

通常は以上のような心的防衛機制により自己のこころを日常の不合理や認知的不協和(心的矛盾)から守っている。

 

フロイトは無意識の世界(潜在意識)を発見した精神科医であり、人が抑圧して認識できない無意識領域が様々な問題に繋がると考えていたようだが、実際には自動化された思考による認知の歪みが日々の問題の原因にあって、それが抑圧された感情として累積した場合に、問題を伴う行動に繋がるとシンプルに捉えた方が分かりやすいかもしれない。

後で説明する「認知行動療法」は、無意識領域を問題にせず、自動思考によって認識に付加(ノエシス)される認知の歪みを捉えてそれを改善するものである。

エポケー(判断停止)や純粋理性により、ありありとしたリアルな真実を、何らかのかたちで歪んでしまう意味付与(ノエシス)が全くないまま客観的に捉えることができるかは、実際のところは分からないし、現実的にはどうしても人間である限りは何らかの歪みが認識に生じてしまうだろう。それが個性ということになるが、その歪みがあまり大きくなければそれほど問題ではないということになる。

エポケーというのは、そういった歪みの生じる前の段階でものごとをありのままに認識することを前提に事実を捉えるという考え方なのだが、ノエシス(意味付加)における認識の個人差に関しては、認知の歪みを是正することが正しくものごとを認識するという観点からは課題になるだろう。

 


 

ここでは実存問題や認識論ではなく実社会における認識や認知のあり方と問題について考えたい。

一般の生活においては、人が自然にしている上述のような心的防衛機制で特に問題が生じていなければいいが、それが過度に働きすぎている状況は心理的な葛藤が無意識領域に存在して、自分の思わぬところで問題が起こりかねないため、後で説明をする自動思考における認知の歪みを知り改善する「認知行動療法」の手法は様々な問題の解決に繋がる。

社会心理学の用語になるが、人には内包的特性理論といって既存の概念を認知に結びつけて理解する特性があり、例えば第一印象で人をある程度判断してしまう。その際もフッサールのいうノエシス(意味付与)が働いていると考えられるが、やはりどうしても人にはある種の先入観があるということになるだろう。

先入観というのは事実を誤った認識で捉えたときの理解からくるものでもあるが、それを避けるためにデカルトは「全てを疑え」と主張し、フッサールはエポケー(判断停止)すればいいという発想の転換をした。西田幾多郎は禅における瞑想から純粋経験という自我を抑制した客観的で先入観のないところでものを捉えればいいと考えた。

一般レベルでは、何もかもを疑っていては疑心暗鬼により日常生活に支障をきたすわけで、哲学者でもなければエポケー(判断停止)して実在論を回避する必要もなく、禅の瞑想による純粋経験を体験して真実に迫る必要もないから、何が真実か分からない状況に遭遇した場合は、○は、△なのかもしれないが、△ではないかもしれない、という中立の観点から、明らかに事実であるという真実が判明するまでは留保(ペンディング)しつつ、不要な誤解を避けるようにした方がいいだろう。

少なくともデマやフェイクニュースなどの情報に関しては、真に受けないようにするか情報ソースを調べる必要がある。

我々が生活する世の中には様々な情報が飛び交っているが、それについて考えるときには考えることで答えが得られるものと、そもそもの情報が不確定で考えても答えが得られないものがあるので、考えても答えが得られないものについては余計に思案したり考えたりしない方が望ましいし、不確定の情報に関してはどうでもいいものは無視して、どうしても無視できないものに関しては留保しておけばいいのだと思う。

それでも人は何らかの情報を得たときに、どうしても先入観が入り込んでしまう傾向があるのは否めない事実だ。

先入観の原因のひとつに偏見がある。偏見とは根拠なしに何かを決めつけていてそれが正確ではない状態であり、その人の価値観やその時の感情状態が認識の歪みに影響する。

偏見のひとつである感情バイアスは、事実が正確に分かっていても、感情によってそれを肯定的もしくは否定的な方向に理解して認知が歪むことである。感情は人にとって大切な要素であり、それ故に適度に抑制し制御しておかなければ、場合によっては事実認識が歪んでしまう懸念があるため、なるべく穏やかな感情状態であった方がものごとに惑わされ難くなるだろう。

常にあらゆる情報を得て判断することなど通常は不可能であるから、そのときどきで適時適切にものごとを捉えていくために、既存知識の網にある関連情報に基づいて理解する(内包的特性理論)ことで先入観に繋がってしまう。先入観が認識として固定化されずに修正されていけば、それは予断だったということになる。

最初の段階における先入観で認識を固定化することなく、事実が実際はどうであるかを再認識し常に微修正し続けることが、誤解や偏見などの歪みが小さくなる認識に繋がり、日常におけるトラブルも減少するだろう。

人が人であるが故に、新たなものごとを既存の知識に基づいて理解するとが先入観に繋がってしまう傾向があるなら、本質とは何か、本質を認識することができるのだろうか、という疑問も浮かぶかもしれない。

ものごとの本質とは、変化する現実のなかで、一定程度の普遍性が認められる変化しなかったものだが、その他の変化していく事象を捉えたときに、どうしても生じる認識の歪みに対しては修正を続けなければ正しい理解とはいえない。

 


 

※物事を捉える際に、絶対視点と相対視点という観点がある。本質論は普通は絶対視点で捉えるものであるが、マルクス・ガブリエルのように世界を認識する人の中の世界も実際にある世界も同時に認識している事実であり相対視点のそれぞれが真実であるという価値観も、仏教哲学における空の思想のようにあらゆるものが諸行無常諸法無我であり変化し相互に関係しているという視点も、どちらも相対視点にもかかわらず本質であるから、以下の内容に関しても同様に多角的な視点で捉えてもらわないと誤解が生じるのだが、この場合は人間存在と社会という2つの視点から本質を捉えなおす作業をしている。

サルトルによる「実存は本質に先立つ」という有名な言葉がある。

実存は本質に先立つとは、生きているという人間的実存があり、それによる自由意思に基づく選択が先にあって、結果として本質が生じていくという意味。

あくまで個人における心象景としてはそれが真実であるにしても、個人の自由意志は最大限尊重するものの、その個人がものごとを認識して判断するより前から社会は存在し、また同じ時代を構成する人々も多様であるから、実際は社会としての本質は個人がそれを見出す以前から存在しているということがいえる。

しかし、例え本質であっても、それを社会の本質という限定した捉え方をした場合は、その時代ごとにより優れた社会モデルが提供されることによって徐々に変化していくと思われる。

自由意志については尊重したいので必ずしも自由意思を批判する意見ではないし、同時に本質を固定的なものとして捉えていないことは前述の内容からも理解されると思う。

生きている人間の実存という意味では、もともとがそれぞれの独自の人の自由意思がある自然状態の時代から、徐々に社会が形成されていった過程で、様々な人の営みとその衝突を経て、人権が認識されるようになったが、人々が安心して生活していくためには人権相互の衝突を避ける必要性があることからも、法治と民主主義が現在における人間社会の本質になっていったという歴史が人類には存在する。

人間的実存を守るための本質として民主主義や法治があるというのが現在の社会ということになる。故に実存ばかりを重視して本質を蔑ろにすれば、人権相互の衝突が社会全体としての格差として生じかねない。

これは自由意志を尊重する自由権と、それに伴う格差を是正し福祉を重視する社会権の両方が、社会の幸福にとっては共に重要な基礎的概念であることを示唆する。

現状においては自由権社会権も発展途上であり、日本では特に後者(社会権)の意識が遅れていると感じるものの、昨今では自由権も危うくなっているのではないかと懸念する政治事情が続いている。

 


 

フッサール現象学的還元や西田幾多郎純粋経験認知心理学脳科学の知見などからも、人がどのようにものごとを理解するかが分かるが、たとえ実存が本質に先立つとしても、人間的実存がものごとを理解して選択する過程で、その認識に誤りがあっては結局は道に迷うばかりになってしまうだろう。

前述しているが社会心理学における内包的特性理論といって、知らない人を理解するときなどに、その人のもつ既存の概念がそのときの認識に結びつけられて推測されるという特性が人にはあって、そのようなノエシス(意味付与)があるがために先入観や予断、偏見に繋がっているという問題は、それが実存における自由意思においては尊重されなければならないものであるとしても、それぞれの認識の歪みが結果として社会が本質を捉えることを阻害してしまう。

民主主義における言論の自由だが、事実とは異なる認識に基づくものやデマは修正されるべきであり、また言論活動もあくまで他者の人権を侵害しない範囲でなされるべきものなので、自分とは異なる意見を尊重し相手の意見を理解する努力を伴うものである。

自由言論であっても論理的に矛盾している場合は、正当化などをせずにその矛盾を解消するための努力が必要だろう。

論理的矛盾や言論を歪めることにもなりかねない先入観および偏見に繋がるものとして、前述した感情バイアスとは別に認知バイアスがある。

その構成要素のひとつに偽の合意効果というものがある。

偽の合意効果とは、他の人々も自分と同じように考えていると思ってしまう心理的傾向により、その結果として存在しない合意があるかのように感じてしまうというもの。

事実とは異なるから偽のという枕詞がついており、集団において何らかの問題が生じるきっかけとなりかねない。

偽の合意効果が利用され集団や権威への同調圧力と化せば忖度や斟酌のある状況に繋がり、権威がそれを強要した場合は追従、服従といった民主主義とは相反する方向の社会になりかねないため、自由権立憲主義などを重視し、権力が独断的にものを決めることを否定し、独裁を回避する政治システムが必要になるというのが人類が歴史上経験してきたことだった。

かつて日本は村社会ともいわれて同調圧力が極めて強い社会だったが、それはある意味では同調や迎合をしない者への排他性に繋がる世界である。

そこで疎外された社会的弱者や不遇の人を救うためである社会権と、同調圧力に屈さない自由権は、日本社会にとっても非常に大切な概念だろう。

(前述の疎外は単に除け者にされるという一般語義で使っているが、哲学的概念の人間がみずから作り出した事物や社会関係・思想・資本などが、逆に人間を支配するような疎遠な力として現出し、人間が本来あるべき自己の本質を喪失した非人間的状態という意味とは異なるものの本質は同じかもしれない。)

偽の合意効果は情報が少ないことによって自己利益のための恣意的理解もしくは先入観や同調圧力から生じるものであり、故に、十分な情報に基づいて心から他者の考えが正しいと認め自分の行動を変える私的受容とはまるで異なる。

(これもフロムによる疎外(人間が自分自身を例外者として経験する経験様式)への対応における類型の一つである格差社会権威主義を従順に受け入れ抵抗しない者である受容的性格の受容とは異なる。前述の受容はフロムの類型であれば互恵的・利他的な生産的性格に近い概念となる。)

自由権社会権などの権利を実現する仕組みとしての民主主義は、多様な市民の価値観の上に成り立つため、それぞれの思想言論の自由を尊重しつつ、その言論の前提となる情報の正確性の重要さはいうまでもないが、それらの情報を捉える市民が客観的な理解をするための情緒的スタンスとでもいえる偏見や先入観に惑わされずにものごとを捉えるための中立で客観的な情動教育のようなものが、思想的中立を前提になされるなら、民主主義が実体を伴うものとして実現可能になるはずだ。

デマやフェイクニュース、忖度政治、改竄、公文書管理のあり方、汚職などが社会問題となっていることも、情報を客観的に評価することの重要性や、偏見による認知の歪みと、同調圧力の存在の問題を、再認識させられるきっかけとなっている。

 


 

認知の歪みを修正するためには、健康な人の生活と精神衛生の向上にも有効で、鬱病パニック障害強迫性障害などの治療に使われる認知療法が望ましいのではないかと感じる。

認知行動療法は自分で自分の認識の傾向や特徴を捉えて客観的に自己の認識の癖を知り、自分から望ましい方向に修正するというもの。

自分で自分の考え方の癖を捉え、それを自分の意思で修正し、自分の人生と周りとの関係をいい方向にもっていくという認知行動療法の手法は、強制性も思想性もないので信教の自由に抵触しないから、道徳教育とは異なり、たとえ公教育に導入したとしても問題はない。

社会一般に広く普及すれば様々な問題が治まっていく可能性はある。

認知行動療法をするにあたっては、人の認知がどのように歪む傾向があるのかを知って、自分が改善すべき認知の仕方と、日常においてそれが具体的にどのようなかたちで現れているかを捉えて徐々に改善していくことになる。

日常でそういうことを意識して改善するだけでも、人生が拓かれていくかもしれない。

【認知の歪み】(ウィキペディアを参考に)

・全か無かの思考
 物事を全てを白か黒かの極論で認識する。常に、すべて、などの言葉を使う傾向があるが、極論であり全体性を喪失した認識になる。

・心のフィルター
 物事全体のうち、悪い部分もしくは良い部分の方ばかりに意識がいって偏った評価をすることで、総合性とバランスを失う。(選択的抽象化)

・拡大解釈、過小解釈
 失敗、欠点、脅威を実際よりも過大に受け取ったり、逆に成功、長所、チャンスについて実際よりも過小に評価する。

・マイナス思考
 良いことを無視したり、悪くないことでも悪く解釈してしまう傾向。感情バイアスや認知バイアスなどの偏見が強くでていて固執しているような状態。

・感情の理由づけ
 単なる感情のみを根拠として、自分の考えが正しいと結論を下すこと。感情バイアスが強い場合、それが事実とは異なっても感情に即した理解が正しく感じられる現象。

・行き過ぎた一般化
 根拠が不十分なまま少ない情報からの先入観により、対象を一般的なものと判断すること。

・レッテル貼り
 偶然の出来事でも、既存の概念に結びつけて理解(内包的特性理論)して、事実とは異なるレッテルを張ること。

・論理の飛躍
 心の読みすぎ:他人の言動から内面を推測し否定的なものを読み取る。論理的にはあり得ても根拠が不十分なことが多い。
 先読みの誤り:物事が悪い結果をもたらすと十分な論拠もなく飛躍して推測すること。

・誤った自己責任化(個人化)
 自分がコントロールできないような結果が起こった時、それが良い悪いに関係なく自分の責任とすること。

・~すべき思考
 状況に関係なく特定の道徳や倫理を期待したり義務付けること。

上述のような、人が陥りやすい認知の歪みに関する自動思考を認識できるかが、自分では自覚できない問題を解決するためには重要なポイントになる。

 

自分がどのような認識の傾向があるか、無意識にどう認識しているかを把握し、それを改善していくのが認知行動療法である。

認知行動療法における認識の再構成

・普段の日常で出来事が起きたときに頭に浮かぶ考えや状況に対して自動思考となっている解釈を捉えて認識できるようにする。

・それらの思考を一つ一つ客観視して、それらが状況に対して合理的な評価かどうかを判断できるようにする。

・自動思考による非現実的もしくは不合理な考えを、現実の状況をより良く反映し自分自身に助けとなるようなかたちに言い直す。

・より現実的な思考に基づいて行動することによって、自分自身に助けとなるような考えを段々と実践できるようにしていく。

(感情に惑わされず客観的になるために、息を普通に吸ってからゆっくりゆっくり吐くということを意識して、瞑想に近い脳活動状態できれば理想的だろう。)

 

多様な個々人の人格の形成において、認知の歪みが少なくなるように認知行動療法を標準化して導入することは、この手法が個人の価値観に関係のないものであるため、個人の価値観への介入にはならず、故に多様な価値観の現代において個人の人格の確立が好ましいものになり、それぞれが丁寧に対話し議論を重ねて民主主義を形成すれば、社会が自由と平等において調和した理想を目指すことを阻害しないどころか、過去の理想主義を目指した改革の失敗の数々を乗り越える可能性があるかもしれない。


【補足】

認知行動療法は自身の問題を解決するためのものだが、他者との関係においては以下に説明する「アサーティブネス」という考え方がある。

言いたいことが言えずに意思や権利を自分自身で守れないような「受身的な自己」ではなく、また、相手の権利を尊重せず自分の権利ばかりを主張する「攻撃的な自己主張」でもなく、「アサーティブネス」とは、相手の自己主張する権利を認め自他を尊重して自分自身の意思や権利を主張する態度ということになる。

 

アサーティブネス(誠実な自己主張)権利章典
・あなたはあなたが何をし何を考えるか判断する権利を有する。
・あなたはあなたの行動について理由や弁解をしない権利を有する。
・あなたは他の人の問題の解決方法を見つける責任を負わない権利を有する。
・あなたはあなたの考えを変える権利を有する。
・あなたは間違う権利を有する。
・あなたは「知らない」と言う権利を有する。
・あなたは自分で自分の決断を下す権利を有する。
・あなたは「わからない」と言う権利を有する。
・あなたは「どっちでもいい」と言う権利を有する。
・あなたは罪悪感を感じずに「いやだ」と言う権利を有する。


相手を尊重しながら自己主張をする権利を有するという民主主義社会では当然のことも忘れてはいけない。

(公共の福祉を人権相互の衝突の回避と捉えるかは学者によって見解が分かれるが) 相手の人権を侵害しない範囲での自己主張は、自己の権利を守るために必要なものである。

 

 




 





 

 

 

 

2. 啓蒙の是非と民主主義のための開かれた社会における透明な議論の重要性

啓蒙(蒙(くら)きを啓(あき)らむ)とは、人々に正しい知識を与え合理的な考え方をするように教え導くことだが、近代以降の市民社会において、各人が自分で判断する能力を身に付けることを促す啓蒙思想が広まり、理性によってものごとを合理的に捉えようとする傾向が強まった。

しかし、その後にナチズムという民主主義がつくった化物を近代社会が経験したことから、ユダヤ系の知識人が多いドイツのフランクフルト学派はその端緒となった「啓蒙の弁証法」を著し、啓蒙思想における問題を提起する。

啓蒙は神話や暴力を克服するためであるのに、結果としてナチスのような思考が明晰なままの妄想である民族主義パラノイアともいえる新たな神話や暴力を生み出したのは、啓蒙が道具化した理性となり、個々人の質を単なる量へと還元し、文化的な画一化による管理された世界を招いたことが問題の本質であったとした。

僕には本来の啓蒙という語義における基本概念とその本質的なあり方にまで問題があるとは思えないのだけれど、それは近代の理性中心の合理主義によって人間は完全ではないのに問題のある者が自らを完全であるかのように妄想的に捉えた結果としてナチスのような独裁が生まれたという事実が問題であり、そうであるなら問題の本質は啓蒙ではなくて独裁と強権それ自体にあって、故に問題を独裁と強権だけに限定することで、啓蒙が問題であるという捉え方を回避して、理想を目指すことを容認した方がいいのではないかと感じたからだ。

啓蒙という名の下に自然を征服し合理的な世界を建築しようとすることに無理があることは同意しつつ、また、人間の理性の限界も意識しつつも、一般市民が民主主義および市民社会における自由と人権や社会権を尊重して理想を目指す行為を尊重するという、現在では常識となっている観点を重視する意味における啓蒙は、現代においても重要な価値観ではないのだろうか?

しかし、ポストモダンでは理性や真理などが実際に存在するとは限らないとされる。

ポストモダン以前の構造主義は言語構造が無意識のレベルで主体を規定しているというものだが、それ故に我々は構造に無意識的に支配されていることになり、実存主義が自由な主体意識を重視していることと構造主義は対照的だ。

構造主義マルクス主義が衰退していったときに、経済が土台となっているというマルクスの下部構造部分を無意識における言語構造に替えたかのように見えるが、経済構造を改革すれば上部構造を変えられるという価値観の放棄でもある。

実存主義サルトルなどによりマルクス主義の政治参加(アンガージュマン)というかたちで革命への闘争性を一部踏襲しているように思う。

その後に現れたポストモダンに関しては、大きな物語の終焉により真理のようなものが存在しないとしており、そのため相対主義の立場である。デリダは革命とは異なり序々に社会の古い構造を再構築することを重視する脱構築を主張している。

まるで全てがマルクスをどう扱うかの違いというところに収束しているかのように感じるが、マルクスという人が思想の世界においては巨人であったということだろうけれど、必ずしもマルクスとは限らず、単に平等と権力のあり方、および自由に関する民主主義がどのように存在すればいいかという普遍的な課題がそこにあるからだろう。

個人的にはこういった左側の思想を書いていても、革命という考え方には、その先にある種の暴力行為が伴ったり、その後の反動形成などの懸念があるため、民主主義(社民主義)という穏健な手法による社会問題の改善を希望している。

フランクフルト学派は、全体主義における独裁を問題視しつつマルクス思想をソ連などとは異なる西欧の側の民主主義を中心とした価値観で踏襲し、平等や民主主義の理想をどのように追及するかを模索している。

フランクフルト学派による「啓蒙の弁証法」においても道具的理性という概念により理性の批判をしているが、しかし、理性それ自体を疑ってはいない。同じくフランクフルト学派のハーバマスは、ポストモダンの近代理性批判そのものが彼らの批判する理性によるものであることを問題視した。

社会の複雑性と民主主義のあり方からすれば、理性によって一定の方向に社会を誘導する啓蒙という価値観には、理性と合理主義の限界という点から問題があっても、カントの時代ですら合理論と経験論を道徳を目的とする定言命法により乗り越えており、また、フランクフルト学派による近代への道具的理性という批判も、同じくフランクフルト学派のハーバマスのコミュニケーション的理性という概念で補って克服できることから、それにより理想主義を問題視すること自体が意味をなさないのではないかと考える。

ハーバマスはウェーバーの合理性概念を再解釈して、近代理性が追及した合理性はそれぞれの文化領域の自立化をもたらし、それにより統一性が失われた結果として、各文化領域のズレが生じて、誤解等による非合理的な闘争を招いたことから、相互理解に基づくコミュニケーションを重視した(コミュニケーション的行為)。

 

コミュニケーション的行為
現代ドイツの社会哲学者ハーバーマスの用語。権力や貨幣といった何かの力によって相手の意思決定に影響を及ぼそうとする「戦略的行為」とは異なり、自分が表明する考えや意思の内容自体に対して、相手の自由な納得と承認を求める行為のことをいう。例えば「水をもってきてください」と教授が学生に頼むとき、それが権力関係にもとづく脅しでなくコミュニケーション的行為であるとする。その際には、「水が近くにあるはずだ」(真理性)、「私の発言は命令ではなくお願いであるから、不当な行為ではない」(規範の正当性)、「私は正直な気持ちを語っていて、そこにウソはない」(主観の誠実性)という3つの点について、暗々裏にその正しさを主張し相手の納得を求めているといえる。だから相手は、そのどれかに納得できないときには反論し議論することができる。こうしたコミュニケーション的行為の重要性をハーバーマスが主張するのは、人間同士が自由に考え納得しつつ互いの関係を作り上げていく可能性を求めるからであり、その点で彼は、近代が求め闘ってきた自由の理想を継承しようとする。その姿勢はまた、「どこにも真理などない」と考える傾向のあるポストモダン思想に対して、絶対的な真理とはちがう「合意されるかぎりでの真理」を、積極的に擁護することになる。(出典:(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」:西研 哲学者 / 2007年)


相互のズレを補いつつ理想をコミュニケーション的行為で目指すのは、ポスト構造主義者のデリダ脱構築のあり方と大きく違わないのかもしれない。というのは各文化領域のズレという観点においては、デリダが、同じ言葉(音声言語=パロール)が繰り返し反復される過程(原エクリチュール)で生じる差異とその時間経過による差延という概念を扱い、また、脱構築デコンストラクション)によりものごとのズレから真実を浮き上がらせて再構築につなげる価値観を提唱しているからだ。

ただ、ハーバマスによると、デリダ脱構築は解釈の残滓を積み上げることで、逆に露わにしたい基底部が埋まってしまうものであるとの批判がなされている。デリダは、透明性、民主主義的討議、公共空間におけるコミュニケーション、コミュニケーション的行為などは、こうしたものに好都合な言語モデルの押し付けであるとハーバマスを念頭において反論している。しかし、両者は2003年のイラク戦争における空爆への批判を共同声明というかたちで発表している。ハーバマスは論敵から学ぶ姿勢がある識者なので、そのあたりが関係しているのだろう。

近代合理性がもつ権力による戦略的な主体が中心となる道具的な理性への批判と、その問題を回避しての啓蒙という近代の「未完のプロジェクト」のために、それらを乗り越えて市民社会のなかで理想を目指すためには相互理解が重要になる。

ハーバマスは、市民の生活を犠牲にした政治や経済のための「システムによる植民地化」を回避し、権力による戦略的なシステムが追及する指示・命令的な合理性とは異なる、市民の相互理解に基づくコミュニケーション的行為によって社会を形成すべきことを主張している。

貨幣経済により社会が形成されている現状に対して、ハーバマスの提言はコミュニケーション的行為による社会的合意で社会が形成される方が望ましいというものだ。平等な発言機会と自由が保障された理想的な発話環境の想定が理性的な合意の条件になり、そこで弱者を救済する道徳的な行為の普遍性を模索し、十分な納得を伴うかたちで合意を形成するという、ある種の理想論でもある。

多くの人が合意するには、様々な価値観を包括した者である必要も生じるが、人は他者からの承認を求める傾向があるため、弱者救済の動機が小さいひとも、人の為に役にたつことが他者から承認されることに繋がることにより、合意に至ることもあるだろう。丁寧な議論を理性的で理想的な環境で行えば合意ができるというのは決して崇高な理想論というわけではなく、現実論として理解されるのではないか。

一定の理想に向けて議論するという行為は必要なものだろう。理想的な環境での議論において権力の誘導はあってはならないものであるが、それ故に民主主義における議論に関しては完全な透明性が必要であるということがいえる。

以下は私見ではあるけれど、リベラルな民主主義を前提とすると、多様な人々による議論であるだけにその場を支配的に影響する論者が現れる可能性があるが、透明化された議論においては特定の影響がある種の誘導となった場合でも、それが理念の方向にあるのか、それとも一部の強欲な経済界や政治の影響による誘導なのか、を批判的に判別することができるはずで、だからこそ民主主義における議論の透明性は最重要の課題ということになる。

決して啓蒙が問題なのではなく、それを利用するのが、公平で民主的な者であるか、差別的で独裁的かつ強権的な者であるか、ということに注目して、理想がポピュリズムという仮面を被った独裁権力に汚されないように、議論が透明で開かれた民主主義によるものであるか、その議論が問題あるポピュリズムになってはいないかを問い続けることが、民主主義における課題ということになる。

難しいのは、市民によるあるべき民主主義と経済社会における機能性および社会福祉が持続的に維持される状態にするための議論には、各文化領域におけるコミュニケーションのズレを、相互理解を伴うコミュニケーション的行為により調整する必要があり、その際に理念と現実の機能性を同時に実現するためには、そこを補完するための信頼できる客観的で専門性のある高度な人材か、それに代わる何らかのシステムが補完的に必要になるだろうということだ。

というのは、全ての仕組みや概念を把握できる人は存在しないし、全ての領域のズレを解消することも容易ではないからだが、同時にそれがコミュニケーション的行為を最大限尊重できる仕組みである必要がある。

もし、何らかの専門的な補完の仕組みなしに市民社会によるコミュニケーション的行為のみによりそれを成そうとするなら、あらゆる文化的領域における類似した内容にも関わらず異なる表記になっている言葉の中心的な語義と表記を統一する必要があるだろう。そうでなければ専門分野が異なる場合の言葉の相違と多様性を把握できなくなる可能性があるからだ。その上で、それぞれの専門分野における違いを補完する修飾語をつければ分野ごとの語彙の違いを尊重できるのではないか。

そういった努力が成されれば、コミュニケーション的行為による相互了解の社会の形成がより現実的に可能になるが、言葉の語義の統一の過程における経緯も、コミュニケーション的行為を重視した透明な議論のもとで成される必要がある。しかし、それは現実の自由な社会における言葉の自由な創造を阻害することにもなりかねないし、そこまで徹底する必要はないにしても、新たに創造される言葉が定着して、それを統一的な語義にするための努力には時間差が生じることになるだろう。

また、各地域の言語におけるそれぞれの全く異なる文化からなる語の概念の違いを克服することも困難であり、それらの問題によって、理想にある種の制限が伴ってしまうのではそれは理想とは異なるため、語義の統一がない状況で文化のズレを補完するコミュニケーション的行為というあり方においては、一定の距離的空間的な物理的制約が伴うことは現実的には受け入れざるを得ないものかもしれない。

要するに小規模な国家もしくは自治体や州などの距離感であれば、コミュニケーション的行為は可能であり、それを超える場合は、それぞれの自治体や州もしくは小規模な国家から代表者を出して、各地域内でされたようなコミュニケーション的行為と同様の過程による、より大きな合意を透明な議論を経て得るということになるだろう。

人類の壮大な時間感覚という超長期の観点では、時間をかけることで空間的なズレを補完することも緩やかには可能かもしれず、遥かなる未来においては、各文化領域におけるズレをコミュニケーション的行為によって補い続けることが未来の民主主義の社会においては必然ということになるかもしれない。いつの世であっても、自由も民主主義も人権も、そこに暮らす人々の絶えまない努力によって担保されるものであることは、普遍的価値観といえる。

上で認知行動療法の導入を提案しているが、この手法はコミュニケーション的行為を成功させるための人的基礎を形作るうえでも、人が認知の歪みを克服するわけだから効果的なものであるだろう。

 

 




 






 

 

 

3. 民主的コミュニケーションにおいて理想と現実をつなげる

誤解は避けたいが中道左派の理論に仏教理論を一部導入するのは決して保守的な発想ではなく、日本の保守思想のなかに独裁の要素が紛れ込んでいることへの批判であって、同時に左翼の実践が歴史的に暴走したことへの懸念である。

西田幾多郎は、西洋哲学と仏教思想を融合させるために禅宗の影響による純粋経験論から、自己を否定して成立する真の自己意識が全体的に統合される絶対矛盾的自己同一論を展開しており、僕は彼に必ずしも賛同するつもりはないが、というのは氏の生きた時代や当時の日本の価値観の反映の結果として保守権力を正当化できる絶対精神を主張するヘーゲルおよび(マルクスヘーゲル左派とは異なり宗教権力に配慮し思想に宗教を持ち込む)ヘーゲル右派的なあり方は、日本の儒教文化や仏教右派の価値観に親和性があるだろうから、そのような上からの平等性という全体主義の方向性には批判的でありたいから。

ヘーゲルの絶対精神における世界精神は、キリスト教の神に代わって理性に基づく統合的意志が国家を形成する国家主義を正当化する支配側の観念論にもなり得るので、民主主義の立場からは批判したい。

(当時の欧州における宗教的権威を否定する反既得権・反権力の青年ヘーゲル派である)ヘーゲル左派だったマルクスや(ナチスを否定し批判理論を展開する)フランクフルト学派の思想をより評価すべきと考える。

平等を追求するためには牙を剥き出しにした資本主義による苛烈な格差社会で労働者や市民が物質的にもしくは精神的に不条理によって苦しむ状況を克服する必要があり、結果として唯物論というかたちをとってマルクスが資本主義が何であるかという理論を形成し、唯物史観による階級闘争という思想と革命行動を促したが、フランス革命ロシア革命のように革命は独裁や悲劇を生む結果となり得る。

誤解されて修正主義と批判されるかもしれないけれど、下部構造および上部構造という概念を否定することはしないが、現実の21世紀の世界においては労働と経済だけではなく、あらゆるタイプの人々の生活が平等の対象としてその前提にあるので、平等を志向する過程で各々の多様な意思が(ハーバマスの)コミュニケーション的行為を経た民主的手法を通して透明な検証の結果として高度に洗練され偏ることなき民意として理想的なかたちで反映され、それを(ルソーによる)一般意志の概念のように理念的な法体系を追求した結果として多様でリベラルな社会における平等と公平が成就されることが理想的だろう。

平等や公平という理想の実現にはそのような民主的手法を用いるのが前提ではあるけれど、理論的手法においては、絶対精神を主張するヘーゲルによる弁証法ではなくて、仏教思想の中観派による三諦偈を使う方がいいと考えた。

というのは、三諦偈は仏教思想における絶対性の否定を内包しているからだ。

三諦偈は無常無我から生じる空とそれに対峙する仮名から中道を導く論理であり、絶対精神や世界精神に繋がるとされるヘーゲル弁証法のような全体主義的独裁という現実世界の権力が行使した場合に非常に危険性が高い政治体制に陥る懸念がない。

この場合、仏教思想の哲学思想的要素だけを重視しており宗教性は別としておきたいが、そもそもが仏教思想は純粋に哲学にすぎず、生活空間において宗教儀式と同居していただけと考えても問題はないだろう。

そういった理由から、民主主義における市民や論者のスタンスをハーバマスのコミュニケーション的行為やロールズの重なり合う合意に置き、民主主義の法における理想的構図をルソーの一般意志的(共同体の成員が総体として持つとされる意志であり法律や憲法と解釈できる。個別の特殊意志や全てによる全体意志とは異なる)概念に置いて、それを提にした理想的な民主主義を作り出すためにも、世界をどのように捉え理解し合意していくかという概念的構図を三諦偈に置くのがいいのではないかと考える。

三諦偈(さんたいげ)
因縁所生の法は、我れ即ち是れを空なりと説く。また、名づけて仮名と為す。また、是れ中道の義なり〔『中論』第二十四「観四諦品」の第十八偈に〕

 【三諦】さんだい〔「さんたい」とも〕
中国天台宗で唱えられた説。空,仮,中の三諦のこと。諦とはサンスクリット語 satyaの訳語で「真理」という意味。空諦とはあらゆる物事にはおよそ実体というようなものはないという真理。仮諦とは,すべての存在はいろいろな構成条件によって成立しているから,存在するといってもかりの存在であるという真理。中諦とは,あらゆる存在は空や仮で一面的に考えられるべきものではなく,真理は言葉では言い表わせないということ。(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 

 仏教哲学の空・仮・中の三諦偈の方が独裁的な全体主義に繋がらないので弁証法より望ましいのは、仏教が物事を固定的に考えず、全ての物事が繋がっていて同時に常に変化していると捉えることによる空の概念から、欲と所有の無意味性を説いている(この場合の欲の否定には理想を目的とした意欲の否定は含まれないと考える)ことにより平等思想の導入に向いており、同時にヘーゲルが陥る絶対知、絶対精神といった絶対的なものをはじめから否定していることにある。

それを前提として、関係が相互に変わりゆく物事を包括的に捉えつつ、その無常の縁起から空という捉えきれない非有の概念ができ、さらにそれが空であるということから成立する非有非空の中道の理念を、左派の理想と現実の三諦偈的弁証法として適応することを考えるべきだろう。

これは二重否定という捉え方もあるようだが、その否定は全否定ではなく、双方が相互に矛盾を持つことによる部分的二重否定の要素を孕んでおり、否定されていない部分は否定しなくていいということにもなる。

双方の矛盾を双方の長所が補い合い不足を創造で埋めて機能性を修正することを繰り返す行為が現実を理想化していく。それらを固定的に捉えることなく融通無碍に無常のときの中で関係性を捉えながら必要に応じて新たな創造を生み出し、社会発展と進歩に寄与し、市民ひとりひとりが生きるときに自分の思い通りにならない苦の現実を可能な限り無に近づける柔軟な社会の仕組みを構築し、それを常に変化する現実で理想に向けて対応し続けることにより、左派思想と現実を三諦偈の中道思想により融合するという社会哲学における理論として用いたなら、きっと理想が実際の世界のなかに現れるだろう。

三諦偈における空の理論は、それを実現するにあたって「諦観」を重視する。

諦観とは明らかに見るが原義ということだが、自分の問題の本質を見極めその背後にある欲をあきらめて(主に強欲のことであり、個人的には意欲は別の扱いと考える)、理想的な本質に至るためのスタンスであり、前述の認知行動療法をすることに近い意義がある。

この認知行動療法により諦観の境地に至った状況で、コミュニケーション的行為に臨めば、民主主義により理想が実現できると信じる。

現実を不条理のない平等の理想を漸進的に近づける道筋だろう。

 
※ちなみに、僕は無宗教ですが、特定の主義主張にこだわるつもりはなく、しかし極論は避けつつも、公平性と平和、人権は最重要視します。仏教哲学に関しては、あくまで哲学としての活用であって、それは現代思想マルクスなどを哲学として扱うことと何ら変わりはないと考えています。

※この文章は過去に書いた文をまとめたものなので、もしかしたら流れに不自然なところがあるかもしれないけれど、論理展開は民主主義において理想を実現するために必要なものは何かという観点から比較的妥当性が高いものと考えます。

※要するに、民主主義をするには皆が勝手すぎるけれど多様性は尊重しなければならず、民主主義を構成する市民の人間性のゆがみが小さい状態であれば、民主主義はある程度の理想を体現する可能性があると考えて、そのための論理的な構図を考えたということです。