表現の自由、自由権、社会権、生存権、進歩主義、多文化主義、機会平等、男女平等、公平公正な分配、弱者とマイノリティへの慈悲と救済および支援。能力主義は公正な倫理観が前提となりそれに加えて生存権を重視しての結果の平等の必要性を社会は理解すべきではないか?

幸福な社会は可能か

人は究極的には何を目的に生きているのだろう。

ときに認識において一瞬でものごとが氷解するようなことがあるが、そのときにはそれまで畜積してきた情報が時間をかけて脳内であるネットワークとして熟成していった結果として、ある瞬間に最後のパーツがうまくはまったかのようにすべてのネットワークが矛盾なくつながるという経過をへていると思われる。

ものごとは一定の時間をおけば常に何らかの変化をしており、日常の変化は連続的で小さいものが複合的に関係して生じているが、科学的発見などの場合、それにより一瞬にしてすべての世界が同時に変わることもときにあり得る。

世の中には様々な人がいるのだろうけれど、心の中まではわからないものにしても親切な人も気がきく人も負けず嫌いな人も元気な人もそうではない人も日々一生懸命に生きており、その人にとってはそれぞれに一度しかない人生なのだから、相互に干渉せずに機能する互恵的社会システムをつくっていくべきであり、我々が生活しているその社会は因果関係やネットワークにより成立しているのだが、それは歴史の中でつくられた慣習と時代変化により柔軟に変化するものなので、変化や進歩を阻害することはそれが修復困難な破壊でない限りは問題であるから、それゆえに深い議論と調整により構築される社会システムは皆が幸福になれるものを目指すべきではないか。

その際の長期的な議論はものごとを発展させるために必要なものだが、議論といっても対立を煽るのでは逆効果になるので、相互の理解とそれぞれの歩み寄る姿勢が望まれ、しかしそれが阻害的妥協にならないようにしなければいけないと思う。


心の理論とミラーニューロン

人を知るとは自分を知り他者を知るということだろう。

自分の内面は自分しかみえないが、それだけで自分が何者かを理解することは不十分で、誰かとの違いを認識することによりその差分から自分の他者との相異がわかって、自分と他者を知ることになる。

自分が意図や推測をするように他人もそれをすることを予想する能力が人にはあるが、この心の機能を「心の理論」という。この機能があるから人は他者にも心があって、それに共感したり、ときに何とか心を読もうとして過って誤解したり、配慮したりできるということがわかる。

そもそも心とは何か。人に心があると理解できるのはどうしてか。

まず我々は何をどう認識しているのかだけれど、ものを見て理解するときに主に視覚からそれの意味を捉える。視覚像が、形や色、位置という概念に分解されて、それぞれに意味付けがなされ、それが統合されたところに認識と理解が生まれる。目の前にある現実を認識すると同時にそれについて考え、その直前からの文脈の流れでいまを理解し行動目的を捉えるための機能として、短期間の記憶が形成される。

普段の日常では慣れた行動習慣と目の前にある現実を照らし合わせて常に行動を決定している。より思慮深い判断の場合は、過去の記憶からその状況に関連した情報が引き出されて、理性や嗜好性によりそのときのシテュエーションに応じてその情報が参照されて、適切な優先順位付けがなされてそれなりに妥当な判断が選択される。

しかし、すべての人があらゆる状況に対して常に適切に優先順位付けができるとは限らずミスをするものだが、そのミスは感情とともに記憶されて、行動選択においてミスを回避するために使われる。これらの処理が上手くいかないとトラブルが増えることになってしまうだろう。

心とは脳が機能したときになされる認識、想起、理解、予想、判断、それらに伴う感情を統合したところにできるものと考えられる。

心の作用としては、様々な志向性…たとえば理想や夢、好き嫌い、打算や煩悩など…があり、それに加えてそれをしたいという意志と、抑制役となる不安などの情動が絡んた思惑が関与して、全体としてバランスをとりながら人は行動を選択する。

この場合の行動は一個人によるものだが、人が行動をするとしても必ずしも1人とは限らず、個人の周辺には社会やルールが存在する。その中で他と干渉せず問題なく目的に達する必要があるし、ときに他者に頼ったり助けてもらうこともあるだろう。

そういった社会の中で生きていくためには人の気持ちを理解して、相互に協力したり対立を避けたりする必要があるが、そのための心(脳)の機能としてミラーニューロンが存在する。

ミラーニューロンは相手の行動を観察したときに、それと同じ行動を内面につくり出す神経で、行動だけでなく快不快などの感情も同様であって、そのため共感にも関係しており、しぐさの理解に続く言語獲得の過程にも関連がある可能性がある。

ミラーニューロンの存在によって、我々は他者から学び他者を知り、自分を知ることができるようになる。

脳にあるそういった機能が人の高度な社会性を生みだしており、言葉を含む社会機能の高度化が人間か人間である所以である証左だろう。


自由

しかし、近代以降の社会の高度化による自然から疎外されてしまった人間にとっての本来のあるべきと姿は現代の巨大な都市や国家にはなく、それは手が届く範囲のコミュニティのなかで差別も排除もしない人々と助け合っていくことで担保されるものかもしれないが、現実は巨大な経済社会に翻弄されて自分自身ではないペルソナを纏って現代社会を生きているのが普通になっている。

仮面も鎧もない裸の自分で生きられるような世界と現実の世の中との違いは何なのだろう。

ヒエラルキーがある格差社会においては、社会構造の複雑さが背景となってそのような自然ではない状態が存在するのだろうが、イノベーションが複雑性を補うことで、巨大な社会の中にあって疎外されない状況をつくり出すことを目指すことは可能だろう。

いまの世界の複雑さは、人の能力が数百人の小コミュニティの範囲でしかものごとを把握できないのに億のレベルの人を一つの社会や国家として運営しているので、それを細分化しグループごとに別けて立体的に階層化して扱うしかないのかもしれない。

現在のコンピューターテクノロジーは人では把握不可能な情報量を処理できるので、階層のないフラットな構造の社会をつくっても、普遍的な同じルールを適用して経済と生活を維持できるのではないかと思われる。

実際に大企業レベルではそのような中間を抜いた組織構造の簡略化がなされるケースもあり、結果として硬直したシステムから柔軟なものへと移行した方がうまくいくという結果ももたらされているようだ。

それが一組織で可能であるということは、社会全体でも一定の基本構造を残しつつであれば、階層のないフラットな構造の社会をつくり出すことも期待できるのではないか。

フラットな構造は意思疎通が容易なため基本的な目的を共有したり、シンプルなルールで組織が機能するようにできる可能性があるようだ。そこでは自律的で相互作用が働く小グループが、目的に合わせて柔軟に組織全体が機能するように動くことで効果的にシステムを実現していくことができるだろう。

しかし、現実には巨大なピラミッド型の官僚組織が支配していることが多く、フラットな構造の組織形態をするには決まったことを決まった通りにする人材では不足で、自ら考え他者と話しあい状況に適した判断をしてそれを協力して実行する人の養成が望まれる。

また、正しい判断をするためには正しい情報が必要なので、正しい情報を供給できる社会状勢がなくてはいけない。

ものごとの根拠となる情報の何を信頼すればいいのかも難しい時代なので、まず必要なものは信頼できる情報であることから、信頼できるジャーナリズムと有識者及びシンクタンクなどの正確なデータをつくり出せる組織の存在が望まれるということになる。それらを生み出しているのは人(AIも人の模倣にすぎない)であり本質的なところでは教育なので、そのあり方が健全なのかの検証も必要となる。

人のすべてが倫理的とは限らないので、不正がないかのチェックや監視の仕組みもなければいけない。誰もが安心して安全に幸せを感じられる社会を望むのは当然のことで、そのために我々が学ばなければいけないものは人権や立憲主義および倫理であって、歴史は過去の失敗からの教訓程度で十分なのかもしれない。少なくとも悪智恵を歴史から学ぶ必要はないが、それへの歯止めと対策はすべきだろう。

プラトンの「国家」にギュゲスの指輪という比喩がある。指輪の所有者は意のままに透明になれるため不正が発覚することがないが、それでも人は正義を貫くかどうかだが、透明になれる指輪を拾ったことで王を殺して権力の座につく不正の是非が正義の観点から語られている。

不正の方が正義より得になるとは限らないが、そう考える者がいるのは確かなことであり、それにより多数が損害を被るため社会は透明であることが望まれるが、一般人も不正をしてはならないことは当然にしても、権力側の不正が社会に及ぼす問題の深刻さは大きく、この場合の透明性(情報公開や不正監視)の優先順位付けは市民の側の有識者がすべきではないか。

現在は規制をしなければネット監視が簡単に可能になる時代であり、同時に国民背番号制の導入が進められている。

不正をする者がいると困る時代ではあるけれど、報道の自由が落ちている時代に、権力による市民の監役ができる社会になりかねない懸念があり心配している。

人類の歴史は実際は庶民の生活と経済活動によりつくられているはずだが、教科書の歴史は権力の興亡により彩られている。その背景には常に様々な策謀があるはずであり、クリーンなだけで権力の座に就く人は希だったに違いないし、たとえそうであってもその周りの誰かにはそうではない特性があったはずだし、もしクリーンな権力であったとしても何らかの不作為の作為があり得たのではないか。

権力には不作為の作為を回避する努力が必要なのはいうまでもないものだし、そのためには権力の側にも市民の側にも正確な情報が必要であって、それには公平で間違いのない統計情報、および公文書の保存、情報公開、報道の自由言論の自由表現の自由の最大限の尊重が望まれる。

もし社会に自由が十分にあれば、それまで正しいと信じられていたものが間違いのときに容易に修正することができる。

ニュートン万有引力の法則により地球上で通じる物理学をつくったが、アインシュタインは宇宙の基準が地球の寸法では問題だと考えたのだろう光速不変を基準とした。結果として時間も空間も不変ではなくなった。

光は物質に遮られる性質があるが重力は遮られることがないものだから、たとえば仮に未来に重力を宇宙の法則の基準にすべきだという学者が現れ新たな提言と証明がされたなら、世界にパラダイムシフトが起きるかもしれない。

しかしそういうことも言論の自由がなければ簡単にはできないものになってしまう。

社会というものが人の価値をつくり出すのだから、それが誰にでも望ましい選択肢を提供できているかが重要であり、自由があることの必要性は極めて高い。

自由の対義語は束縛や統制だ。

疎外されるほどに人は不自由を嫌い自然な自由を求めるものだが、それに反して支配の側が統制をするケースは秩序の維持が目的だったり権力者の支配性の問題だったりするだろうけれど、その結果として社会だけでなく科学や技術の発展も抑制されるのでは問題だろう。

ゆえに支配側も市民も立憲主義法令遵守は当然であるが、人のミラーニューロン及びメタ認知能力(自己を客観視する能力)が十分に機能していれば人の気持ちに配慮するようになるはずなので、自由な社会においてもそういった方向に育った人々によって構成された社会の秩序は安定したものになるだろうから、それぞれが相互に干渉せずに互恵的に生きていくためにも、たとえば教育においても学力ばかりに偏らないバランスのとれた姿勢で対応した方が、社会全体にとって望ましい方向性があるように思う。

それ以上に誰もが包摂された寛容な社会状況をつくるのは喫緊の課題であって、そこに向けて漸進的に社会を進歩、発展させることが望まれるだろう。

 

公平な社会と合意形成

論理的な言葉による公正公平かつ透明な話し合いの環境が整った状況があっても、人々が利己的すぎればどのような正しい議論も無意味化しかねない。

人の心は情動が安定していれば問題を起こすことは少ないが、常に平穏な心を維持できるとは限らないので、心を乱す原因を見つけて問題が生じ難い状態を総合的に時間をかけて自らつくった方が、個人においても望ましい人生を送れるようになるだろうし、それが結果として社会の安定にもつながっていくと思われる。

心に乱れが生じると、不要の猜疑心や疑心暗鬼により何もないところにトラブルができて場合によってはそれが周辺に拡大しかねない。それらは不機嫌からくる怒りや恐れがつくり出す被害妄想念慮の類いであり、心の状態が改善すればそれらの問題は消失する。

偏りなく正しく思考するための方法は一つとは限らず多々のアクセス手段があるだろうが、心を乱す原因を見つけて問題が生じ難い状態を自らつくるためには、たとえば呼吸を整えて心を安定させるための瞑想や自律訓練法で欲や自我をなくすこともその一つであり、現代的手法としては認識のレベルで問題を回避して行動を改善する認知行動療法によって自分の思考の癖を知って、それを修正改善していくこともその一つとなると思われる。

多くの市民が健全な社会形成のために普遍的価値観を有することは望ましいことだが、普遍を体現するには、まずは偏りのない思考習慣を身につけなければならないのも確かだろう。

そういった姿勢が一般化したなら、社会を構成する個人がそれぞれに自己実現を叶えながら活躍して、同時に皆が幸せになる社会システム生まれて実際にが機能するような世界が実現するときもくるはずだ。

これらは性善説だけで世の中がよくなるかどうかという話ではなく悪人を善人にする意図も含まれているということだが、同様に健全なコミュニケーションがあれば意思疎通が容易になって社会関係を良好にすることができるから、それらにより問題の改善等が円滑に進むことが期待できる。

コミュニケーションといっても個人間で成立するものもあれば、ルールやシステムを決めるための合意形成のためのものもある。

後者に関しては分野違いの複数の専門家の意見も参照されるだろうけれど、異分野間の意思疎通を円滑にするためには言葉の語義の不一致を解消する努力も必要になるのではないか。

それぞれの人がもつ言葉の知識の個人差が、同じ言葉から異なる理解をつくり出すというトラブルにもなり得るので、分野を超えた用語の語義の定義の一致がなされれば、少なくとも不用なトラブルや混乱は最小化できるのではないか。

合意形成にあたっては、異なる意見を調整しなければいけない。

そもそもその正しい目的が幸福な社会といった抽象的なものならばともかくも、喫緊の問題については各論であり目の前の課題解決に終始するだろうから、その目的や手法についてはそれぞれに熟議しなければならず、それと同時にその最終的な目的の一つがたとえば全員の幸福であるといった、眼前の課題と普遍的目的という二重入れ子構造になる目標設定が望まれる。

それはある意味では立憲主義下における立法行為という憲法と法律の関係と同様で、カントの定言命法において普遍的な目的に則して各々の決定をしていくことと似ているはずだ。

また、開かれて透明かつ検証可能な経緯によりつくられた客観的な合意は、ルールやシステムとして問題がない限りは機能しているとみなされ、単なる意見の寄せ集めの全体意志でも、特定団体の意見でしかない特殊意志でもなく、一般意志という普遍に基づいたものに近づけるべきだろう。

政治における合意はそれを目指すべきだ。

それぞれの主張に意義があって折り合えないときには、共通部分を抽出して周縁の合理的妥協を客観的な優先順位付け等により図ることになるだろうが、その際に本未の目的と総合的な機能性を損なわないかの検証も必要になる。

社会は異なる見解をもつ個人が集まって成り立っており単純な合意では偏った問題が生じかねずバランスと理念を尊重すべきだからだが、加えて社会を構成する個人がそれぞれに自己実現を叶えながら活躍して同時に社会が機能するようなシステムを模索し実現できたなら、非常に幸せな世界になるに違いない。

そのためには機会の平等と自由および失敗しても救済されて再挑戦ができる社会システムが必要で、それは近代以降の社会が生んだ人権思想の具現化があればそれで十分であり、技術革新が進んだ現在においては、その実現性は社会的合意さえあれば比較的容易になっている。


公共

公共空間が健全であれば、ネットを無償化して誰もが公平に情報を得る機会がある状況にでき、社会システムを平等にできれば、公正に分配することも技術的には容易になる。難しい状態に陥った人をみつけて救うことも、支援することも可能になるはずだ。

技術革新は人々を幸せにすることも支配することも簡単なので、後者への懸念から民主主義の重要性と情報公開の必要性があるが、それを実現して公の透明性を得るためには、民主主義を徹底していく市民の努力が必要になるから、教育の段階から市民社会の歴史や民主主義の意義を教える重要性は増す。

しかしその道は簡単ではないようで、どうしても為政者は問題を隠したがるし、権力に迎合する者は後を絶たない。問題が隠されるということは、一般市民にとって都合の悪いことが表に出ないのだから、どこかで社会にとって不都合な状況が生じることになるはずだ。

それを放置した場合には予測できない問題に対拠せざるを得ないことになり得るのだから、情報は公にして多重のチェックがなされた方が、たとえそれが批判であっても問題に適切な対応をすれば、社会の安定は維持されることになるのではないか。

公共の信頼性が高ければ、経済社会における分配およびそれに関するルールも機能的なものになる可能性が高いので、公正なルールの下で市場における分配が一定以上に公平なものならば格差は小さくなる。そういった市場による再分配が適切になされればいいのだが、そうでなければ福祉国家的公共の市場への介入は大きくなる。

現代における福祉国家は小子高齢化により制度の継続に苦しんではいるが、21世紀の経済がサービス業中心になっていることもあり、医療や福祉とそれ以外のサービス及びその他産業により経済を維持し再分配によって社会が安定的に発展することが可能であることが証明されている。

資本主義市場経済は放任すると格差が拡大するものだけに、一定の適切な規制を入れたり再分配することで不条理を是正して公平な状態にしなければ人道に反するから、公共政策が経済や社会問題の歪みに対して補うかたちでなされる。

たとえば金融緩和は緩和マネーが金融市場という経済の上層に滞る傾向があって、現実としてトリクルダウンが幻想でしかなかったことは明白であり、よって金融に課税して公共投資により社会の問題を解決するのが正しい対応ということになる。

緩和縮少に対しては、ワークシェアリングなどシェアリングエコノミーを目指し実現することが可能だったとして、同時に同一価値労働同一賃金や最低賃金の引き上げ、非正規労働者中小零細企業従業員向けの全国的な労働組合などや生存権の保障の充実があれば、市場において資本主義経済における格差などの社会の歪みを正すことができる。

金融緩和政策は拡大と縮少がそのときどきの経済の状態に応じてなされるため、公共政策は公的再分配の重視の時代と、市場での分配機能を促すための規制(前述の同一価値労働同一賃金など)を重視する時代に選択が分かれるので、政治判断が政党の立場だけでなく経済状況によって左右されることを知らなければいけない。


人権

基本的なところでの平等政策が実現していれば社会の至るところで波及が生じて、その他の男女平等などを含む社会のあり方など幅広い制度や慣習に民主主義の下で影響するから、一定の柔軟で平等な社会が実際に存在するようになる可能性がでてくるに違いない。

平等な社会であれば不条理に遭遇する確率が現在より大きく下がり社会における不満の合計は小さくなるが、個々人によって異なる平等に伴っての自由の拡大と縮少のバランスをどうするかにも配慮する必要がでてくるだろう。

平等にするということの意味は、機会を等しくすることと同時に生存権や健康権をすべての人に満たすことであり、それ以外にどうしても存在する格差をどこまで許容するかという課題にも向き会わなければいけない。

どこまで平等にするのかということに対してそれと干渉するのはどこまで自由を許すかということだが、人々が自由に行動するとどうしても発生するのが何らかの人権衝突であり、その定義をどうするかは大きな課題にしても、人権衝突を回避することを前提とした自由は一定の平等とは矛盾しないはずだ。

公平な社会であるべきなのは当然のことで、個々人は皆それぞれ個性があり同じではないのでそれは尊重すべきものだが、生存権という観点からの平等はそれらと干渉するものではないと同時に人権尊重とも矛盾しないので、社会と公共はその実現のために常に怒力する必要がある。

一般論としても学問においても社会権自由権における人権の制約は異なり、自由権を重視して制約を人権衝突にだけ限定するのと、平等のために社会権の経済的制約に限って一定の制限を課すのは、二元的内在外在制約説として理解されている。(※ちなみに人権衝突については公共の福祉で扱うべきかどうかについての見解の違いがある分野なので、その学術的議論に関与するつもりはないのです。)

人権の衝突を回避する範囲での自由が社会システムとして機能していれば個人の自由は許される限度内で最大化でき、生存権や教育、労働条件、社会保障の権利など社会権が十分に保障されていれば、不安なく十分に自由で公平な社会で生きていくことが可能になる。

現代においては憲法国際人権規約によりそれらが保障されているにもかかわらずまだまだ理想が遠い現実は、民主主義や社民主義が浸透していないことがあるからだが、前近代とは異なり国際的にそのような理想を目指す姿勢が普通となっている時代だけに、価値の共有と普及が十分にいきわたること、及び、理想を理解しない利己的な勢力に対して理解を求めることが共に十分ではないので、それらについて何とか人類が漸進的に努力することで皆が幸福になる社会を築いていく必要があるだろう。

そうでなければ人間が本来は利他的な存在であるにもかかわらず、一歩間違えば集団間の利害関係や個々の間にある葛藤の表面化などの制御ができなくなるがために、社会の秩序の維持が難しくなって人々は不幸な時代を生きることになってしまいかねない。

人は生きて生活する限りにおいて小さな幸福を求めるものであり、自ら不幸を願うことなどあり得ないことで、社会と公共はすべての人々の幸福を目指すべきものとして近代以降は設定されている。


幸福とは?

幸福とは何かという問題の原点は重要なものなので、古今東西の賢人が幸福についてどう考えたかを簡単にまとめてみた。

アリストテレスはテオリア(観想)を重視し、ものが機能を十分に発揮している有用さのある状態がアレテーであり、人間の場合は理性的にものを探究している最高善の状態を幸福とした。また倫理的な善により治められた国家で生活する者は幸福であるとも考えた。

ショーペンハウアーは、私たちは苦悩の中に投げ込まれた存在だから、できる限り苦を少なくする生き方は、目先の環境に振り回されるのをやめ、すべては空しいと諦観することで精神的落ち着きを得られる。才知豊かな人は外部のものを必要としないので孤独の中にこそ自由があるとした。

マズローは(幸福のためとは限らないが)欲求5段階説を提唱し、生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求 / 所属と愛の欲求、承認(尊重)の欲求、自己実現の欲求を段階的に満たすことを目的に人は成長するとした。

古代インド思想や原始仏教思想においては、瞑想により認識を得て輪廻や身のまわりの様々な執着からの解脱により苦悩のない平安な自由と平等及び幸福が得られると考えられた。

古代ギリシャエピクロス派は、最高の善は肉体的快楽や苦痛を超えた精神的快楽で徳と不可分であり、そのためには節制に基づくアタラクシア(心の平安)を求めるとした。ストア派の思想はアパテイア(心の平安)によって苦痛から解放されるというもの。古代インド思想の価値感に近いものがある。

スピノザは万物の内在的な原因である神の無限の属性の中の有限の人間が幸福をみいだすためには、自己保存のコナトゥス(衝動)の原理に支配されている共に神の属性である精神と身体が、ものごとを永遠の相の下で見ることで外部の力でしか破壊されない自己の感情を克服し理性により神の直観知を得ることとした。

華厳経は人を包含する世界を、慈悲に基づく他者に対する利他の働きかけがあれば限りなく広大で美しい種々の荘厳の総体すなわち華厳の輝きわたるものの法身とみなし、この広大で美しい世界は自らの理想として信解するそれぞれの人の理想へ自己を投入しようという行いによって幻のごとくに顕現するとする。

ベンサムやミルによる功利主義は、行為の目的を最大多数の人びとに最大の幸福をもたらすことだとする最大多数の最大幸福を提唱している。これは格差の存在をどう扱うかの問題を孕んでいるが、近代が成立していく変動期の不幸な時代に理想を求めるきっかけとなるものだった。

アダム・スミスは、道徳感情論において幸福は平静と享楽にあり平静なしには享楽はありえないが、人間がどんなに利己的なものでもあきらかに人間の本性には別の原理があり、人間は他人の運不運に関心をもち他人の幸福を自分にとって必要なものだと感じると考えて、共感と同情を重視した。

マルクスは、資本主義は物と物との関係による物象化により価値が決まる貨幣がすべての世界をつくるが、資本家のために剰余価値を生むための搾取から労働者が解放された疎外されていない状態が、本来の人のあるべき幸福のかたちとした。

マルクーゼは社会が疎外された禁欲労働とそれに耐え忍ぶための仮の幸福としての文化に分極することを憂い、管理的生産性追求を否定し支配と解放の両義性を懸念しつつも苦役を減らす自動化技術で可処分時間を増やし、ものを産み出す快楽を伴う自由に対象と戯れる遊びとしての人間労働と文化を目指した。

ヘーゲルは、個人的な欲求の満足という意味での幸福観は共同体との一体性を喪失し実際は不幸であるから、幸福を自他の相互承認を介して成り立つ個と全体との調和的統一のうちに見いだした。

ルソーにとって幸福へ至る道には意志・欲求が充足される自由が必要で、欲望に対し能力が不均衡にあるなら欲望を減らし力と意志とを平衡させればよく、同時に自らの弱さを知り反省すれば自他共に愛情を注ぐようになり、自分の意志と市民の意志を一致させて社会に役立った満足感が幸せな生き方となるとした。

「幸福を求めるのではなく幸福に値する者となれ」
カントにとって幸福は個人的目的でしかなく、普通的道徳法則に従う善意志をもつ者が互いを尊重する国際社会を含む理想的共同体を望ましいものとした。

幸福の条件や定義は前述の内容を鑑みると、安全、平安、平静、享楽、理性、知的探究、自己実現、自由、有用感、承認、社会に役立った満足感、共感、調和、尊重、愛情、利他の実現した世界、無欲、普遍といった多様なキーワードが並ぶが、この範囲の賢者とされる人の意見には意外なことに所有に関するものがないようだった。

ここでの幸福の条件に所有がないようだが、所有すらできない場合は別として、十分なものの所有でも幸せになるとは限らないことが示俊されているように感じる。挙げた条件には享楽や自己実現といったものもありマズローはそれを人間の目的としたにしても、すでに自己実現を果たしたかつての偉人たちはそれ自体を幸せの条件とはしなかったようだ。

自己実現を果たした人たちが本当の幸せを追求したときに、おそらく成功とは異なる承認欲求も含まれるのだろうが、それ以上に自分を超えたものもしくは社会全体への視点が生まれてくるのではないか。利地的な行為が社会の多くの問題を解消することに気付く俯瞰的視野が啓かれていったに違いない。

基本的には束縛も不安もなく落ち着いた状況において楽しみを得られることは普通に幸せだし、それよりも志が叶うことにより周りに認められることで得られる幸福感は大きいだろう。

より高次の意識水準に達して見返りなく社会に貢献することで最高の幸せを感じられるならそれ以上のものはないかもしれない。

安定した平和な社会が前提となるが、それを構成する個人がそれぞれに自己実現を叶えながら活躍して同時に社会が機能するようなシステムにするには、近現代が到達した人権思想から生まれた結果の平等と機会の平等が実際にあって機能している社会状況があればいいわけで、実際のところそれが技術的に実現可能な段階になりつつあるのは確かだ。

ではどうしてその実現が遠く感じるのだろう。

人々がそのようなことに無感心であることが大きいが、それは時代が変わって不要になった慣習がいまだに維持されていることによって、それがつくりだした既存の観念という障害が、実現可能な範囲の理想の実現にとって最大の障害となっているからと思われる。そういった観念が様々な組織や集団をつくり出し、社会変化に伴って何らかを失うことを恐れる既得勢力として存在することもあるだろう。

しかし彼らのそういった怖れは、何かわからないものへの疑心暗鬼やあまりに利己的で初歩的な誤解からくる思い込みによるものも含まれているはずなので、そういった誤解をなくす努力も必要になるのではないか。社会がつくり出した偽善のなかにはそのような誤解に基づくものも多いと思われるので、単に誤解であれば解消した方がいいだろう。

いまの技術水準であれば社会不正をなくし公正に分配することが可能なので、本来の理想的あり方から目を背ける別のものによって社会改善を阻害し人々を疎外させる問題ある構造があるならそれは改善したい。

本当の意味での幸福な社会が実現するなら実際は彼らも失うものより得られるものの方が大きくなる可能性があり、そこへの理解が必要なので対立概念にするよりコミュニケーションの対象として時間をかけて話し合うことで、社会が漸進的に良好なものに変化していくことへの期待がもてるのではないか。

賢者とされる人たちの幸福の条件は、安全、平安、平静、享楽、理性、知的探究、自己実現、自由、有用感、承認、社会に役立った満足感、共感、調和、尊重、愛情、利他の実現した世界、無欲、普遍など多様なものだったが、そういった結論に達する道筋をそれぞれの好みに合わせて共有することもあっていいかもしれない。

私たちは生きているのだから幸せを目指していくことが自然であり、すべての人にその権利があるのだから多くの人が幸せになった方が幸福の総和は大きくなる。

同時に多くが幸せな社会のなかに不幸な人がいたらそれは幸せな社会といえるだろうかという視点は、前述の条件を鑑みても人間存在としても必要だろう。

技術革新が進んだ現代においては、かつては不可能に思えたような理想が実現可能な段階にきているのだから、固定概念に縛られることなくオープンかつ柔軟に話し合うことで社会のあり方を徐々に改善してみんなが幸せになれる世界をつくることをあえて否定する必要はないだろう。

幸せな世界とは、社会を構成する個人がそれぞれに自己実現を叶えながら活躍して、同時に社会が公平なかたちで機能するようなシステムが実現しているものだとすれば、誰もがそれを望むはずだし、そういうことが可能な時代になっていることを多くが認識することから一歩がはじまるのだと思う。


認識の問題

それではどうしたらそういったことを多くに認識してもらえるのだろうか?

これに関しては、人にはそれぞれに生育環境による価値形成があるが、伝統的な価値観と人権思想が必ずしも同じものとは限らないことについて、人権思想がより上位の概念なので社会を健全に発展させることを知ってもらい、人々に古くさい固定概念に囚われることなく理想を追うという望ましい姿勢を選んでもらうにはどうしたらいいだろうか、という直接的な言い方にしても同じかもしれない。

どうして人は固定概念に囚われたり、自分にとっても皆にとっても望ましいものを否定したりするのだろう?

ものごとを正しく認識するということはそんなに難しいことだろうか?

そもそも我々がものを認識するとき、実際は何を見て何を根拠にわかったと感じているのだろう?

これについても古今東西の賢者の意見を参照しようと思う。

フッサールは、自分と周りの世界の存在を知っている自然的態度を批判した。人は自らを世界の存在者として認識するにとどまりそれ自体の意味を問題にできないので、関心を抑制し対象へのすべての判断を停止すること(=エポケー)により、意識を純粋な理性機能として認織する態度を提唱した。 

唯識派はすべては識としての心の奥の阿頼耶識が現わした世界にすぎず物事はすべて関係性の上で縁起として現象していることを人が認識しているだけで心の外に事物的存在はないと考える。記憶は阿頼耶識に保存されるとされる。
(※これは科学の未発達な時代に、心の問題及び原子論について上座部が哲学論争をしても矛盾だらけになったために、大乗においては確実にわかる心の中=識だけを捉えるようになった結果だろう。)

フロイト精神分析で精神過程を意識、前意識、無意識(イド=エス) の3層に分け、超自我は3層をまたいで規則・倫理・理想等を自我に伝えるとし、無意識層に抑圧された願望を対話・夢・連想から意識化して神経症を治療した。ユングは無意識の中に遺伝や過去の痕跡のある集合的無意識が存在すると考えた。

カントは人間が認識をすることが可能な現象界に対し、認識の起源となるが不可知である物自体及び普遍的な道徳法則のある英知界が存在するとした。

カントにおいてはアプリオリは経験に先立って認識される概念である。人類共通の経験の仕方である感性の形式として時間及び空間を先験的純粋直観的(アプリオリ的)に認識し、人間に共通の理解の仕方として悟性のカテゴリーがあるとした。
(※悟性のカテゴリーは、分量[総体性/数多性/単一性]、性質[実在性/否定性/制限性]、関係[実体性/因果性/相互性]、様相[可能性/存在性/必然性]に分類される。)

それらによってものごとを認識するので対象が意識を規定するのではなく意識が対象を規定するというコペルニクス的転回をもたらした。

ルーマンは社会をシステムの観点から読み解いた。 世界とは私たちが現実に体験できる事柄だけでなく、それを超えた可能性からなる不確実で複雑なものなので複雑性の縮減のため私たちは意味によって世界を秩序づける。その相互コミュニケーションにより行為やアイデンティティーが成立すると考えた。 

ルーマンは社会システムに生物学における生命システムの固有性を記述するために提唱された概念であるオートポイエーシスを導入している。

システムは複数要素が互いに同一性を保持し相互に依存するループである。
システムは自己の内と外=環境を区分して自己を維持する。
システムは複雑性の縮減を行うことで予期し適合して安定する。
システムは外部環境が存在する場合に意味を持つ。

これらオートポイエーシスの概念を基準にして、生命システムとの対比によって社会の構造を究明した。

我々や我々が所属する社会自体はルーマンのいうオートポイエーシス的な存在として機能している可能性が高い。

それは進歩主義的観点からはやや柔軟性に欠くものかもしれないが、社会の発展は短絡的には難しく、様々な利害関係による複雑な構図にある問題の改善には、正しい目的に則した時間のかかる調整が必要で、それを繰り返して間題の改善を図っていくという大変な労力が求められるため、不屈の努力をする覚悟も必要になるのだろう。

しかし秩序を自動的に安定化するような構造は、それが最初の設計の段階で理想的なものならばともかくも、必ずしもそうではないケースにおいては改革が必要になる。それでは何を基準に合意を形成して社会を発展させる原動力を生み出せばいいのだろうか。

合意を形成するためには異なる立場の人たちと時間をかけて丁寧にコミュニケーションをとらなければならない。そこで用いられる道具は言葉ということになる。

人の意識に上る世界の複雑性を縮減させた意味そのものも言葉によって表現される。

人は言葉によりものごとを認識しているのだからより正しい言葉は、超自我機能によって無意識領域に浸透して人の認識を正していくと思われる。

脳科学の観点においては、人間の認識は最初は非言語的な五感によってもたらされるが、それが脳の中で分類されて後頭連合野・頭頂連合野・側頭連合野に送られて色や形及びその意味や位置など各要素ごとにバラバラに認識されたものが前頭連合野で統合されていわゆる意識が生じる。

五感で認識される外部環境の要素が脳の各連合野で統合されて一定の意味として理解されるが、人は社会的存在であるがためにコミュニケーションをとる必要があり、そのための道具として言語が発明されていった。

人は幼少期に自然と周りから言葉を習得する。

言葉は人が社会の中で周りと交流する課程で高度化したが、地域によって語彙や文法及び活用等に違いがある。

どこで生まれたかにより習得する言語が異なるので、言語は後天的に身につけるものであることがわかるが、言語の構造そのものはもともと人が遺伝的にもつ能力であるとする生成文法という理論がある。

ゆえに成生文法は経験知に先んじて存在する理性的なものを前提としているので、合理論の属性の理論であって経験論的ではないということになるらしい。

言語以前にある認識のあり方も様々な分類が可能と思われるが、たとえば前述のカントは合理論には限界の存在を経験論には科学的客観性を示し両者を止揚したが、認識における先験的な悟性の12のカテゴリーもその一つだろう。

言語もそれ以前にある認識も、人の知性には遺伝子レベルでそのような構造を捉えることが可能になる仕組みがあると思われる。

ちなみに生成文法では、それぞれの言語によって異なる語彙規則、意味規則、音韻規則、それから句構造規則と変形規則からなる統語規則があるが、その前提となる構造が脳に遺伝的に存在しているとされる。

それぞれの言語の句構造規則による構造に語彙を挿入すると言葉における意味の相関関係である深層構造が成立し、それに変形規則を適用すれば文の具体的な形である表層構造ができるとのことらしい。

言葉が後天的に学習されるものだとしても、その認識や理解の前提となる構造は遺伝によるのなら、ミラーニューロンにより学習理解をする人類は基本的に「同じもの」を理解し共有できる可能性があるのだろう。

しかしその「同じもの」が望ましいものであるとは限らないケースもあり得るはずだ。

言葉と文章によって意思の疎通が可能になることで家族やそれを超える集団が発生し、集団同士が衝突していくなかでより大きな社会や国家が成立していったことは自明だが、やがて文字の開発に伴ってそれが時代と共に情報の畜積を生み複雑な制度やルールの適用を可能にした。結果として社会は文明を有して発展していくが、文明はある種の本質において支配を意味するものであって、人々が望む人間本来の自然な状態や皆の幸福を目指すものとは限らない傾向があった。

人間の中には支配性という志向性が存在する。それは社会が大きくなった結果として前近代までは秩序を安定化させるためにそれなりに意味のあるものだったのかもしれないものだが、権威主義的パーソナリティをもつ人間が存在する限りは過度に支配的で危険性を伴う政体が成立しかねない懸念があり、それは近代以降は人類にとっては脅威以外の何ものでもなかった。

産業の発展と資本主義社会の形成に伴って格差と社会矛盾という不条理が拡大し、そのなかで革命やその輸出により民主主義が広まった後の世界においては、支配的統治は望まれないものだったにもかかわらず、何が正しいのか判別できない人々の権威ある者への服従と弱者に対する攻撃性により容易に民主主義が崩れるという恐しい事態が戦争や弾圧を伴うかたちで発生したからだ。

技術発展は生産性を上げる人々を過酷な労働から解放するはずのものだったが、同時に人々を監視したり巧みに支配する道具としても利用可能なものでもあった。

民主主義もマネーの支配する巧みな傀儡と容易になり得るものであり、それを回避するのに一般市民の意識は高いとはいい難いものかもしれず、民主主義を理想的なものとして運用していくには、より多くの努力と工夫が必要と思われる。

人の価値感はその人が生きている間にその人の生活環境と情報環境によってつくられたものであり容易に変化するものではない。しかし、その人が知っている世界より優れた社会システムが存在する可能性を知ることはできるかもしれない。

だからこそ普遍的な正しさを選んで望ましい価値形成を志向すべきで、少なくとも皆が幸福な社会システムを目指すべきであるという意見は、その実現可能性に関する議論を除けば、否定はできないものの一つだ。

ただ人はそれらを認識するだけでは不十分で、認識が価値変容に繋がらなければ意味がないかもしれない。

社会の改善は誰かの実際の行動が伴わなければ実現しないし、行動の前に必要な情報を届けなければ認識すらされず、認織されても価値変容がなければ行動の動機すらないことになってしまう。

それでは認識が価値変容に繋がるためにはどうすればいいのか?

強要はしてはいけないものであることは人権上の常識ではある。人は自由を好む生きものであって故に強制は逆効果になるのでしてはならない。

しかし同時に人は良いものに傾倒する性質があるので、その情報の普遍的価値の良さと実現性を重視することが基本的には正しい対応なのだろう。

人の記憶形成は短期から中期の記憶を司る脳の海馬の近くにあって感情の核である偏頭体に影響されるから、強い感情が伴うと記憶ができやすくなるが、この脳システムはどちらかといえば古い脳である辺縁系に属する動物的なものなので強い不安や恐怖に反応しやすい。

それはリスクを回避するために具わった仕組みであり、理想などの大脳皮質でかたちづくられ判断されるものとは異なるが、しかし理想は悲惨な状況を避けたい人々が生み出すものでもあるのだろうからまったく関係ないとはいい難いのかもしれない。

一度海馬に保存された情報は睡眠中などに整理されて重要なものは大脳皮質の変容というかたちで長期記憶となる。そうやって形作られた大脳の神経ネットワークを使って我々は思考をしているのだから、子どもの頃から得た情報が意図せず無意識に認識や行動に影響する。

価値感とはその人の脳に記憶されているものであり、それは無意識の領域に作用して多くの場合に瞬間的に反応するので、それを意識化しなければ基本的に短期では変化しないが、しかし人は魅力的なものにはすぐに惹かれるし、好ましいと判断したものには影響されるものでもある。

正しい情報にふれる機会が多いと人はそれを長期記憶にしていくものなので、一般人にとってはジャーナリズムと一般メディアの存在が仕事を含む日常生活以外の価値形成につながる情報ということになる。子どもの場合は教育の影響の方が大きいかもしれない。生涯教育を受ける大人もそれは同様だろう。


社会における間接互恵性や効果的利他とその延長にあるシステムについて

人類の普遍的価値の中の一つに利他があるが、(一見すると)自分の利益になるとは限らない利他行為をすることで幸福を感じる傾向が人類に具わっているのは、おそらくその特性が集団や社会全体の利益となり、その結果としてそこで生活する自分にも何らかのかたちで利益になることを、何万年もの人類の歴史のなかで遺伝子のレベルにおいて学習しているからと思われる。

それは1対1での互恵的相互利益を超えた複数者間もしくは社会におけるものであり、廻り廻って皆の利益が大きくなるような間接互恵性という概念があるが、ここでの利他はそれに近い発想になる。

それらの行為が人類に存在するのは人の脳内にあるミラーニューロンが関係している可能性があるが、それだけでは説明できないかもしれない。利他的な方が集団として他より有利になるのは誰でもわかることだが、個人においては人は自己利益を追求するのが自然だから、人や生き物が利他行動をするのはミラーニューロンが共感を伴うかたちで作用し、誰かの喜びを自分のことのように感じられるからではないか。

動物行動学の範囲において互恵的な利他行動が生物の間で存在することが知られている。集団で洞窟に暮らすチスイコウモリは夜間にほ乳類などの血を吸うが、2割程度は全く血を吸うことができないため、血を十分に吸った個体は飢えた仲間に血を分け与える。

それによって受益者の利益が行為者の損益を上回る。しかし返礼をしない個体は群れから追い出されるらしく、この利他行動や排他行為はあたかも人間集団における群集心理かのようにみえるが、あくまで動物においての行動であり、より高度な知性を有する人間がつくる社会では人権思想に基づいたより寛容で包摂的な対応が望まれるだろう。

人の脳の機能においてだが、視床下部で合成され下垂体後葉から分泌されるオキシトシンという一般に幸せホルモンといわれる物質がある。幸せホルモンだとか愛情ホルモンといわれるが、身内や味方など同じグループに所属する者への共感性を高める効果があるとのことだが、同時に別のグループや身内ではない他者への排他性も強める傾向があるようだといわれている。

同胞への愛が外部への排他性につながる傾向があるという構図は実際の社会や集団ではあり得ることなので、必ずしも共感的であることが理想的な利他社会をつくるとは限らず、状況によっては集団を内輪だけにしか共感しない支配的で排他的なものにしかねないことは理解できる。

それは過去の人類が陥った数多の悲劇を生み出すことになった出来事の背景に必ずといっていいほどに存在する問題でもあり、戦争や内戦、場合によっては同じ集団内のグループ間における闘争などがあり得るが、その結果として人類は悲劇を経験し、その反省として人権思想を獲得するに至ったという歴史的経緯があることは多くの現代人と共有する事実だ。

故に皆か幸せになるためには、組織愛と排他性がつくり出す問題に対する懸念が払拭される構図を見い出さなくてはいけない。情緒的に間題に対処するよりは理性的に問題を扱った方が、皆が幸せな社会をつくるという命題についてはこの文脈では望ましい結果をもたらすかもしれない。

単純な発想を超えた深い思念なしには人類は同じ失敗を繰り返しかねないだろう。

直接の関係だけではない複合的で複雑な境界を超えた社会関係において思考しなけれはいけない。

たとえば効果的利他主義という「根拠と理性を使って、どうすれば他人のためになるかを考え、それに基づいて行動する」ことを提唱する社会的運動がある。

そういった「苦しみを減らす」ことを目的にするなど、広範囲な観点からのグローバルな利益に対する平等な配慮を重視してなされる現代のヒューマニズム的な慈善活動は、世界を改善する可能性があるだろう。ODAやSDG'sなども同様と思われる。

直接の関係とは限らないから結果がすぐにみえないために、総合的に考えた正しさと信じて理念的に行動する信念が求められるかもしれないが、正しのことをする喜びがそれを超えるのではないか。

間接互恵性に関しては、日本語で感謝の気持ちを表す「お陰さま」という表現でも理解できるが、このお陰さまという言葉は偉大な何かの陰でその庇護を受ける意から、みえないところで誰かから受ける恩恵を意識して使われる言葉で、廻り廻ってのみえない互恵性があるということを一般でも理解されているということになる。

直接の行為ではないから、みえない調整が自然とされることが意識される。アダム・スミスの「神の見えざる手」に近いものかもしれない。

ただ経済における神の見えざる手が自由放任市場において十分に機能しないことから、先進諸国が社会的市場経済の立場をとっていることを考えると、間接互恵性や効果的利他と同様のことを社会民主主義もしくはリベラリズムに則って、「公共」の項で書いたように、政府がそれを規制や公共政策を使って代替的にしていることがわかる。

神の見えざる手は各個人がそれぞれ自己の利益を追求すれば社会全体において適切な資源配分が達成されるはずが、そうではないのは情報の非対称性(情報格差)の問題や機会平等及び潜在能カに対する平等、それから各々における道徳が十分ではないことがあるだろうが、間接互恵性や効果的利他においてはそれを意識的に教育するシステムの不足があるのではないか。

効果的利他主義においての利他だが、利他という言葉には自分を犠牲にして他人に利益を与えるという意味があるものの、これは実際の行動を考慮すると余裕のある人が弱者である他者に配慮してその他者の利益となるように図ることすることを意味していると考えた方が、救済により格差を是正し社会を公正にしていくため、本質的には利他という言葉の正しい理解といえるかもしれない。

日本語での利他は仏教用語としてのものから理解するのが正しいと思うが、それは元を辿れば他力の意味でもあり、人々に功徳・利益を施して救済する阿弥陀仏の救いの働きをいう。

この分野においては自利がそのまま利他となり利他がそのまま自利となる自利利他円満という概念があり、この言葉は互恵的ではあっても一般的概念における一対一の関係での互恵とは異なり、世の中全体で自利利他が機能する理想を表現しているため前述の文脈とも一致する。

ある意味において間接互恵性にはある種の互恵的利己性も伴わなければ正しいことを主張する者が最大化しない懸念もあるが、聖人賢者しか利他的存在がいないのでは世の中へのいい概念の影響が小さくなってしまいかねない。

現代の社会は様々な工夫を重ねて間接互恵性的で自利利他円満のように機能する公共をつくり出してきた。

政府による教育、医療、福祉および生活扶助は社会的利他ともいえるものだが、これは皆がその恩恵を受けるだけでなく、それがない社会に比べて結果的に廻り廻って社会を安定化させ進歩、発展させることになる。一般的には政府の税制による再分配がその役割を担う。

再分配により政府等のサービスが受けられ、それによって社会の人権状況が改善するのだが、経済という観点においてもサービスの増加に伴って流通する貨幣を増やせば経済の拡大に繋がり、豊かな社会を生み出すことができる。

経済はモノの流通だけでなくサービスの拡大によっても大きくなるが、社会が発展するほどに生活必需品や贅沢品といったモノの比率よりサービスが大きくなる傾向がある。サービスのかなりのところを教育医療福祉といった公的な公共政策が占めていることから考えても、それが再分配政策であることを考えても、効率が過度に悪くない限りにおいて大きな政府は社会も経済も発展させる。

大きな政府か小さな政府か、社会保障制度の整備を通じて国民の生活の安定を図る福祉国家か、安全保障や治安維持など最小限の夜警国家か、といった論争は昔からあるが、欧州のような大きな政府による無償(無料)の教育医療福祉がある社会は安全で安心できる安定モデルだが、米国や日本のようなやや小さな政府は格差が大きく生まれた環境次第で格差が固定化された状能が継続するので、社会が若いうちはいいがどこかで社会は衰退していくことになってしまう。

米国は人材を外部から導入できるし覇権を握っている間はものごとを有利に動かせるからいいが、日本はそういう状況にない。

格差により機会平等と潜在能力の平等が十分でなければ、国内の才能が十分に発揮されなくなってしまう。

また規制のあり方が公平公正のためではない場合、要するに民間組織が公的機関へ働きかけて自らに都合のいい規制をつくる活動であるレントシーキング(rent=超過利潤 seeking=得る)がある場合に社会の格差が固定し進歩が止まるため、新しいアイデアや才能が活用できなくなる懸念がある。

間接互恵性における利他的行為が十分にある社会ならレントシーキングのような抜け駆けには抑制的になるだろうが、民間による公へのアクセスを監視するシステムの導入の方が効果的だろう。

小さな政府か大きな政府かという文脈において、自然状態の人間が闘争的か利他的かという哲学論争的問題があるが、自然環境に恵まれるかどうかも人の集団の性質を左右すると思われる。資源が限られた環境においては人る闘争的になるだろうけれど、豊かな自然の恩恵を受けられる状況であれば人の利他的行動は増えるはずなので、科学技術と社会システムが発達した現代においては、十分なモノとサービスの供給が可能になっていくので、実際には既に利他的社会が実現可能な段階にきているかもしれない。

そもそも自然状態の人間は利己的であるか利他的であるかという問題だが、この2つの正反対の要素は社会的生き物である人間にとっては車の両輸のように生きていくためには不可欠のものであり、一個人としての利己性と社会的存在としての人間における利他性はどちらも自然状態の人間の本質なのではないか。

認識論や現代文明下における民主主義のあり方への懸念および利他についてなどの考察をしているが、人類の幸福を追求し実現するには、社会のシステムを改善するだけで比較的容易にそれが実現可能かもしれないと考えられるような科学技術の存在する時代になってきているのは確かなことではないか。

同時に科学技術への懸念も多いことを事実であるけれど、しかしそれは情報公開や民主主義により克服できると信じる。


民主主義で実現できるのか?

それ故に民主主義の後退は問題であり、人類の数千年の文明の結果として得られたシステムに不完全なところがあっても、我々はそれを改善して進歩させることが可能なはずなので、過去の歴史的失敗でもある衆愚政治や独裁的民主も人類は必ず乗り越えていくことができると信じるべきだろう。

そのために最も必要な政治を背景とする社会的基盤は公平公正で理想的な教育環境と独立的かつ民主的なジャーナリズムということになる。

それが民主的な政治をつくりだすためには必須であり、それなしにはどこかで民主主義は失われていってしまう可能性があるからだ。

人間の知識や価値観は環境と情報に依存するので正しい情報入力が必要であり、それが多様で自由選択が可能なものであることには十分に配慮しつつ、理念的ではない政治的存在による恣意的な誘導がないように常に客観的な検証がなされて、問題があれば改善される環境がつくられなければいけない。

それらが十分に機能していない場合には不完全な民主主義という状況ができるのだろうが、その不完全性の健全化と改善は時間をかければ可能だろうから、どのような状況でもなるべく理念的に対応できることが望ましい。

いろいろな価値観が並存する時代だけに、それぞれの理想や希望が異なるなかでの合意形成等、難しい課題をクリアしなければいけない局面ばかりの民主主義というシステムだが、それでも他の政治システムに比べれば問題が小さく抑制的で安定するはずで、この場合の安定した民主主義システムとはルソーの一般意志に基づいたものであって、アリストテレスの時代の語義とはやや異なる。

ギリシャ時代の民主主義は衆愚政治に移行するものと懸念されるに至っているが、民主の語義も現在とはやや範囲が異なるようだ。アリストテレスは選ばれたエリート的代表と民主制の中庸を志して、幸福のためには損得より正しさに重点をおいた徳の政治が望ましいとした。

現代においてもデマや誤報などにより間違った方向への誘導があった場合に、それが糾されなければ人々が認識する情報が歪んで、その結果として正しくない選択肢を選んでしまう懸念もあるだろう。また誤解や誤読ににより正しい情報が歪められてしまうこともある。

それらを防ぐためには開かれて透明な政府とそれを公正な立場で批判するジャーナリズム及び十分に啓蒙された一般市民が必要で、そのために十分に教育された教員による小人数学級での妥当性の高い教育方針に基づいた公平な教育が必要になる。

多様な市民の希望から普遍的で実現可能な埋想を優先し、公正なシンクタンク的組織による十分に検討可能な情報に基づいて、市民から選ばれた代表が透明かつ公正な場で議論して決定するのが民主主義だが、人は不正や癒着をする懸念のある存在なので、現代の民主主義における野党機能は必要で、同時に与党政府が不十分だったときに、流血の改命を避けて権力を交代できる仕組=投票民主制は必須となる。

技術革新が著しい現代だけに既存の手法に限らない多様な選択肢があることは明らかで、不正さえ防止できればデジタル的手法を用いることにより投票率を上げられるなど民意をより正確に捉えることが可能になっており、それに基づいた様々な民主的手法を選ぶ余地は多分にあるだろう。

ただ単に投票等で民意を問うだけでは一歩間違えれば衆愚政治に陥る懸念もあり得るので、理念的な観点から創意工夫が十分になされた何らかのアルゴリズムと透明な議論によって問題のない公共政策を選定して実行するシステムが将来的にはあり得てもおかしくはないのかもしれない。

アルゴリズムといっても簡単ではないだろうが、たとえば人工知能が高度な言語理解ができるのならば、政治哲学の賢人たちの残した知見から開かれた場で議論して時代に合わないものを除外し現代に則した内容をインプットしたら、大量のデータにその理念を正しく反映させ導き出した見解を前提にして、それを民主主義のなかで活用しての政治ができるかもしれない。

これはあくまで推定の範囲のはなしで、もしそのようなことが実現したとしても、政治プロセスは透明で開かれた民主主義により時間をかけて実現すべきものであって、その目的が全員の幸せを実現することであれば反対する者は基本的にいないはずなので、漸進的に社会は改善していくのではないだろうか。

幸せを願わない人などいないという前提が正しいかどうかという疑問もあるかもしれないが、何かによって絶望している人も最初からそうだったということなどあり得ず、人生のどこかで躓いたとしても人は本質的に幸せを願うはずであり、一度しかない人生だけにその想いは誰でも強いのではないだろうか?

そもそもすべての人間は生まれながらに自由かつ平等で幸福を追求する権利をもつことが前提になっているのが近代以降の民主国家であり、国や公共はその実現のために努力をしなければいけないことは憲法にも謳われている。

そういった近代以降の社会が百年以上続いているのに人権や幸福追求権などその理想の実現がまだ遠いのは、民主主義と立憲主義が十分に機能していないからであり、繰り返しになるけれど、既得権による問題もあるが教育とジャーナリズムが十分に人々を啓蒙できていないことが大きな原因に思える。

立憲主義という立場は近代国家全般が採用しているもので、憲法に幸福追求権が謳われている国なら権力はそれを実現しなければいけないし、国民はそれを要求する権利があるのだから、それを知る人は周りにそのことを伝えていくべきで、それが啓蒙というものなのだろう。

 

社会的ネットワークについて

人の脳はニューロンネットワークによってできている。その関係性の構造により人は複雑なことを認識しているのだろうけれど、それゆえに物事もめぐりめぐる縁起の関係かのような構造体として捉えるのが自然な状態だ。その関係性をネットワークとして理解すると現代社会が見えてくるかもしれない。

そもそも人の脳がつくりだしたテクノロジーがインターネットを生み出し、それがWEBといわれるように蜘蛛の巣のようなネットワークをつくりだしている。FBやツイッターのようなSNSも人と人がつながるネットワークであり、そこでは日々多様な情報が正確性はともかくも自由に飛び交っている。

人がつくりだすネットワークには求心性はあっても、それが客観的に正しいかどうかは別であり、フェイクニュースが問題視されていたときの研究だったが、偽情報の方が拡散されやすいという問題があるようだ。どうもその背景にSNSのアルゴリズムが関係あるようで、SNSはフェイク情報への対応に苦慮しているのにおかしなアルゴリズムを採用する傾向がある。

そこへの実社会的な分析は僕にはできないが、もしその背景に何らかの心理的要因があるとすれば長くネオリベが続いていた過去の経緯からすると経済勢力による課税への忌避が関係あるかもしれない。デマが拡散されやすいアルゴリズムとそれへの対応のPRも余念がないので、利益を生み出す資本主義的観点と公共的立場における倫理的対応との相克があると思われる。

そもそもeconomyという語は古典ギリシャ語の οικονομ?α(家政術)に由来し、本来の意味は家庭のやりくりにおける財の扱い方であり、家庭の生活基盤がうまくいっていなければいけないだろうし、日本語における「経済」の語は、もともとが「経世済民」の省略で、中国の古典によると「世を經(をさ)め、民を濟(すく)ふ」という意味がある。

閑話休題。脱線しているが、ネットワークにデマが発生した場合に機能が損なわれることは問題であるということだ。

噂と同様にすぐに消えるデマならいいがそうではないものに社会におけるネットワークはどう対応するべきだろうか。

普通なら知的な市民がデマに注意するように告知するのが正しい対応なのだが、悪質な声に巻き込まれたら困り果てて啓蒙的対応から撤退してしまうケースも多いだろう。ましてやデマの方が拡散されやすいアルゴリズムでは良識ある市民はどうすることもできないのではないか。

過去にトランプ大統領が誘導していて問題となっていたようなものに関しては、さすがにプラットフォームが対応せざるを得なくなり、FBもツイッター社もトランプ大統領のアカウントを凍結していたようだった。大統領が議会への突入を煽るような前代未聞の状況への対応だった。

このケースのような極端なものに対しては公共社会的な対応がなされたからいいが、もしそれがないような場合は社会ネットワークを構成する市民が対応せざるを得ないのだろうが、市民の善意だけで無難に問題なく上手く対応ができるものだろうか。デマを批判し正しい情報を皆に伝えるようなことを問題なくできればいいのだろうが、それが難しい状態がもしあったならその仮定において中長期的な問題解決を良識ある市民が何らかの組織をつくっての試みが多々なされるだろうことは想定できる。

いまも世界各国で勇敢なジャーナリストが正しい情報を発信しようと努力しているし、昨年のノーベル平和賞もそうだったが、だからといってその地域の問題が解決しているとは限らず、むしろ難しい状況ばかりが伝えられてくるのが現実だ。

民主主義の歴史は浅いが、それ以前にも市民が情報を得る手段としてある種の瓦版のような報道に近いものや口伝えの情報はかつての時代にも多々あっただろう。当時の人々はその信憑性をどのようにはかっただろうか。そういった前近代に比べるといまは情報を入手しやすい時代だが、それでも問題があるとされる地域では本当に必要な情報を市民が入手しているとは限らない。

それは歴史的な権力のあり方を確認しても明らかだ。権力は支配を維持するためには情報統制をするもので、自分に都合のいい情報を広めて都合の悪い情報は押さえ込み、その上で自分をよく見せることを往々にしてするものだからだ。

そもそもネットワークが封建的に垂直型である場合は、一度上を経由しなければ情報は他に伝わらないという構造になる。その場合は権力は独裁的な統制が容易だが、しかしその結果として社会の発展はないものになり得るだろう。もし、そういった発展しない社会の外側でイノベーションが起きた場合は、産業革命があった欧米に比べての近世の日本や中国のように垂直型の社会はとり残されていってしまう懸念がある。

それに対して、水平型のネットワーク社会では市民による交流が盛んになり、そのような社会では様々な試みがなされるから、新しい価値観が次々と創生されていくようになるだろう。もちろんそういった社会のなかでも閉じた関係というものがあれば、そこにイジメなど問題も起こり得るから、社会というものはオープンな方が望ましいことは理解されるはずだ。


人類の価値観が大きく変化し得る現在に、ネットワークのあり方はどうなるだろう。

技術的には水平型の範囲が広がっていく傾向があるようだが、しかし国際政治的にはそれに抑制がかかるかのような流れもあるため予測は難しいものの、表現の自由や創造性がうまく発揮される社会になることを願うばかりだ。

ネットワークのあり方はモジュール(機能単位・構成要素)が大きいほどモジュール間では単純な構図ができやすいだろうけれど、モジュールが小さい場合にランダムで不均質な構造により予想不可能だけれど新たな発見なども起こり得るはずだ。

それらの構図は時代変化に伴って入れ替わったり関係性が変わったりする蠢(うごめ)くような変動が起きて、状況に応じたネットワークに変化していくだろう。そのきっかけは新しいイノベーションだったり、より効率のいい構造の発見だったり、攻撃的な存在による破壊だったり、経年劣化だったりもする。

変化を望む人も変化を嫌う人もいるが、普遍的な視点からのいい変化か悪い変化かの判別をする必要があり、いい変化には抵抗せず悪い変化に抵抗するような状況ができていれば、問題があまり大きくならないことは理解されるはずだ。

好んでも好まなくてもネットワークは時代によって変化していくので、望ましい変化を生み出さなければ別のネットワークの影響などでより大きな破壊が起こり得ることは認識すべきだろうし、それを避けるためには望ましい変化への誘導が必要だ。

我々は既存のネットワークのなかで生きており、そこにある常識はかつての時代の価値観を引きずっている。人が学習できる期間は若いときであり高齢者は新しいことに対応できないが、それでも社会の多くを占めて影響しているから、好ましいネットワーク時代の到来のために彼らの理解を促すようなことがあっていいだろう。

かつての社会ネットワークだが、ある意味では理想的な価値観を含む時代でもあったけれど、それは同時に破壊的な反動を生んだという経験もあって、反動的権力による長期的な対応により利己的な自由への渇望とそこにある種の欺瞞性がつくりだされたものの、現在においてはそれすら既に過去のものとなりつつある。

新しい時代においては自由、平等、人権、情報、監視などの社会の要点がどうなっていくかが一般の関心事になるのだろうと思う。ある意味において監視が容易な時代になってきている。ゆえにもしそこに慈悲と救済のような寛容的な対応があるならば、新たな時代がより明るくなるのではないか。そうでなければ恐ろしいのだが。

どんな人でも時代が新しくなっていくときには、なるべく希望に満ちたものになることを望むだろうが、様々な課題を抱えた社会はそれを安全に克服する技術は有しているのだから、それを有効に活用するだけの寛容性が社会システムにあるかどうかにかかっている。

我々は現在の社会ネットワークシステムを当然のものとして生きているが、そこには古い時代からある矛盾や不条理が存在し、それを当然と思う人もある程度はいるだろうが、それほどに人はものごとを俯瞰したり客観視することを苦手とする傾向があるのかもしれない。問題に気付いていて共感的な理解をする人でも、個人のできることの限界から諦観に陥っているケースもあるのかもしれない。

民主主義の限界をいわれるような時代だけれど、それ以外のシステムだとより問題が大きいことも認識すべきで、時間をかけてでも民主主義を改善していく意識が重要に思う。そのためにはメディアの報道の自由表現の自由が十分に可能なシステムをつくらなければいけないだろう。教育の自由と改善も必要だ。また健全な官僚制度とそれを修正する議会政治という観点も必要で、議会にはオープンなシンクタンクがあるべきだろう。

日本のメディアは独立性が弱く官製報道かのような場合もあるので、教育の段階で個々人の自律的な自立性を高めることも必要かもしれない。それによりメディアを構成する人々の意識も変わっていくだろう。協調性と自立性は組み合わせのものであって矛盾しない大人の対応ができればいい。それが将来の社会をかたちづくることになる。

社会はネットワークでできており、それは人の脳のニューロンネットワークのように柔軟に変化しながら安定的に機能するものだ。硬直してうまくいかない状況においては、外部から情報をいれて柔軟化を促すことで人が変容していくように、社会も新たな価値観や技術を取り入れて発展していく。

社会のネットワークと教育福祉分野との相関関係はどうあるべきなのだろう。

北欧の福祉国家にその分野の現在における理想的あり方を見出す人は多いし僕もそうだった。日本のような大きな政府ではないけれど欧州同様に社会的市場経済(※中国の社会主義市場経済ではない)を有し一応福祉国家の端くれの社会では、教育医療福祉は十分ではないがそれなりのものが提供されている。

途上国や新興国および米国に比べて教育福祉は充実しているとされるが、日本の場合は北欧や欧州には見劣りするものでしかない。日本には非常に大きな格差問題が隠されていて、なかなか報道では取り扱ってくれない分野もある。

それでも男女平等の問題と未婚女性の貧困問題、子どもの貧困問題、ひきこもり問題などは度々扱われているようだ。ネガティブなかたちで生活保護や失業者の問題も扱われることがあるが、日本の公的扶助の充実の必要性と他の先進国に比べたときの捕捉率(扶助が必要なひとが公的扶助を受けている割合)の低さはあまり報じられていない。

民主主義がどうなるかという問題と教育医療福祉の問題は異なるかもしれないが相関関係があるはずだ。ある意味でそれが情報公開と並んで民主主義があることの理由かもしれないからだ。教育医療福祉は縦型ネットワークの独裁でも充実はできるが、水平ネットワークの比重が極めて高い自由民主主義や社会民主主義でなければ民主主義的な民意を十分に反映した社会にはならないだろう。

独裁というあり方は民主主義以前の一般的統治であり、官僚制ということなら封建時代も現代の民主社会にもあるものだが、官僚制をコントロールする主体が民主主義によるか独裁的個人によるかで市民にとっての統治の意義は異なるものになる。民意を反映しない統治は問題だからだ。

社会主義のなかには独裁に陥るものもあるから独裁ではない民主的な水平ネットワークでは教育医療福祉の充実がないのかといえば逆で、より多くの意見が正しく反映されたなら十分な充実がなされるはずのものであり、それは公的扶助においても同様と思われる。

そうではない場合は民主主義が富裕層や巨大資本に支配されているということになる。政治的独裁も巨大資本による支配も民主主義にとっては好ましくはないものということになるはずだ。

だからといって無政府主義では実際は神の見えざる手などないから再分配が難しくなり、より過酷な格差社会をつくりかねない。

それらのどれでもない弁証法がなされたところに社会民主主義があるし、自由民主主義が資本家のものでない理想的なものならそれも同様だが、資本主義でもSDG'sのような試みが実現すれば市民による経済社会という理想に近いものになり得る可能性もあるかもしれない。

どちらにしてもどのように民主主義を正しく実現するのかは人類にとっての永遠の課題ということになるだろう。

教育において強制されない協調性を身につけたなら、人々は自律的に人を助けたり助け合ったりするのだろうし、水平ネットワークにおいてはそれが重要になる。垂直ネットワークにない社会発展がそこにはあるが、そのためには寛容さと利他性を多くの人が有していた方がいいだろう。

水平ネットワークの社会においては、困っている人が可視化されやすいので、人を助けたいという人が本能的に有する意識が強くでて、様々な社会システムを発展させると思われる。当然差別する人もでるのだろうけれど、そこも教育や啓蒙などがなされていくのではないか。

水平ネットワークは同じ趣味の人同士を繋ぎ合わせたり、似た価値観の人を繋げるので、非常に多くの人を主観的に幸福にするものだろうから、その方向に社会が自然に発展する可能性があるだろう。時代は波打ちながらもイノベーションに支えられて改善し続けているから、試行錯誤しながらもおそらくそうなっていくのではないか。

もし将来に国際間の対立が解消されたなら、統治の側にも統制などの必要性が薄まって、社会は水平化していくだろうし、社会には必ず存在する経済の側の人も多くの人の幸福な状況を否定はしないだろうから自分たちを守りながらも、徐々にそれが可能な社会体制をつくっていくことを受け容れたり促していくようになるのではないか。

価値観は世代ごとにある程度の傾向があるけれど、時代と共に上品になっていっているようにも感じる。紆余曲折はあっても世代交代により世襲意識なども薄れて皆と同じが幸せという度合いが高まるだろうし、人類が過去に経験していない皆が豊かな社会が続けば徐々に価値観も社会も平等になっていくだろうから、長期的には楽観してもいいのではないか。

 

ディストピアを避けるためにはどうすればいいだろうか?

リンク先をみてもらえばわかると思うけれど僕は未来ユートピアディストピアの邂逅およびユートピアユートピアたるかという課題でSFマンガを描いている。

だからではないが、我々はすでにある種のディストピアの世界に我々は暮らしているのということへの懸念を書いておきたい。

エドワード・スノーデンのリークからわかるように、スマホもPCも民間からの防御だけでしかなく、権力に対しては丸裸と思った方がいいのは確かなことで、そこから離れるには、ネット機器も電話もテレビもないところにいかなくてはいけないが、それは不可能だから無難に生きていくことになる現代社会がある。

ただ、それはパノプティコンのような監視者から常に監視されているかのような構造があっても、監視者の目は万能でもなく一つしかないのだから、あくまで監視のふりであり、完全には監視はできないのが現状だろう。その理由は、コンピューターの性能と人的監視の限界があるからだ。

2030年代の始めにコンピュータの計算能力は現存している全ての人間の生物的な知能の容量と同等に達する予想がされている。

2045年には1000ドルのコンピューターの演算能力がおよそ10ペタFLOPSの人間の脳の100億倍にもなり、シンギュラリティ(技術的特異点)に至ると予測されており、この時期に人間の能力と社会が根底から覆り変容するらしい。

ということは予測が当たった場合は、十年くらい後の世界は全人類がコンピューターに完全に監視される可能性があるということだ。

その世界がディストピアでないなら何と言えばいいだろう。

我々はそれを防ぐ民主的手法を発見できるだろうか。

もし予測が的中したとして、コンピューターの演算能力がすべての人類の能力を超えるまでに十年ほどだということなら、コンピューターの思考と人間の思考は異なるだろうけれど、コンピューター将棋を考えるとコンピューターが一人の天才より劣るという可能性は小さいだろうし、創造性でも人を超える可能性もあり得るのだということがわかる。

というのはコンピューター将棋が人が経験的に学習したものとは違う手を打ってきてそれがべらぼうに強いというケースを我々は情報として経験しているからで、おそらく知的分野での創造性で人を超えるコンピューターが登場する可能性は条件や範囲を限定すれば従来考えられていたよりも高いのだろう。

そのコンピューター将棋もプロの棋士の定跡を学習してのもので、そこから人が経験していない戦法を作り出しているのはすごいが、ゼロからコンピューターが学習した場合はまだプロには勝てないはずなので、その次元で人を超えるのはまだ先だろう。

また、将棋の場合は将棋盤の範囲が限られ、駒の動きも単純で決まっている。それに対して現実の世界はもっと多様で、それを総合的に解釈する優秀な人の知性は非常に優れており、ゼロからコンピューターが人を超えるまでに網羅的に計算するには想像以上に情報が多く複合的なので大変に時間がかかるはずだ。

自然状態の人間社会と生態系をゼロから網羅的に計算して非常に優秀な人間の判断能力のレベルをつくるのに、全人類の計算能力の合計で可能かどうかはわからないが、そのレベルでも足りない可能性はあり得るかもしれない。

そういう意味ではシンギュラリティがどのような意味をもつかはわからないし、単に計算能力が高いだけでは人のニューロンのような柔軟な思考と同じような思考力になるとは限らないだろう。

まるで異なる分野を繋ぎ合わせての新たな創造的行為を、既存の計算機能がやたら高いだけのコンピューターで可能かどうかまではわからない。いまのコンピューターは人間の思考のうちそれが何らかの認識のかたちで入力できる範囲において、人が予想するのより多くのケースで応用が可能かもしれないということが想定できるに過ぎないように思う。

実際にコンピューターが人の能力をいつ超えるかどうかはともかく、それでも十年後のスパコンは全人類の計算能力を有するのだから、全人類のスマホやスマート家電を監視することは容易になってしまうのは確かであり、そのディストピアを安全にするための民主的手続きはいまから考えておかなければいけないものではないか。

現状においてもビッグデータといわれるように、企業が扱う個人情報を総合すると人の動きや傾向が把握できるということだが、それらに対して法的には個人の特定に繋がるような個人情報の扱いを禁じたり、個人に対して情報の扱いを知らせる義務があるなどの対応がされたとしても、実際のところは特定できないはずの個人情報の複数のデータから個人特定が可能だったり、個人が把握できない間に約款等が変更されており、政府のレベルではない法人でさえも個人を把握したりデータを恣意的に利用している可能性がある。

また、現状においては金融緩和策が続いた結果として、多くの大企業の大株主に政府がいるので、ある種の資本主義下における社会主義経済のようになっているから、個人の情報はもしかすると我々が予想する以上に権力に把握されている可能性もあり得る。

それに対して政府の情報公開は遅れているし、民間企業となると情報公開の程度は限られるだろうから、市場における売り手と買い手の情報の非対称性に近いような、公と市民とに間の情報の不均衡が広がれば、市民のなかに不当な不利益を被るケースが起こり得るのではないか。

いまのスマホやPCの性能ですら一昔前とは異なりかなり高度であり、メモリやハードディスク内のデータは即座に検索できるような状況になっているが、クラウドなどの利用も普通になってきており、いつのまにか自分の手元にある情報がどこかのサーバーにも保存されているということが自然になってきている。

この情報環境は権力次第では特定の思想や価値感などを監視したりそういう個人を特定することが容易であり、政府にデジタル庁ができていてマイナンバーが活用されるようになると、個人の経済状態や貯蓄および健康情報までも一箇所で把握されてしまう。

それが裏で企業のもつ情報などと繋がった場合は、誰がどこかにとって都合がよく、誰が都合が悪いということが簡単に把握されてしまうし、権力側がいちばん知りたいのはその情報であることは知っておくべきだ。

市民はいまの社会のあり方にもっと敏感でもいいはずだし、問題意識や危機意識から政府や企業を監視する必要性および彼らへの情報公開要求をする必要性をもっと認識した方がいいのではないか。

こういった現代と近未来において、見えない弾圧が起き得る可能性を踏まえれば、我々はどのように自分たちを守ることができるのかを考える必要性があるように感じる。

個人は自ら情報公開した方がいいだろうが、それは情報を権力が一方的に握っているのに、権力以外は自分しかその情報を有していないという状況を乗り越えるためだが、その方が市民同士の連携により安全確保がしやすいのは理解されるだろう。

それへの懸念があるとすれば、市民による市民へのストーカーということになるから、そういったケースへの対応としてシェルターや特定の加害者とその知人に特定個人の情報が届かないようにする公平な仕組みの構築も必要になるということになる。

これはある意味では悪用すれば特定個人をネット上で孤立化させることも可能になってしまうかもしれないものだが、そういうケースでの訴えのオープンな窓口も必要かもしれない。

しかし、逆にいえばネットで個人情報を開示しないという状況は自らネット上で孤立していることに等しいかもしれないということにもなり得るだろう。

これらは現在と近未来における懸念だが、社会の変化がどの方向に動くかはわからないし、隣の大国では民主主義が十分に機能していない現実があるから、一般市民の側も懸念を共有して対応することが常識になるネット文化をつくっていかなければいけないのではないか。

 

 

口分田って現代ならベーシックインカムですよね

あるものとそれを否定する何かがあってそれぞれが相互に関係ある場合に、それにより干渉があるかどうか、あれば弁証法による止揚の状況ができるか、できなければ消えるのかどうか、そういうことが繰り返されてものごとが流動的に変化しつつ存在する世界において、懸命に生きるのが人であるという事実。

啓蒙などではないし、合理論でも経験論でもない。なぜなら演繹による結果と帰納法による結果が異なれば、どちらかに問題があるのだから、それが一致する構図を客観的に見つけ出せばいいからで、それを繰り返すことで真実が浮き上がることは確かで、そこにしか真実などないのではないかということ。

かつて理想主義は牧歌的な全体主義であった時代が長くあった。しかし人類が民主主義を経験して百年程度の間に、ナチススターリンによる独裁を経験して、全体主義というものの危険性とダイバーシティの重要性の理解が一般化している。

現在の常識としては全体主義が悪であることは独裁と管理社会への嫌悪感から当然のものとなっている。もしかしたらかつての理想主義が全体主義であったことを理解できない人もいるのではないかという時代になっているのではないか。

人類が情報化するより前の農村的かつ牧歌的な社会では情報は比較的僅かしかなく、農作業など家族や共同体が同じ行為と知識を共有しているのが当然だった。そういう時代に理想を描けば、皆が一緒に共感する価値共有のなかでの多幸感が続くような、毎日が祭りで共に共鳴するような幸福を想定しただろう。

そういう時代においての社会の不条理は、基本的には貧困と無知に問題があるとされ、貧困が解消され皆が教育を受ければ不条理は解消されると考えることが一般的だっただろうし、その時代の識者もそれに希望を懐いて理想を模索したケースがあったはずだ。

しかし、豊かになっても人の心が豊かになるとは限らず、不正をはたらく大商人や豊かな役人などと無垢だったはずの民との差が小さくなっただけでしかなかった。もちろんどんな時代にも無垢で純粋な理想主義者は一定程度は存在するだろうが、人類は別の不条理問題に向き合う必要が生じただけだった。

もちろん現在以前にも理想を追求した偉人は多くいるし、政治体としてもギリシャアテネやローマ共和制、それから隋や唐および日本の律令時代の口分田など、民主主義や社会主義に近い当時としての理想を実現した時代も僅かにあった。

しかしアテネ奴隷制に支えられていたし、ローマの民会の権限は少なく期間も短かった。口分田に関しては日中共にやがて制度が崩れて荘園など大地主の時代にシフトしている。しかし理想を実現した時代の大国は周辺に大きな影響を残しているのは確かだ。

律令時代の日本の口分田では後に墾田永年私財法により制度が崩れて荘園が生まれているが、口分田(班田)は二百数十年続いていたようだ。教科書では口分田という平等制度よりも、墾田永年私財法のような資本主義的なものを評価するかのようにみえるものだったが、我々はそういう教育を受けている。世界に冠たる制度の評価が残念ではある。

そういう保守支配の日本の社会だが、民主主義にありながら戦前にすらあった政権交代の機能が現在は低く、アジアでは民主主義の指導的立場にあったはずが、近隣の韓国や台湾の方が政権交代ができる政治になって久しい。日本社会の保守性の問題は深刻なのだろうか。

戦前も含めると百三十年以上の民主主義の歴史がある日本だが、戦中の翼賛体制は別にしても、これだけ民主主義が続いていながら、何故に社会や市民は民主主義国らしくならないのだろうか。空気を読むという表現があるが、それは独裁国家における民のあり方に近いだろうから不可解だ。

現在における理想主義はいまだに社会主義だろうし社会民主主義と表現した方が一般には望ましいのかもしれないが、封建時代には民主主義すら理想主義だった。それがありながら、自ら民主主義者たろうとしない社会を日本の権力は誘導しているようだが、これに異議を唱える声はもっと多くてもいいはずではないか。

ちなみにここでいう社会主義は原義どおりに平等主義であり資本家による資本の独占を再分配など何らかのかたちで平等に社会に還元することで、その実現に必要な政治はある種の民主主義であって独裁ではあり得ないものだから、社会民主主義という言葉が誤解を生みにくいと考えたということになる。

故に現在における理想主義は多様性を重視しながらの社会民主主義であり、これは実現が可能のものだから、かつて民主主義も社会主義も夢物語だった時代からすれば半ば実現していることもあり、やがて社会は現在からみれば理想的なものに進歩していくに違いない。

すくなくとも民主的な時代を百年も経験してきた社会は、誰かの一方的な理想の押し付けのような全体主義ではなく、多様性を重視して個人が自由を謳歌できることが前提となっての自由権と生活保障がある社会権が両立した制度を模索するだろうし、それが可能になる技術が存在する時代になりつつある。

ここまでは日本や中国の歴史に、口分田という全員に土地を公平に分配する古代の社会主義があるのに、それを重視する教育がないがという疑問につながる。

なぜにその時代にそれが可能だったかを知りたくて、口分田という古代の社会主義ができた時代の思想を調べていたら唯識という古代ギリシャ哲学に似た認識論から発展した華厳思想の影響があることを知った。

これは禅が不立文字を謳う前にあった思想で、認識論とも社会思想とも理解できる応用の利く理論が展開されている。

 

 

 

口分田の時代にあった仏教哲学とは何か

瞑想のようなものをすると意識の深遠から心の機能が見えるようになるというが、だからといって意識の世界がすべてで外の世界は虚妄であるということにはならないだろうが、そう感じる世界が存在するらしい。彼らには解脱や禅定がすべてなのだろうが、結果として利他的になるならいいのかもしれない。

すべてが原子などの細部から構成されておりそれが変化するからといって、実体が存在しないなんていうことはあり得ないが、それを主張する人というのは認識するうえで名称としての実体は認めつつ、その存在自体は無常で関係性だけがあり、変わらない実体などないということらしい。

すべてが部分の集合でしかなく人の実在はないというのは瞑想の世界でしかないが、時間を俯瞰すれば人はいつも同じではないのは確かなので、その範囲でしか空の思想を捉えることはできないし、それなら矛盾なく正しいことになるけれど、空だからといって人の実在まで否定するのは時代の不幸だったのか?

解脱という状態では、見る自分と見られる自分の違いがない絶対智に達するらしいが、あまりに瞑想をしすぎて脳を酸欠にした結果、脳の自他を区別する機能が低下するのではないか。それで欲や煩悩が消えて平等性や利他性が高まるのが事実なら支持もするし純粋性は尊いが、世の中に卑怯な人がいるのを回避できるのだろうかという疑問も生じる。

しかし多くの情報で混乱するなかで、情報を整理し重要なものを上手く優先順位付けして、すべきことを明瞭にすることについて、それを思考するのではなく瞑想により自然に意識(=脳のネットワークの機能)がそれらをしてくれるようなことが実際に意識機能に存在するなら、それは何なのだろうか。

脳科学の知見によると、人が創造的なひらめきを得るのは思考をしているときではなく、脳の活動が静まってボーっとしているときらしいが、そういった創造的な脳の状態を自らつくりだすことが瞑想によって可能なのかもしれない。雑念と煩悩をなくしたときにいい結果がもたらされるのは自然なことだろう。

人は五感を通じてものごとを認識し、それを意識によって概念や言葉として理解するのだけれど、我々が認識しているどんな論理も社会すらもすべて我々の意識(脳)が捉えているだけなので、その機能と構造を理解することを世界を理解することだと哲学は認識しても、しかし個々人の違いはそこにはない。

ものごとには何らかの関係性があってそれが常に変化しているのは確かだろうが、それを体感するために深い瞑想をしてすべてが融合する境地を経験したとしても、それは個人の内部で生じている現象であり、個人は個人として独立しているから問題が生じないのであって、他者と融合しているのではない。

瞑想などにより自他の区別が緩くなって融合的な意識が高まったとして、それがことば通りの自他の区別がつかないでは困るが、高次の知性が機能して他者の立場を理解したり共感的になって、それにより人間的に成長したり、社会に貢献するようになるなら、瞑想にも大きな意義があるのだろう。

大乗思想は中観派唯識派に分かれるが、それとは別に否定の哲学である般若経と肯定の哲学である華厳経があり、現実的な法華経や不立文字の禅宗、浄土系、密教などがほかにもある。これらはインド哲学仏陀を経て発展したものだが、基本的には空の思想になる。

弥勒から発展した唯識派だが、それ以前の思想が原子をどう考えるかを議論するなか、外界にある原子のあり方を議論するよりも、それを認識している我々が捉えているものが何かを思考し、外界は実在の証明が不可能だったので考えないという立場をとった。

大乗の唯識においては、上座部説一切有部における五感を経て得た情報は流れるように存在するだけであるという解釈に対して、それでは何をもって認識を意味のあるものとして捉えるのかという疑問から、過去の認識が想起できる理由がそれを蔵する阿頼耶識があるからであるとして問題視している。

過去に得た情報は種子として阿頼耶識に記録され、何かのきっかけで末那識を経て意識の表層に流れ出るのだが、それが善であったり悪であったりするのはその瞬間の何かが作用して種子が出てくるからで、悪であれば煩悩であり、それら煩悩を滅するにはどうすればいいかが議論される。

輪廻といえば一般論では生まれ変わりを意味するが、これは仏教以前のインド思想であり、唯識においては種子が阿頼耶識から次々と流れ出て思考や認識を作り出していくことであって、これらは識であり空であるから、それに気付くことで煩悩からの解脱ができる。これは誤解された輪廻における死ではない。

唯識の時代に華厳も非常に盛んに研究されていたが、原典はほとんどが漢訳でしか残っていない。認識論としての唯識に比べて、総合的で肯定的な華厳は大乗仏教思想の最高峰であり、過去のものとなっているが現在の多くの宗派に影響している。華厳の認識論は多様で柔軟なので様々に応用が利くものだろう。

般若経中観派上座部等に対する全否定から空の理論を生んだが、唯識派も既存の価値観を批判して認識論を形成している。華厳はそれらを総合的に理論化した美しい経典だが難解で、日中共に不立文字の禅宗に影響している。瞑想で無分別の主客の対立を超えた真理を得るのが禅定だ。

華厳に縁起相由というものがある。そのなかにある諸縁各異という概念は、縁起している事物はそれぞれが自性と個性を保ち独立しているということで、互遍相資という概念は、個性は全体のなかの一つであり社会連帯性をいう。倶存無礙という概念はその両方を備えていること。これは華厳の縁起相由の一部に過ぎないが、人権が自由権社会権からなるのに似ている。

華厳のなかに一即多多即一というものがある。one for all, all for one のような言葉だが、あるものの一部がそれぞれ独立しながらも次々と全体と繋がっているが同時に全体も一部と繋がりつつ変化するという認識論であり人がものを捉える過程なのでニューロンの連動の変化を推定したものかもしれない。

一即多多即一は一見すると後件肯定や前後即因果の誤謬にみえる構図の懸念もあるが、ある意味においては人の認識のありかた次第であり、正思惟できるかが重要だろう。これを私的に解釈すると、社会的応用においてより複雑な帰納法的な観察による構図とすることで、演繹と帰納止揚できるのではないか。

 

  仮説(規則?←観察): 帰納は観察と仮説により規則を規定。

  前提(規則→結論?): 演繹は規則から結論を規定するが前提条件が限定される。

  前提?(規則⇔結論): 規則と結論から仮説形成(アブダクション)することは前提条件を推定する。

 

もしかしたらこれらを複合した認識を意味するかもしれない。

一即多多即一というものは部分と全体が相互に関係し続けて相即するということ。学術的には異論があるかもしれないけれど、構図としてはホーリズム的な全体理解の手法に近いだろうし、部分がすべてでも全体がすべてでもないバランスのいい理解は判断を誤り難くし柔軟なので政治的全体主義とも異なる。

一即多多即一は捉え方によってはトップ(一)が多くの市民(多)の代表であり市民はリーダーを選ぶという民主主義の発想でも捉えることが可能だ。空の思想における性起(すべての人に仏性がある)は人権思想だしすべての人に投票権があるという民主的権利思想としても理解可能ではないか。

一即多多即一が相即して円融するという表現は関係性の融和を意味するものでもあるが、分斉境位というすべてが融和した世界においてもそれぞれが自律的に独立して存在しているという概念が前提になっており、ホーリズムとも矛盾しないし、民主主義とも社会自由主義社民主義とも矛盾しないものに思う。

一即多多即一は応用しやすい構図をもち、経済における需要と供給の動きにも社会権を充たすための再分配の構図にもつかえるのではないかと感じた。市民が資本と政治の癒着に疎外されて民主主義ができていない現状においても、分斉鏡位という個の独立を重視する価値観は、問題ある癒着の改善を要求する。

仏教哲学では時間そのものはないということになっているようだが、それは諸行無常という変化の概念があるからで、唯識という認識論においては記憶の作用とそれによる認識の照らし合わせを考慮するが、時間とは人の記憶と認識によってできるものに過ぎないのだろう。それを計るのも人の認識である。

肯定的な華厳経に対し否定的な般若経といわれる。華厳経は総合的で認識における縁起の法則を綺麗に整理している。仏教なので時間に対して現在過去未来(三世=十世)を同時に捉えるが、一即多多即一で無常も表現されている。無常は変化だが唯識の変化に伴う阿頼耶識に蔵す記憶は時間を理解できる。

般若心教の色即是空空即是色受想行識亦復如是。これは唯識に近いが、五蘊(色受想行識)の認識過程はすべて空であるということ。それが意味するのは全てが仮であり空間軸において常に変化する瞬間的なものは実は実体はなく空であり識でしかないということだが、そのことに気付くと執着から解放される。

これらの大乗哲学はデリダの思想に共通するものがあるように思う。ものが空間的な差異と時間的な遅延により認識の過程で少しずつ齟齬が生じることを「差延」として、それにより物事の矛盾や無意識下にあるものを浮き上がらせることで「脱構築」がされるとしたことは、大乗と似た構図をもつのではないか。

空間的な差異と時間的な遅延から差延という造語がつくられたわけだが、脱構築により既存の価値を解体し再構築する意志と、諸行無常という変化(記憶があるから外の時系列変化を認識)と諸法無我という縁起を意味する空間関係があって、煩悩を滅し社会を清浄化する発想は、時代の違いを超えるものがある。

認識論としての空の思想だが、社会科学として応用することも可能に思えるものの、それがデリダの主張する他者との関係で同一がずれ続ける差延や、脱構築によって無意識が浮き上がるということを超えて、現代では社会の呪縛を振り解くより進歩的な発想で扱うことができるのではないか。

権力というものは固着すると腐敗と制度疲労でダメになるが、それに関しては無常観が金属疲労を回避できる発想になるだろう。スクラップアンドビルドの際にも急進的ではない進歩性を発揮して、関係性の理解が破綻なき再生への志向性になる可能性がある。

空の思想の無常は、社会が常に進歩することとしても理解できるし、関係性の問題も柔軟な未来の組織論として考えることも可能かもしれない。一即多他即一的空観も演繹法帰納法による弁証法として活用できると感じる。何よりホーリズム的な総合性に優れるように思う。

例えば時代や状況変化に際して、組織や関係性を見直すにあたって、過去なら自然に崩れて新たなものが生まれるのだろうけれど、これからはもしかしたら意識的に改善し不要な部門も切り捨てることなく救済的な人材の再活用などもあるべきで、そういう理念として理解することも可能だろう。

関係性が常に変化している価値観も、アナログ時代の組織では規制を減らして自由にすることでしかできないものだが、デジタルの時代は仕組みとして柔軟に取り入れることが可能かもしれず、それが機能するものとして最適な関係性を構築し修正し構築することができるような新たな発想もあるかもしれない。

華厳が肯定的な思想であるがために、肯定的に社会のあり方との関連を想定しているが、大乗教の本質は否定にあり否定から肯定を浮き上がらせる作用が十分になされたところに華厳があるということを忘れてはならない。

同時に大乗哲学は認識論であって、人がものをどう捉えているかというものだから人次第のところがあり、識における無常と空を理解して強欲の無意味を知ることが重要で、上述の内容は煩悩から離れた正思惟など八正道を極めた人物が思考した場合に正しく理解判断ができるという前提が求められるということになる。
 

 

 

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余談

僕の中道左派の価値観の両隣には左派のマルクス思想と中道の仏教哲学がある。それらは実は厳密性を除外して基本的な点や構造を捉える限りにおいては非常に相性がいい。


試しにそれらの時代を超えた類似性について要所だけのリストをつくってみた。


西洋思想やマルクスと仏教哲学の相性の良さ(厳密性を除く基本的な点や構造から)
弁証法       三諦偈
アウフヘーベン   中諦、空
疎外論       四苦八苦
認知行動療法    八正道
啓蒙        悪人正機
人権、民主     覚性、仏性(全ての人が持つ仏としての本質)


無知の知      無明
永劫回帰      輪廻転生
認識論       五蘊五蘊仮和合
観念論、現象学   唯識
実存、自我     末那識
無意識       阿頼耶識
定言命法、実践理性 現量、諸悪莫作+衆善奉行
集合無意識     諸法無我


限界状況      難行苦行からの悟り
対話的理性     他力、加持
アンガージュマン  化身、加持
脱構築       身心脱落
自由        諸行無常涅槃寂静、身心脱落
リゾーム      縁起、諸法無我
マルチチュード   縁起、諸法無我


これらはあくまで僕の主観的な理解から選定したので、僕が好奇心で調べていく過程で拾ったことばたちであり、学術的なものではないかもしれないけれど、なかなか興味深いもので、時代の違いもあって厳密性を捉えず俯瞰して本質や核心で理解しなければ分かってもらえないかもしれないにしても、関心があれば調べてみてください。

結構おもしろいものです。

 

 

 

理想的な社会にするために僕たちは何をすればいいだろう -2-

(この文章は日本にある不条理をなくすにはどうすればいいかを考えた結果のもので、もしかするとある種のイデオロギー的な誤解を招きかねないものだけれど、実際はイデオロギーとはたいして関係なく特に色も何もついておらず、せいぜい唯物論(左翼)と唯識論(中道)の間(中道左派)という程度だが、むしろ単に論理としてのみ理解してもらいたいものです。)


僕は中道左派だ。故に急進的な変革における反動という副作用を避けつつ、現実を理想に近づけたいと考える。

これは理想をただ主張するだけでも否定するのでもなく、理想を急進的に追った結果それが逆に理想の否定になるような反動形成を避ける必要性と、そのなかで何とか理想を実現するにはどうすればいいかという観点から書いている。

左派は理想主義でありその意味では性善説ということになるかもしれないが、現実的には社会には善も悪も存在するのだから、そのなかで現実を理想に近づけようとした人たちはかつて資本家を性悪説でとらえる二分化思考をする傾向があった。しかし単純な二項対立では社会の問題を解決することにはならない。

社会の格差を是正して全員の人権が保障される政治を実現するためには、左派の理想に加えて中道の思想と弁証法により理念を徐々に現実化することを人類は試みるべきではないか。

理想を実現化しようとした歴史上の人物で最も有名なのはマルクスだが、初期マルクスはリベラルな左派(ヘーゲル左派)という立場であり、そこで語られるのは疎外論だ。

19世紀のマルクスの時代は、産業革命からはじまった新たな経済社会の歪みによりそれまでの秩序が破壊されて不当な労働があると同時に経済的に成功する新たな富裕層が現れる非常に不公平な社会構造が生まれていた。

マルクスはその不条理な歪みを、資本家が不労所得として利潤を得ることによって労働者が「疎外」されていることに原因があると捉えていた。

それから百年以上が経過し、マルクスが支援した欧州の社会党社民党が提言していた政策(短時間労働、教育医療の無償化、結社の自由、普通選挙、民主主義、人民による裁判と無料の司法、累進課税相続税)などの大部分が現実化した国が多くある現状において疎外論をどう捉えたらいいだろうか。

実際のところ法外な所得を得る人が多くいる資本主義の現代において格差は大きいし不条理も多く、特に日本においては機会平等があまりに遠いから微々たる改善はあってもまるで不十分な状況ではあるけれど、それでも百年以上前のマルクスの時代の欧州に比べると日本を含む先進国やその他の中進国では絶対的貧困は激減し、実体経済の何倍もの金融経済の存在により資産格差は大きいものの、実質的なモノの分配という観点では資産の数字上ほどの巨大な格差はないはずだが、それでもこの構図による資産格差の大きさからくる労働疎外はあまりに大きい。

第二次世界大戦を経てケインズ政策による(もしかしたら根底にソ連への競争の過程でマルクスの思想が米国を含む世界に大きく影響していたかもしれないが)平等の実現が一定程度進んだのはピケティの著作にある累進税制の変遷からも明らかだが、高い累進課税が課されていた時代の後に新自由主義の時代が到来し、それにより競争の徹底された過去半世紀に生じた格差社会に我々はいまだある。

しかしその結果としての底辺層の不幸を除けば、底辺労働者による不要の犠牲により大多数は裕福な生活をしており、彼らは疎外の構図のなかにいてもそれを感じられなくなっている可能性がある。

だからといってかつてのように新富裕層が既得権を打破するために市民の不満を利用して革命をするようなことを底辺層に期待されても不可能な状況であることは確かで、現在は民主主義が存在するから、それを有効活用し社会にある多くの不条理を是正改善できる政治をつくる必要がある。

社会の富の総量からすれば技術革新によりその実質的物的富はまだまだ増やすことが可能と思われるので、それらの分配を十分にする必要があることは明らかだ。

そういった時代変化の経緯からの文脈では疎外という概念がかつてのものから変容している可能性があるのではないか。

21世紀前半現在における疎外は、労働の疎外というよりも機会平等や結果平等という理念からの疎外であり、これは富める豊かな社会のはずの現代において格差の是正が十分になされていなかったり、健康で文化的な最低限の生活という日本国憲法で全員に保障された生存権が十分に機能していない現状においてあるものだろう。

もちろん労働疎外の問題が解決したわけではないし、企業の剰余価値が投資家の利益としか捉えられないような状況も残っているだろうが、それ以前に金融緩和で資産が過剰に増加している現代ではまるで異なる問題が生じている。

そんななかでも社会が大きく変わってSDG'sのような資本側からの理念という動きもでてきている。

民主的で豊かな時代が長く続いたことにより資本側も上品な人が増えていることは確かだが、しかしそれは社会における格差が深刻になっていることから、その解決の必要性が広く認識されたことによるものだろう。

実際に格差社会の不条理として社会的排除のような状況が底辺にいる一部の人に生まれていれば、それは現代における疎外そのものだ。

その疎外は、労働疎外の構図により消費経済の主役たる労働者の一部がそうはなれない問題ということだが、もしかすると今後数十年以内に、労働自体が自動化され労働者自身が不要なものとして生産から疎外される可能性が危惧されている。

この問題に関しては消費経済の中心としての役割を人々に担わせるために、ベーシックインカムが配られて市民が消費者として経済社会に支配される状況になるかもしれない。

しかし2021年現在においてはそこへの移行の揺籃期に過ぎず、たとえそれらが実現するにしても構造変化への意識がスムーズに進むとは限らず、既存の価値観から抜け出せない人々による抵抗が生じる可能性がある。

我々は平等の理念からは程遠い現実のなかに生きているし、人々は既存の価値観に縛られ、新しい価値観がどれほど優れていて自分たちに有利になるにしても、それをすべてが理解するには世代の交代など時間を必要とする。

そのために生産から疎外されることの問題への対応として、金融緩和により企業に実質的な利益とは異なる報酬を得させることで雇用を増やし、雑用を多くつくることで所得を得させて消費経済の主役をつくりだしている。

こういった現在における豊かな社会での新しい疎外に対して、どのようにすれば理想的な観点から問題を改善していけるだろう。

左派の目的を即日で実現することは不可能であり、高度な理想ほど実現に時間を要するのも事実なので、そういったものは漸進的に徐々に実現に近づける必要がある。

そのために必要なものは左派の理想論に加えて中道の思想や弁証法だ。

日本の場合は中道の思想としての仏教哲学があり特に大乗思想の内容は左派の理論と相性がいいのではないかと感じている。

マルクス主義者や社民主義者のなかには中世ヨーロッパの思想やギリシャ時代のものなどを論理展開に導入する人がいるが、日本にはもともと存在し言葉や風習に大きく影響している哲学としての仏教思想がある。

カントの直系を自称するショーペンハウアーが、生は苦であり諦観で苦を免れるという仏教哲学に影響され、その影響を受けたニーチェの理論が物議を醸したのは有名だが、それらの発想の基になっている原始仏教と、ここでいう大乗思想の理論は同じではない。また、そのこの場合は大乗思想のすべてではなく、理論として活用できるものを選んでのことに過ぎない。

社会を平等にする社会主義も、ときに所有さえ否定することがある仏教哲学も、共に平等理論であり理想主義の一つだ。

理想主義を実現するためには現実との相克があるが、かつては啓蒙により無知(無明)を啓くことで社会を進歩させることが可能だとみなされたもののナチスなどの詐欺的理想主義の登場により、啓蒙という人間がすべてを制御可能だとして行動することが問題であるとされた時代を経て現在がある。(啓蒙の弁証法:ホルクハイマー、アドルノ古代ギリシャの詩人ホメロスオデュッセイアを例にナチスとそれに騙される市民の問題を書いている。)

しかし、社会を理想的な状態にすること自体は誰しもが望むはずのものであり、その実現のためには誤解や偏見を解消して全体主義ではない多様な社会における平等の理想を、対立や衝突を最小限にしてじわじわと浸透させる必要があるだろう。

そのうえでは中道左派という中道性がある人による左派の理論や目的を理解するというケースでは問題はないが、極論をいう人や多様性を理解しない人、理想を理解しない人、保守的すぎる人に対して、誰もが理解を示すだろう理想を知ってもらいそれを実現していかなければいけないということになるので、日本の場合は土着の平等思想である大乗思想を応用することが現実的な対応になる可能性がある。

この場合には強制性はなく多様性を重視するのだから問題はないと同時に、これ自体が僕の立場と完全に同じではないということで、これは日本があまりに保守的な社会で格差の是正も機会平等も不十分なことから、自分とは異なる人たちを含めて社会を理念的にするにはどうすればいいかという命題に基づいてこれを書いている。

実際のところ現実的には左派の唯物論と大乗の唯識論は相互に干渉せず補完が可能で、左派の唯物論は心ではなく物と経済を捉えるものだし、唯識論はある種の認識論であり心の構造を表現しているが、たとえ唯物論では心がモノによってなりたつものであるとしていわゆる神経伝達物質ニューロンによってできる現象で捉えたとしても、その心のはたらきを表す現象自体をどのように表現するかは別の手法が必要なこともあって、そういう意味では唯識論と唯物論は補完状況にあって全く干渉しないということがいえる。

この発想の構図が決して間違ってはいないことは、ドイツのフランクフルト学派第一世代がマルクス主義を前提に時代の精神をフロイト精神分析を用いて解釈したことからもわかるのではないか。唯物論では心の問題を捉えられないからフロイトを使うのも唯識論を用いるのも同様の試みということになる。

また左派に比べて仏教哲学が保守的と思われる傾向があるとしても、実際のところでは大乗の中心思想である三法印のひとつ諸行無常は、すべての現象(諸行)は常に変化して(無常)いることを意味するので、保守的なものとは相反してむしろ進歩的である。

三法印の一つである諸法無我に関しては、永遠に独立して全てを支配するようなもの(我=アートマン)はどこにも(諸法=全てのものに)存在しないという意味で、要するにものごとは関係性により相互依存で成り立っているということになるが、これはある意味では、やがては国境というものすらいつかは不要になるときがくることを示唆する。

国や権力なども永遠ではなく人々は比較優位にある経済活動や言論活動と同様に相互依存で成り立っており、そういう意味ではすでに経済と情報における国境の概念は過去のものかもしれない。

三法印の残りは涅槃寂静というものだが、これは煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静かな安らぎの境地(寂静)であるということ。

かつての不幸な時代はそれを生死を超えたものとして捉えることもあったようだが、現代は非常に豊かなので人々の意識次第では悟りの境地を現実のなかで可能にすることは比較的容易かもしれないし、それ以上に長期的な社会改革により現実のなかで心が平穏で満足した世界に皆が生きることができるようにすることも現実的技術的経済的物理的に可能になりつつある。

その過程で仏教哲学なら煩悩や強欲を減少させ悟りの世界で八正道的な正しい生き方をすることを目的にすることが可能だし、現代の知見であれば認知行動療法という心の歪みを減らしてありのままで正しく生きるという手法もあるが、一般の誰もがそれに近い平穏な境地で生きられる幸せな社会を実現することは、21世紀の現代においては不可能ではなくなっているのではないか。

また、啓蒙に近い発想として悪人正機という親鸞の考えがあり、哲学的真実を理解できないすべての人(悪人)ほど衆生を悟りに導く力(他力)により救済されるという概念によって、すべての人が強欲のない状況に導かれてその結果として理想の追求と実現が近づくという論理展開が可能になる。

仏教哲学は煩悩や欲を滅することが本来的に重視されるが、これに客観的現実性を踏まえて解釈すれば諸々の問題の根源である煩悩はない方がいいのは当然で、しかし欲という文字でそれを表現すると意欲まで問題視しかねない過ちに陥りかねないため、あえて欲という表現を強欲という表記にして制限している。

もし強欲を滅した人ばかりで民主主義をした場合は、多様な価値観や生き方の人が同居した社会であっても、それぞれがそれぞれの立場で明確に自らの状況を説明しその自己主張により様々な矛盾や不条理を浮き上がらせることにより問題を提示して解決への道を作り出す場合においても相手の主張も尊重することが可能になるため、時間をかけて弁証法的手法により合意形成が容易になっていくだろう。

そういった社会においては、民主主義の作法としての言論の自由と透明化されて客観的に検証が十分になされる議論が必須であり、それらを通じて理想的状況が漸進的に実現可能になる。

全ての人が強欲を滅し利己性から解放された社会ができるなら、言論が完全に自由な社会をつくることが可能だろう。

そこでは経済界の意向や政治の意向などに関係ない議論がなされるが、その過程で公平性が十分に維持されるなら、様々な問題に対して、綺麗に「場合分け」された解決策が採用されるはずだ。

全てが強欲を滅して利己的ではない社会という性善説の極端な理想主義を前提にしているので実際に現実のなかではそれが難しい場合も想定し、もしデマや謀略による流言などに惑わされる可能性があることも否めないケースがあったときにそれを回避するシステムを周到さをもって準備しておく必要もあるかもしれないが、それには透明化や信頼できる第三者による検証などの仕組みが常に議論にあたっては社会のなかに組み込まれるようにすべきだ。

そういった客観的で信頼できるシステムのなかで強欲を滅したプレーヤーがコミュニケーション的行為としての議論を重ねることが民主主義で理想を実現する道になるだろう。

その過程で弁証法的な論法により多様な意見から合意形成をすることになるのだろうが、その弁証法は正+反→合を繰り返す単純なものではなくて、もちろん各論において局面ではそうなるのだが、弁証法に関してはヘーゲルの絶対精神といったやがて絶対的なものになるという考え方をとるべきではなく、それは絶対というものにおける恣意性の問題がどうしても免れることができないものだからだが、仏教哲学を用いての空・仮・中の三諦偈なら絶対的なものを否定するので、絶対という過ちによる全体主義的な支配性のある状況になる懸念は小さい。

むしろ弁証法が直線的ならせん構造だけでは社会の複雑性を処理できないため、議論は必ずしも常に一つの結論にしていく必要はなく、各論で柔軟に弁証法をしつつそれらの議論を綺麗に整理してそれぞれの項目ごとに「場合分け」し、その各々に公平でそのときどきに最適な方策を適応すればいいということになる。

それらの経緯の結果として動的平衡としての全体最適が公平性という観点から維持できればいい。

そのような社会システムがある状況が実現したなら、AIやロボット労働が導入されていく時代においても、人的労働の総量が大幅に減少し労働自体が不要になるケースも多々ある経済社会構造の変化に対して、人的労働が少なくても「同じだけの生産と流通が可能になる」のだから、労働をシェアして超短時間労働の社会にすることが自然だが、同時に消費経済の主役としての市民という存在の必要性から、時給のかなり大幅な増額や、ベーシックインカムとその財源としてのロボットAI課税およびその現実的に可能な水準なども、客観的に議論し実現していくことが可能になるだろう。

これらの論理はあくまで思考シュミレーションだが、実際に世代を超えて教育を十分にすることで実現も可能なものと思われる。

もしこのような経緯を経ずに社会の変革時期をのり越える場合は、為政者が善人で理想を説得できる人であるという条件が必要で、それらが偶然に依存するものであるのは人類の歴史からも明らかであり、現実の世界での社会の構造変化はもしかしたらそれなりのいたみを伴うものになってしまうかもしれない。

人類の未来のためには理想的な状況をつくりだす空気を醸成した方がいいだろうと思うが、そのためには十分な社会教育と柔軟な価値観の導入および感情的にならない人格形成が必要ではないか。

 

 

世界の均衡ある発展が中長期的には我々の生活を幸せにする

ここに書くのは、僕のような一般の中道左派にとっては誤解されかねない内容ということになるが、にもかかわらず何故に書くのかというと、この内容が日本の中道左派と日本社会の未来にとっては本来的には非常に重要な観点になり得るからだ。

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リカードのレント理論というものがあって農業における土地の生産性の違いが利潤を生むということから、比較優位という理論ができている。ウィキペディアによると比較優位とは「自由貿易において各経済主体が(複数あり得る自身の優位分野の中から)自身の最も優位な分野(より機会費用の少ない、自身の利益・収益性を最大化できる財の生産)に特化・集中することで、それぞれの労働生産性が増大され、互いにより高品質の財やサービスと高い利益・収益を享受・獲得できるようになることを説明する概念である。」という説明がなされるもの。

経済が国境を越えるものであり、自由貿易は避けることができないものであることからだろうけれど、僕が中道左派系でもこれを書くのは、たとえば日本の食料自給率は生産額ベースでは66%だがカロリーベースでは38%に過ぎず、もし自由貿易がなければ国民は飢えて困窮するという現実があり、自由貿易による弊害を社会制度などで克服しなければならないのは確かなことなので、その制度設計において左派系の再分配を重視した価値観を反映することが重要と考えているからだ。

そういった現実の経済社会において平等な労働の価値を見出そうとしたリカードの論理は英労働党中道左派)のベースとなったフェビアン協会も採用したということだが、経済における比較優位という価値観は自由貿易を支えるものでもあるから、過度に保守的なもしくは左派的な保護主義を前提とした経済のあり方を主張する方からは誤解されることも多いかもしれないけれど、国際的な経済や社会の発展を俯瞰したときに上手に社会システムを構築すれば世界全体を長期的には均衡ある発展段階に早く導く可能性があるように思う。

というのは、現代において経済における比較優位が優先された場合に、先進国で採算性の悪い産業部門が途上国に移りその地を発展させるが、同時に先進国においては社会のニーズに伴って高い教育施策がなされることによって社会システムと経済を発展させて、その結果として生産性の高い産業は少ない労力で多くの所得を生むので、高い所得を生み出す産業を皆で分け合うワークシェアリングを推進することによって短時間労働と高所得という理想的な状況をつくりだすことが可能になる。

比較優位や自由貿易を嫌って保護貿易を主張する側(端的には右翼と左翼)は、一般的には労働者と仕事を守るということになるのだが、しかし21世紀の世界においては実質的にそれでは低賃金兼長時間労働を維持することになってしまう懸念がある。

既に北欧や欧州では週休3日や1日6時間労働などが現実的課題として主張されており一部の国では実際に政策として進めようとしているが、彼らはEUという巨大な経済のなかにおいて過度な保護貿易を避けているので比較優位が有効に機能し、自由貿易の副作用を高い教育施策や職業訓練および弱者保護によって補っていると思われる。

それに対して発展途上国においては、比較優位という観点からすると賃金が安いという生産面での産業的優位性により、賃金の高い先進国から移ってきた産業によって経済が発展し、それにともなって徐々に労働者を守る法整備なども出来ていくというのが過去の百数十年に人類が経験してきたことだ。

このような傾向が続くと、やがては徐々に世界各地が同じように豊かになっていき、それぞれの地域にそれぞれ得意な産業が生まれて、特殊な妨害要因がなければ未来のどこかで均衡ある世界が実現する可能性があるだろう。

そういった未来においては単純労働が次の手段に代替されることが予測されるが、それに関しては今後ほぼ確実にAIやロボットが進出するため人による肉体労働や単純な知的労働は実質的に代替され短時間労働やベーシックインカムが普通になる未来社会が想定可能になるだろう。

問題はこのような総合的な視点で経済を運用するシステムがないことであり、上述したことが21世紀における実現可能な理想だとすれば、それを前提にして社会施策を講じることが各国、各地域で可能かということになるだろう。

マルクスリカードの世界においてもやがては労働価値説をロボット税のための算出手法に活用するような試みも出るのではないかと推測する。

時代の進歩と技術進歩が生み出す価値観の理想的転換が求められるのではないか。

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上述の内容は十数年以上前から僕が時事報道や経済報道に接する際に考えていたことだけれど、僕が中道左派の価値観で、しかし同時に北欧福祉国家の理想は実際に実現できる仕組みだと捉えていたことから、日本の中道左派の言論がこの理想的な流れとの相反する「矛盾」があることに苦しむということが長くあった。

ただし、保護貿易よりも比較優位策の方が21世紀の技術と経済においては世界を均衡に発展させる可能性があるということが決して地産地消という部分最適を否定するわけではなく、平等の理想のために全体最適部分最適の最もいい均衡点をみつけるべきだろうというポイントも付け加えておきたい。

これは全体最適策がどこかで部分的に矛盾を孕むので、そこに関しては部分最適で補わなければいけないということを意味する。

これらの主張はもしかしたら一般の左派の政策と少し矛盾するかもしれないが、しかし一部の人が左派と聞いて誤解する一国社会主義というのはマルクスではなくレーニンの発想でしかないし、必ずしもこだわるつもりは全くないが本来の理想とされた共産主義は世界全体で平等な社会をつくるということだから、左派にとっても中道左派としても上述は広い観点から捉えれば一概におかしいとはいえないかもしれず、むしろ理想を実現するにあたっての懸念は、誰かが抜け駆けして卑怯なことを裏でした場合に本来の理想がそうではないものになりかねないという深刻な問題を抱えている現実があることだから、たとえば「囚人のジレンマ」という互いに不透明な状況では縮小均衡になるという理論があるのだけれど、そういった問題を避けるために「広い意味での公」が情報公開を進めて抜け駆けができない世界を目指す必要があるだろう。

僕は安倍政権を支持しなかったが、それは一見すると正しい働き方改革や女性活躍、人づくり、生産性革命、全世代型社会保障という内政では言葉上は革新(左派)路線を進めた(右派の)安倍政権の視点と、皮肉なのか必然か分からないがそれに反する結果としての長時間労働化、男女差別、生産性の悪化、年金カットのマクロ経済スライドという矛盾は、比較優位政策から現地生産中心になっていった保守的な安倍政権が樹立した以降の経済転換がもたらしたのではないかとすら見える現実がある。

現地生産にすれば生産性の悪い製造過程が国内に回帰し、そのために安い労働力としての移民的な手法が日本の場合は国際社会が批判する違法レベルな現実のなかでおきており、そのような状況のなか金融緩和の効果もあって長時間労働は悪化し、金融緩和は失業率を下げるので一時的には全体の格差は縮小するかのように見えるかもしれないけれど、その結果として低賃金労働が常態化するようなことがあれば構造格差が拡大し、同時に金融緩和の帰結として資産格差は確実に拡大していった。

物価上昇を加味しない単純な数値比較では安倍政権があたかも結果を残しているかもしれないように見えるし、その範囲でも批判するのは厳しすぎるようにも思われるかもしれないが、実際は額面上の年収は上がっても物価上昇により実質賃金は下がっているわけで、国民生活の実感は厳しくなっている。金融緩和に必然とされる失業率の低下が評価されるということにすぎないかもしれない。

そういった現実からも、実際の格差拡大に寄与したことになるアベノミクスという大規模な緩和策に対して安倍政権は再分配を強化しなかった。マネーが市場に降り注ぐわけだから的確に課税して分配しておけば諸々の社会問題のかなりの部分が解決に向かっただろうから残念だ。

金融緩和策は再分配と併用した場合は様々な社会問題を公共政策で補えるために効果が増すが、そういった再分配なしには副作用が大きくなるばかりだろう。

副作用とは資産格差の拡大と通貨の信頼性の低下の懸念が最たるものとされる。

故に緩和されたマネーが集中するところに課税するのが本来であって、米民主党などは金融緩和と金持ち増税を併用し、従来の共和党は緩和をやめて金持ち減税していた。

しかし、米共和党トランプ政権と自民党安倍政権は金融緩和を大規模にすれども十分な金持ち課税や金融課税をしていない。

今後、ポスト安倍政権の日本と米大統領選後の米国の動向や中国や欧州、ロシアなどの複雑な影響によって、その後の社会がどの方向性を持つかは分からないが、社会を理想の方向に誘導できるかどうかが重要な課題となるのではないか。

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追記:

上に「問題はこのような総合的な視点で経済を運用するシステムがないことであり、上述したことが21世紀における実現可能な理想だとすれば、それを前提にして社会施策を講じることが各国、各地域で可能かということになるだろう。」とあるが、国連が推進しているSDG'sというものがあり、主に企業を中心に理想を実現する試みだが、このようなものにこの問題を国際的に解決して社会を発展させる可能性があることに触れていなかった。

それから比較優位という概念に関してはこれを経済学という観点ではなく一般の水準で捉えたとすると、高度に発展した社会においては個々人がそれぞれ得意なことを生かして苦手なことはそれが得意な人に任せるという対応をした方が社会や組織は機能的にはたらくので、その方が誰かが何でもするという手法よりも全体的には上手くいく仕組みであることは確かだけれど、個人の嗜好によっては苦手でもしたいこともあるだろうし、身近なことでは苦手だとはいっていられないこともあるだろうから、全体最適では行き届かないところの部分最適はそこで対応するという総合的な均衡点を探すという対応が望ましいのは理解してもらえると思われる。

その際に社会権を重視し自由権が侵害されない範囲で両者が共に成り立つ状況を模索すべきで、個人の選択の自由と人権を守るための社会のあり方を前提として個々人が平等に生きるための生活保障が十分になされる社会を志向すべきだろう。 

 

 

政治におけるリベラルという語の変容について

09年9月の旧民主党政権樹立の際に社民系が民主党と連立していたので、当時中道リベラルとされた社民国による民主党連立政権を支持した。同じ時期に米国ではチェンジということばを活用したオバマ政権が生まれていた。

(この両政党は名前が同じで立場も近かったが普天間問題により犬猿の仲になっていたのが残念だった。その普天間基地問題もあってすぐに社民党は日本の民主党連立政権から離脱しているが、政権交代の機会を得たことの意義は大きく、日本の民主党政権には何とか米国の民主党政権のように4年8年と続いて欲しいと思っていた。)

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リベラルという語のもつ幅のひろさや多義性に関してだけれど、日本では昔から一般的にはリベラルを中道から中道左派の範囲で認識されてきたはずで、それに対して社民主義中道左派から左派の範囲であるため両者は中道左派のところで一部重複する価値観である。

重複するところは人権、公正な民主主義、格差是正、情報公開、平和主義であり、違いはマルクス主義への親和性の有無だろう。

僕は中道左派なのでこのリベラルという語については何らかのところで関係しており、米国の政治意識の変容と関係しているだろうことから過去十年余りの経緯を、分かる範囲で簡単にまとめてみようと思った。

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リベラリズムという用語に関しては多義語であるがために人や地域によって認識が異なる。

現代の欧州においてはリベラルは中道を意味し、経済における自由主義という認識がなされることも多いようで、政治哲学における意味もフランス革命の頃とは異なっていると思われる。

というのは欧州の中道左派の与党は社民主義や欧州社会主義であり、中道右派の保守自由主義キリスト教民主主義である政党とは異なる。

欧州議会においては、前述の左右中道党に加えて、中道やや左よりに緑の党があり中道にリベラル党があって、両端に左翼政党と右派系政党がある。

ただし欧州の国ごとでは左派に緑の党やリベラル党がある国もあるし、右翼の自由党がある国もあるから単純ではない。

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それに関しては日本も同様だったが、冷戦期の日本では政治的左右を表現する際にリベラル左派という表現が用いられており、その語が意味する立場を代表するメディアとして朝日・岩波が挙げられた。

要するにリベラル左派という用語は、当時の自民党長期政権下における、共産党に近い立場以外の野党側を意味していたはずだが、自民党の英語表記でリベラル・デモクラティック・パーティとしてリベラルという用語が使われているから誤解する人もいるだろうけれど、自民党自体は保守政党であり、しかし当時の自民党にも護憲リベラルの立場の政治家は多かったのでハト派だとか保守本流という言い方がされた。故に護憲リベラルという用語でリベラル左派という語と差別化していたということがあったのかもしれない。

2009年に旧民主党政権が樹立したころには、自民党民主党との違いをはっきりさせることや世代交代もあって、当時の自民党ハト派が少数派となっていたこともあり、リベラルという用語は旧民主党を意味するようになって、自民党は保守色を強め、リベラル左派や護憲リベラルという言い方で差別化するようなことはあまりされなくなっていった。

当時の民主党政権社民党国民新党が連立していたため、リベラルという用語が中道から中道左派まで幅広く使われていたことを記憶している。

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昨今まで米国においては一般に民主党をリベラル、共和党をコンサバ(保守)で表現する期間が長かった。故に米国でリベラルというと中道の自由主義という意味よりも中道左派である社会民主主義に近い社会自由主義を意味することが普通だった。

米国の保守派はもともとがフロンティアで独立宣言に意義がある国だけに他の地域とはやや意味合いが異なっているが、キリスト教保守や共和主義などが混在している。

リーマンショック以前の米国は民主・共和に関係なくネオリベの立場をとる傾向があり、両政党にそういった議員が混ざっていた。民主党の場合は保守的で(ネオリベ的に)均衡財政を主張する南部のブルー・ドッグと呼ばれる議員が存在し、共和党の場合は(ネオリベ的な)市場原理主義政策をとるネオコンがブッシュ時代を支配していた。

それもリーマンショックオバマ政権の誕生により変わっていき、共和党もその後のトランプ大統領により大きく変化している。

随分前のことになるが2009年に日米が共に民主党政権になったときに、共和主義者のサンデルがNHKなどに登場して、リバタニアニズム(≒ネオリベ)批判とリベラリズム(この場合は社会自由主義)批判を混同させて米国の民主主義の理念を提示していたロールズを批判をすることにより人気を博していた。

もうかつてのことになっているかもしれないが、リベラリズムという用語が米国のロールズによることを前提にした場合は社民主義に近い社会自由主義を意味していた。しかし、リバタニアニズム(自由至上主義)的な政策をするネオリベラル(新自由主義)という認識でリベラルを捉える人も中には存在し、また、経済における自由市場や自由貿易自由主義であるリベラルを捉える人もいる。

言葉の定義を統一する必要があったのだろう。

サンデルに関しては、それぞれの価値観が無知のベールで語られるような自由で完全な個人によるものではなく、共同体の価値観に影響されるというコミュニタリアンの立場からリベラリズムとリバタニアニズムを両断するのだが、これは米国のネオリベを批判する欧州の人々の立場に近いので、サンデルへの賛否とは関係なく、もしかしたら彼の影響は、米国におけるリベラリズムという用語を欧州のそれと統一したことにあるのかもしれない。

その後に資産格差を問題視するピケティによる「21世紀の資本」が米国等でベストセラーになっており、その現象が決して一時的なものではないことがその後の大統領候補選挙で新社会主義が躍進していた事実でも確認できている。

このような変遷を経て米国のイデオロギーに関する認識を新たにしなければいけない状況があるように思う。故にだろうか米国の大統領候補選挙に関する政治報道ではリベラル派の用語の代わりに民主党穏健派という言葉が新聞紙面で用いられていた。

民主党代表選において候補のサンダーズが主張する新社会主義がコロナ以前は大きな影響があったが、その影響を受けつつより中道色のある民主党穏健派としてバイデンが米民主党の大統領候補になっている。

この場合の穏健派とは新社会主義に対して左派穏健派を意味する。

中国が台頭する時代に米国の民主党が、社会主義インターナショナルから13年5月に分離独立した進歩同盟に加入し、サンデルの活躍から米国の政治用語が欧州と同じになることで、英語を公用語とする国(英国や豪州、カナダ、NZ)の中道左派政党の政治言論を米国が導入しやすくなったのではないかと感じた。

これは希望的観測にすぎないかもしれないが、米国がドイツの哲学の領域を共有することがあれば、ようするにマルクスフランクフルト学派がつくった中道左派の価値観の基本が影響したならば、それがどのような効果を世界にもたらすだろうと期待する部分もある。今後の展開を確認したい。

 

 

 

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今日は原爆の日だ。

 

ノーベル平和賞オバマ前大統領が広島に訪れたのが懐かしいが、日米の両国が過去の悲劇を乗り越えて、平和と人権および平等に関して前進することを希求します。