表現の自由、自由権、社会権、生存権、進歩主義、多文化主義、機会平等、男女平等、公平公正な分配、弱者とマイノリティへの慈悲と救済および支援。能力主義は公正な倫理観が前提となりそれに加えて生存権を重視しての結果の平等の必要性を社会は理解すべきではないか?

世界の均衡ある発展が中長期的には我々の生活を幸せにする

ここに書くのは、僕のような一般の中道左派にとっては誤解されかねない内容ということになるが、にもかかわらず何故に書くのかというと、この内容が日本の中道左派と日本社会の未来にとっては本来的には非常に重要な観点になり得るからだ。

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リカードのレント理論というものがあって農業における土地の生産性の違いが利潤を生むということから、比較優位という理論ができている。ウィキペディアによると比較優位とは「自由貿易において各経済主体が(複数あり得る自身の優位分野の中から)自身の最も優位な分野(より機会費用の少ない、自身の利益・収益性を最大化できる財の生産)に特化・集中することで、それぞれの労働生産性が増大され、互いにより高品質の財やサービスと高い利益・収益を享受・獲得できるようになることを説明する概念である。」という説明がなされるもの。

経済が国境を越えるものであり、自由貿易は避けることができないものであることからだろうけれど、僕が中道左派系でもこれを書くのは、たとえば日本の食料自給率は生産額ベースでは66%だがカロリーベースでは38%に過ぎず、もし自由貿易がなければ国民は飢えて困窮するという現実があり、自由貿易による弊害を社会制度などで克服しなければならないのは確かなことなので、その制度設計において左派系の再分配を重視した価値観を反映することが重要と考えているからだ。

そういった現実の経済社会において平等な労働の価値を見出そうとしたリカードの論理は英労働党中道左派)のベースとなったフェビアン協会も採用したということだが、経済における比較優位という価値観は自由貿易を支えるものでもあるから、過度に保守的なもしくは左派的な保護主義を前提とした経済のあり方を主張する方からは誤解されることも多いかもしれないけれど、国際的な経済や社会の発展を俯瞰したときに上手に社会システムを構築すれば世界全体を長期的には均衡ある発展段階に早く導く可能性があるように思う。

というのは、現代において経済における比較優位が優先された場合に、先進国で採算性の悪い産業部門が途上国に移りその地を発展させるが、同時に先進国においては社会のニーズに伴って高い教育施策がなされることによって社会システムと経済を発展させて、その結果として生産性の高い産業は少ない労力で多くの所得を生むので、高い所得を生み出す産業を皆で分け合うワークシェアリングを推進することによって短時間労働と高所得という理想的な状況をつくりだすことが可能になる。

比較優位や自由貿易を嫌って保護貿易を主張する側(端的には右翼と左翼)は、一般的には労働者と仕事を守るということになるのだが、しかし21世紀の世界においては実質的にそれでは低賃金兼長時間労働を維持することになってしまう懸念がある。

既に北欧や欧州では週休3日や1日6時間労働などが現実的課題として主張されており一部の国では実際に政策として進めようとしているが、彼らはEUという巨大な経済のなかにおいて過度な保護貿易を避けているので比較優位が有効に機能し、自由貿易の副作用を高い教育施策や職業訓練および弱者保護によって補っていると思われる。

それに対して発展途上国においては、比較優位という観点からすると賃金が安いという生産面での産業的優位性により、賃金の高い先進国から移ってきた産業によって経済が発展し、それにともなって徐々に労働者を守る法整備なども出来ていくというのが過去の百数十年に人類が経験してきたことだ。

このような傾向が続くと、やがては徐々に世界各地が同じように豊かになっていき、それぞれの地域にそれぞれ得意な産業が生まれて、特殊な妨害要因がなければ未来のどこかで均衡ある世界が実現する可能性があるだろう。

そういった未来においては単純労働が次の手段に代替されることが予測されるが、それに関しては今後ほぼ確実にAIやロボットが進出するため人による肉体労働や単純な知的労働は実質的に代替され短時間労働やベーシックインカムが普通になる未来社会が想定可能になるだろう。

問題はこのような総合的な視点で経済を運用するシステムがないことであり、上述したことが21世紀における実現可能な理想だとすれば、それを前提にして社会施策を講じることが各国、各地域で可能かということになるだろう。

マルクスリカードの世界においてもやがては労働価値説をロボット税のための算出手法に活用するような試みも出るのではないかと推測する。

時代の進歩と技術進歩が生み出す価値観の理想的転換が求められるのではないか。

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上述の内容は十数年以上前から僕が時事報道や経済報道に接する際に考えていたことだけれど、僕が中道左派の価値観で、しかし同時に北欧福祉国家の理想は実際に実現できる仕組みだと捉えていたことから、日本の中道左派の言論がこの理想的な流れとの相反する「矛盾」があることに苦しむということが長くあった。

ただし、保護貿易よりも比較優位策の方が21世紀の技術と経済においては世界を均衡に発展させる可能性があるということが決して地産地消という部分最適を否定するわけではなく、平等の理想のために全体最適部分最適の最もいい均衡点をみつけるべきだろうというポイントも付け加えておきたい。

これは全体最適策がどこかで部分的に矛盾を孕むので、そこに関しては部分最適で補わなければいけないということを意味する。

これらの主張はもしかしたら一般の左派の政策と少し矛盾するかもしれないが、しかし一部の人が左派と聞いて誤解する一国社会主義というのはマルクスではなくレーニンの発想でしかないし、必ずしもこだわるつもりは全くないが本来の理想とされた共産主義は世界全体で平等な社会をつくるということだから、左派にとっても中道左派としても上述は広い観点から捉えれば一概におかしいとはいえないかもしれず、むしろ理想を実現するにあたっての懸念は、誰かが抜け駆けして卑怯なことを裏でした場合に本来の理想がそうではないものになりかねないという深刻な問題を抱えている現実があることだから、たとえば「囚人のジレンマ」という互いに不透明な状況では縮小均衡になるという理論があるのだけれど、そういった問題を避けるために「広い意味での公」が情報公開を進めて抜け駆けができない世界を目指す必要があるだろう。

僕は安倍政権を支持しなかったが、それは一見すると正しい働き方改革や女性活躍、人づくり、生産性革命、全世代型社会保障という内政では言葉上は革新(左派)路線を進めた(右派の)安倍政権の視点と、皮肉なのか必然か分からないがそれに反する結果としての長時間労働化、男女差別、生産性の悪化、年金カットのマクロ経済スライドという矛盾は、比較優位政策から現地生産中心になっていった保守的な安倍政権が樹立した以降の経済転換がもたらしたのではないかとすら見える現実がある。

現地生産にすれば生産性の悪い製造過程が国内に回帰し、そのために安い労働力としての移民的な手法が日本の場合は国際社会が批判する違法レベルな現実のなかでおきており、そのような状況のなか金融緩和の効果もあって長時間労働は悪化し、金融緩和は失業率を下げるので一時的には全体の格差は縮小するかのように見えるかもしれないけれど、その結果として低賃金労働が常態化するようなことがあれば構造格差が拡大し、同時に金融緩和の帰結として資産格差は確実に拡大していった。

物価上昇を加味しない単純な数値比較では安倍政権があたかも結果を残しているかもしれないように見えるし、その範囲でも批判するのは厳しすぎるようにも思われるかもしれないが、実際は額面上の年収は上がっても物価上昇により実質賃金は下がっているわけで、国民生活の実感は厳しくなっている。金融緩和に必然とされる失業率の低下が評価されるということにすぎないかもしれない。

そういった現実からも、実際の格差拡大に寄与したことになるアベノミクスという大規模な緩和策に対して安倍政権は再分配を強化しなかった。マネーが市場に降り注ぐわけだから的確に課税して分配しておけば諸々の社会問題のかなりの部分が解決に向かっただろうから残念だ。

金融緩和策は再分配と併用した場合は様々な社会問題を公共政策で補えるために効果が増すが、そういった再分配なしには副作用が大きくなるばかりだろう。

副作用とは資産格差の拡大と通貨の信頼性の低下の懸念が最たるものとされる。

故に緩和されたマネーが集中するところに課税するのが本来であって、米民主党などは金融緩和と金持ち増税を併用し、従来の共和党は緩和をやめて金持ち減税していた。

しかし、米共和党トランプ政権と自民党安倍政権は金融緩和を大規模にすれども十分な金持ち課税や金融課税をしていない。

今後、ポスト安倍政権の日本と米大統領選後の米国の動向や中国や欧州、ロシアなどの複雑な影響によって、その後の社会がどの方向性を持つかは分からないが、社会を理想の方向に誘導できるかどうかが重要な課題となるのではないか。

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追記:

上に「問題はこのような総合的な視点で経済を運用するシステムがないことであり、上述したことが21世紀における実現可能な理想だとすれば、それを前提にして社会施策を講じることが各国、各地域で可能かということになるだろう。」とあるが、国連が推進しているSDG'sというものがあり、主に企業を中心に理想を実現する試みだが、このようなものにこの問題を国際的に解決して社会を発展させる可能性があることに触れていなかった。

それから比較優位という概念に関してはこれを経済学という観点ではなく一般の水準で捉えたとすると、高度に発展した社会においては個々人がそれぞれ得意なことを生かして苦手なことはそれが得意な人に任せるという対応をした方が社会や組織は機能的にはたらくので、その方が誰かが何でもするという手法よりも全体的には上手くいく仕組みであることは確かだけれど、個人の嗜好によっては苦手でもしたいこともあるだろうし、身近なことでは苦手だとはいっていられないこともあるだろうから、全体最適では行き届かないところの部分最適はそこで対応するという総合的な均衡点を探すという対応が望ましいのは理解してもらえると思われる。

その際に社会権を重視し自由権が侵害されない範囲で両者が共に成り立つ状況を模索すべきで、個人の選択の自由と人権を守るための社会のあり方を前提として個々人が平等に生きるための生活保障が十分になされる社会を志向すべきだろう。