表現の自由、自由権、社会権、生存権、進歩主義、多文化主義、機会平等、男女平等、公平公正な分配、弱者とマイノリティへの慈悲と救済および支援。能力主義は公正な倫理観が前提となりそれに加えて生存権を重視しての結果の平等の必要性を社会は理解すべきではないか?

社会的ネットワークについて

人の脳はニューロンネットワークによってできている。その関係性の構造により人は複雑なことを認識しているのだろうけれど、それゆえに物事もめぐりめぐる縁起の関係かのような構造体として捉えるのが自然な状態だ。その関係性をネットワークとして理解すると現代社会が見えてくるかもしれない。

そもそも人の脳がつくりだしたテクノロジーがインターネットを生み出し、それがWEBといわれるように蜘蛛の巣のようなネットワークをつくりだしている。FBやツイッターのようなSNSも人と人がつながるネットワークであり、そこでは日々多様な情報が正確性はともかくも自由に飛び交っている。

人がつくりだすネットワークには求心性はあっても、それが客観的に正しいかどうかは別であり、フェイクニュースが問題視されていたときの研究だったが、偽情報の方が拡散されやすいという問題があるようだ。どうもその背景にSNSのアルゴリズムが関係あるようで、SNSはフェイク情報への対応に苦慮しているのにおかしなアルゴリズムを採用する傾向がある。

そこへの実社会的な分析は僕にはできないが、もしその背景に何らかの心理的要因があるとすれば長くネオリベが続いていた過去の経緯からすると経済勢力による課税への忌避が関係あるかもしれない。デマが拡散されやすいアルゴリズムとそれへの対応のPRも余念がないので、利益を生み出す資本主義的観点と公共的立場における倫理的対応との相克があると思われる。

そもそもeconomyという語は古典ギリシャ語の οικονομ?α(家政術)に由来し、本来の意味は家庭のやりくりにおける財の扱い方であり、家庭の生活基盤がうまくいっていなければいけないだろうし、日本語における「経済」の語は、もともとが「経世済民」の省略で、中国の古典によると「世を經(をさ)め、民を濟(すく)ふ」という意味がある。

閑話休題。脱線しているが、ネットワークにデマが発生した場合に機能が損なわれることは問題であるということだ。

噂と同様にすぐに消えるデマならいいがそうではないものに社会におけるネットワークはどう対応するべきだろうか。

普通なら知的な市民がデマに注意するように告知するのが正しい対応なのだが、悪質な声に巻き込まれたら困り果てて啓蒙的対応から撤退してしまうケースも多いだろう。ましてやデマの方が拡散されやすいアルゴリズムでは良識ある市民はどうすることもできないのではないか。

過去にトランプ大統領が誘導していて問題となっていたようなものに関しては、さすがにプラットフォームが対応せざるを得なくなり、FBもツイッター社もトランプ大統領のアカウントを凍結していたようだった。大統領が議会への突入を煽るような前代未聞の状況への対応だった。

このケースのような極端なものに対しては公共社会的な対応がなされたからいいが、もしそれがないような場合は社会ネットワークを構成する市民が対応せざるを得ないのだろうが、市民の善意だけで無難に問題なく上手く対応ができるものだろうか。デマを批判し正しい情報を皆に伝えるようなことを問題なくできればいいのだろうが、それが難しい状態がもしあったならその仮定において中長期的な問題解決を良識ある市民が何らかの組織をつくっての試みが多々なされるだろうことは想定できる。

いまも世界各国で勇敢なジャーナリストが正しい情報を発信しようと努力しているし、昨年のノーベル平和賞もそうだったが、だからといってその地域の問題が解決しているとは限らず、むしろ難しい状況ばかりが伝えられてくるのが現実だ。

民主主義の歴史は浅いが、それ以前にも市民が情報を得る手段としてある種の瓦版のような報道に近いものや口伝えの情報はかつての時代にも多々あっただろう。当時の人々はその信憑性をどのようにはかっただろうか。そういった前近代に比べるといまは情報を入手しやすい時代だが、それでも問題があるとされる地域では本当に必要な情報を市民が入手しているとは限らない。

それは歴史的な権力のあり方を確認しても明らかだ。権力は支配を維持するためには情報統制をするもので、自分に都合のいい情報を広めて都合の悪い情報は押さえ込み、その上で自分をよく見せることを往々にしてするものだからだ。

そもそもネットワークが封建的に垂直型である場合は、一度上を経由しなければ情報は他に伝わらないという構造になる。その場合は権力は独裁的な統制が容易だが、しかしその結果として社会の発展はないものになり得るだろう。もし、そういった発展しない社会の外側でイノベーションが起きた場合は、産業革命があった欧米に比べての近世の日本や中国のように垂直型の社会はとり残されていってしまう懸念がある。

それに対して、水平型のネットワーク社会では市民による交流が盛んになり、そのような社会では様々な試みがなされるから、新しい価値観が次々と創生されていくようになるだろう。もちろんそういった社会のなかでも閉じた関係というものがあれば、そこにイジメなど問題も起こり得るから、社会というものはオープンな方が望ましいことは理解されるはずだ。


人類の価値観が大きく変化し得る現在に、ネットワークのあり方はどうなるだろう。

技術的には水平型の範囲が広がっていく傾向があるようだが、しかし国際政治的にはそれに抑制がかかるかのような流れもあるため予測は難しいものの、表現の自由や創造性がうまく発揮される社会になることを願うばかりだ。

ネットワークのあり方はモジュール(機能単位・構成要素)が大きいほどモジュール間では単純な構図ができやすいだろうけれど、モジュールが小さい場合にランダムで不均質な構造により予想不可能だけれど新たな発見なども起こり得るはずだ。

それらの構図は時代変化に伴って入れ替わったり関係性が変わったりする蠢(うごめ)くような変動が起きて、状況に応じたネットワークに変化していくだろう。そのきっかけは新しいイノベーションだったり、より効率のいい構造の発見だったり、攻撃的な存在による破壊だったり、経年劣化だったりもする。

変化を望む人も変化を嫌う人もいるが、普遍的な視点からのいい変化か悪い変化かの判別をする必要があり、いい変化には抵抗せず悪い変化に抵抗するような状況ができていれば、問題があまり大きくならないことは理解されるはずだ。

好んでも好まなくてもネットワークは時代によって変化していくので、望ましい変化を生み出さなければ別のネットワークの影響などでより大きな破壊が起こり得ることは認識すべきだろうし、それを避けるためには望ましい変化への誘導が必要だ。

我々は既存のネットワークのなかで生きており、そこにある常識はかつての時代の価値観を引きずっている。人が学習できる期間は若いときであり高齢者は新しいことに対応できないが、それでも社会の多くを占めて影響しているから、好ましいネットワーク時代の到来のために彼らの理解を促すようなことがあっていいだろう。

かつての社会ネットワークだが、ある意味では理想的な価値観を含む時代でもあったけれど、それは同時に破壊的な反動を生んだという経験もあって、反動的権力による長期的な対応により利己的な自由への渇望とそこにある種の欺瞞性がつくりだされたものの、現在においてはそれすら既に過去のものとなりつつある。

新しい時代においては自由、平等、人権、情報、監視などの社会の要点がどうなっていくかが一般の関心事になるのだろうと思う。ある意味において監視が容易な時代になってきている。ゆえにもしそこに慈悲と救済のような寛容的な対応があるならば、新たな時代がより明るくなるのではないか。そうでなければ恐ろしいのだが。

どんな人でも時代が新しくなっていくときには、なるべく希望に満ちたものになることを望むだろうが、様々な課題を抱えた社会はそれを安全に克服する技術は有しているのだから、それを有効に活用するだけの寛容性が社会システムにあるかどうかにかかっている。

我々は現在の社会ネットワークシステムを当然のものとして生きているが、そこには古い時代からある矛盾や不条理が存在し、それを当然と思う人もある程度はいるだろうが、それほどに人はものごとを俯瞰したり客観視することを苦手とする傾向があるのかもしれない。問題に気付いていて共感的な理解をする人でも、個人のできることの限界から諦観に陥っているケースもあるのかもしれない。

民主主義の限界をいわれるような時代だけれど、それ以外のシステムだとより問題が大きいことも認識すべきで、時間をかけてでも民主主義を改善していく意識が重要に思う。そのためにはメディアの報道の自由表現の自由が十分に可能なシステムをつくらなければいけないだろう。教育の自由と改善も必要だ。また健全な官僚制度とそれを修正する議会政治という観点も必要で、議会にはオープンなシンクタンクがあるべきだろう。

日本のメディアは独立性が弱く官製報道かのような場合もあるので、教育の段階で個々人の自律的な自立性を高めることも必要かもしれない。それによりメディアを構成する人々の意識も変わっていくだろう。協調性と自立性は組み合わせのものであって矛盾しない大人の対応ができればいい。それが将来の社会をかたちづくることになる。

社会はネットワークでできており、それは人の脳のニューロンネットワークのように柔軟に変化しながら安定的に機能するものだ。硬直してうまくいかない状況においては、外部から情報をいれて柔軟化を促すことで人が変容していくように、社会も新たな価値観や技術を取り入れて発展していく。

社会のネットワークと教育福祉分野との相関関係はどうあるべきなのだろう。

北欧の福祉国家にその分野の現在における理想的あり方を見出す人は多いし僕もそうだった。日本のような大きな政府ではないけれど欧州同様に社会的市場経済(※中国の社会主義市場経済ではない)を有し一応福祉国家の端くれの社会では、教育医療福祉は十分ではないがそれなりのものが提供されている。

途上国や新興国および米国に比べて教育福祉は充実しているとされるが、日本の場合は北欧や欧州には見劣りするものでしかない。日本には非常に大きな格差問題が隠されていて、なかなか報道では取り扱ってくれない分野もある。

それでも男女平等の問題と未婚女性の貧困問題、子どもの貧困問題、ひきこもり問題などは度々扱われているようだ。ネガティブなかたちで生活保護や失業者の問題も扱われることがあるが、日本の公的扶助の充実の必要性と他の先進国に比べたときの捕捉率(扶助が必要なひとが公的扶助を受けている割合)の低さはあまり報じられていない。

民主主義がどうなるかという問題と教育医療福祉の問題は異なるかもしれないが相関関係があるはずだ。ある意味でそれが情報公開と並んで民主主義があることの理由かもしれないからだ。教育医療福祉は縦型ネットワークの独裁でも充実はできるが、水平ネットワークの比重が極めて高い自由民主主義や社会民主主義でなければ民主主義的な民意を十分に反映した社会にはならないだろう。

独裁というあり方は民主主義以前の一般的統治であり、官僚制ということなら封建時代も現代の民主社会にもあるものだが、官僚制をコントロールする主体が民主主義によるか独裁的個人によるかで市民にとっての統治の意義は異なるものになる。民意を反映しない統治は問題だからだ。

社会主義のなかには独裁に陥るものもあるから独裁ではない民主的な水平ネットワークでは教育医療福祉の充実がないのかといえば逆で、より多くの意見が正しく反映されたなら十分な充実がなされるはずのものであり、それは公的扶助においても同様と思われる。

そうではない場合は民主主義が富裕層や巨大資本に支配されているということになる。政治的独裁も巨大資本による支配も民主主義にとっては好ましくはないものということになるはずだ。

だからといって無政府主義では実際は神の見えざる手などないから再分配が難しくなり、より過酷な格差社会をつくりかねない。

それらのどれでもない弁証法がなされたところに社会民主主義があるし、自由民主主義が資本家のものでない理想的なものならそれも同様だが、資本主義でもSDG'sのような試みが実現すれば市民による経済社会という理想に近いものになり得る可能性もあるかもしれない。

どちらにしてもどのように民主主義を正しく実現するのかは人類にとっての永遠の課題ということになるだろう。

教育において強制されない協調性を身につけたなら、人々は自律的に人を助けたり助け合ったりするのだろうし、水平ネットワークにおいてはそれが重要になる。垂直ネットワークにない社会発展がそこにはあるが、そのためには寛容さと利他性を多くの人が有していた方がいいだろう。

水平ネットワークの社会においては、困っている人が可視化されやすいので、人を助けたいという人が本能的に有する意識が強くでて、様々な社会システムを発展させると思われる。当然差別する人もでるのだろうけれど、そこも教育や啓蒙などがなされていくのではないか。

水平ネットワークは同じ趣味の人同士を繋ぎ合わせたり、似た価値観の人を繋げるので、非常に多くの人を主観的に幸福にするものだろうから、その方向に社会が自然に発展する可能性があるだろう。時代は波打ちながらもイノベーションに支えられて改善し続けているから、試行錯誤しながらもおそらくそうなっていくのではないか。

もし将来に国際間の対立が解消されたなら、統治の側にも統制などの必要性が薄まって、社会は水平化していくだろうし、社会には必ず存在する経済の側の人も多くの人の幸福な状況を否定はしないだろうから自分たちを守りながらも、徐々にそれが可能な社会体制をつくっていくことを受け容れたり促していくようになるのではないか。

価値観は世代ごとにある程度の傾向があるけれど、時代と共に上品になっていっているようにも感じる。紆余曲折はあっても世代交代により世襲意識なども薄れて皆と同じが幸せという度合いが高まるだろうし、人類が過去に経験していない皆が豊かな社会が続けば徐々に価値観も社会も平等になっていくだろうから、長期的には楽観してもいいのではないか。