表現の自由、自由権、社会権、生存権、進歩主義、多文化主義、機会平等、男女平等、公平公正な分配、弱者とマイノリティへの慈悲と救済および支援。能力主義は公正な倫理観が前提となりそれに加えて生存権を重視しての結果の平等の必要性を社会は理解すべきではないか?

ディストピアを避けるためにはどうすればいいだろうか?

リンク先をみてもらえばわかると思うけれど僕は未来ユートピアディストピアの邂逅およびユートピアユートピアたるかという課題でSFマンガを描いている。

だからではないが、我々はすでにある種のディストピアの世界に我々は暮らしているのということへの懸念を書いておきたい。

エドワード・スノーデンのリークからわかるように、スマホもPCも民間からの防御だけでしかなく、権力に対しては丸裸と思った方がいいのは確かなことで、そこから離れるには、ネット機器も電話もテレビもないところにいかなくてはいけないが、それは不可能だから無難に生きていくことになる現代社会がある。

ただ、それはパノプティコンのような監視者から常に監視されているかのような構造があっても、監視者の目は万能でもなく一つしかないのだから、あくまで監視のふりであり、完全には監視はできないのが現状だろう。その理由は、コンピューターの性能と人的監視の限界があるからだ。

2030年代の始めにコンピュータの計算能力は現存している全ての人間の生物的な知能の容量と同等に達する予想がされている。

2045年には1000ドルのコンピューターの演算能力がおよそ10ペタFLOPSの人間の脳の100億倍にもなり、シンギュラリティ(技術的特異点)に至ると予測されており、この時期に人間の能力と社会が根底から覆り変容するらしい。

ということは予測が当たった場合は、十年くらい後の世界は全人類がコンピューターに完全に監視される可能性があるということだ。

その世界がディストピアでないなら何と言えばいいだろう。

我々はそれを防ぐ民主的手法を発見できるだろうか。

もし予測が的中したとして、コンピューターの演算能力がすべての人類の能力を超えるまでに十年ほどだということなら、コンピューターの思考と人間の思考は異なるだろうけれど、コンピューター将棋を考えるとコンピューターが一人の天才より劣るという可能性は小さいだろうし、創造性でも人を超える可能性もあり得るのだということがわかる。

というのはコンピューター将棋が人が経験的に学習したものとは違う手を打ってきてそれがべらぼうに強いというケースを我々は情報として経験しているからで、おそらく知的分野での創造性で人を超えるコンピューターが登場する可能性は条件や範囲を限定すれば従来考えられていたよりも高いのだろう。

そのコンピューター将棋もプロの棋士の定跡を学習してのもので、そこから人が経験していない戦法を作り出しているのはすごいが、ゼロからコンピューターが学習した場合はまだプロには勝てないはずなので、その次元で人を超えるのはまだ先だろう。

また、将棋の場合は将棋盤の範囲が限られ、駒の動きも単純で決まっている。それに対して現実の世界はもっと多様で、それを総合的に解釈する優秀な人の知性は非常に優れており、ゼロからコンピューターが人を超えるまでに網羅的に計算するには想像以上に情報が多く複合的なので大変に時間がかかるはずだ。

自然状態の人間社会と生態系をゼロから網羅的に計算して非常に優秀な人間の判断能力のレベルをつくるのに、全人類の計算能力の合計で可能かどうかはわからないが、そのレベルでも足りない可能性はあり得るかもしれない。

そういう意味ではシンギュラリティがどのような意味をもつかはわからないし、単に計算能力が高いだけでは人のニューロンのような柔軟な思考と同じような思考力になるとは限らないだろう。

まるで異なる分野を繋ぎ合わせての新たな創造的行為を、既存の計算機能がやたら高いだけのコンピューターで可能かどうかまではわからない。いまのコンピューターは人間の思考のうちそれが何らかの認識のかたちで入力できる範囲において、人が予想するのより多くのケースで応用が可能かもしれないということが想定できるに過ぎないように思う。

実際にコンピューターが人の能力をいつ超えるかどうかはともかく、それでも十年後のスパコンは全人類の計算能力を有するのだから、全人類のスマホやスマート家電を監視することは容易になってしまうのは確かであり、そのディストピアを安全にするための民主的手続きはいまから考えておかなければいけないものではないか。

現状においてもビッグデータといわれるように、企業が扱う個人情報を総合すると人の動きや傾向が把握できるということだが、それらに対して法的には個人の特定に繋がるような個人情報の扱いを禁じたり、個人に対して情報の扱いを知らせる義務があるなどの対応がされたとしても、実際のところは特定できないはずの個人情報の複数のデータから個人特定が可能だったり、個人が把握できない間に約款等が変更されており、政府のレベルではない法人でさえも個人を把握したりデータを恣意的に利用している可能性がある。

また、現状においては金融緩和策が続いた結果として、多くの大企業の大株主に政府がいるので、ある種の資本主義下における社会主義経済のようになっているから、個人の情報はもしかすると我々が予想する以上に権力に把握されている可能性もあり得る。

それに対して政府の情報公開は遅れているし、民間企業となると情報公開の程度は限られるだろうから、市場における売り手と買い手の情報の非対称性に近いような、公と市民とに間の情報の不均衡が広がれば、市民のなかに不当な不利益を被るケースが起こり得るのではないか。

いまのスマホやPCの性能ですら一昔前とは異なりかなり高度であり、メモリやハードディスク内のデータは即座に検索できるような状況になっているが、クラウドなどの利用も普通になってきており、いつのまにか自分の手元にある情報がどこかのサーバーにも保存されているということが自然になってきている。

この情報環境は権力次第では特定の思想や価値感などを監視したりそういう個人を特定することが容易であり、政府にデジタル庁ができていてマイナンバーが活用されるようになると、個人の経済状態や貯蓄および健康情報までも一箇所で把握されてしまう。

それが裏で企業のもつ情報などと繋がった場合は、誰がどこかにとって都合がよく、誰が都合が悪いということが簡単に把握されてしまうし、権力側がいちばん知りたいのはその情報であることは知っておくべきだ。

市民はいまの社会のあり方にもっと敏感でもいいはずだし、問題意識や危機意識から政府や企業を監視する必要性および彼らへの情報公開要求をする必要性をもっと認識した方がいいのではないか。

こういった現代と近未来において、見えない弾圧が起き得る可能性を踏まえれば、我々はどのように自分たちを守ることができるのかを考える必要性があるように感じる。

個人は自ら情報公開した方がいいだろうが、それは情報を権力が一方的に握っているのに、権力以外は自分しかその情報を有していないという状況を乗り越えるためだが、その方が市民同士の連携により安全確保がしやすいのは理解されるだろう。

それへの懸念があるとすれば、市民による市民へのストーカーということになるから、そういったケースへの対応としてシェルターや特定の加害者とその知人に特定個人の情報が届かないようにする公平な仕組みの構築も必要になるということになる。

これはある意味では悪用すれば特定個人をネット上で孤立化させることも可能になってしまうかもしれないものだが、そういうケースでの訴えのオープンな窓口も必要かもしれない。

しかし、逆にいえばネットで個人情報を開示しないという状況は自らネット上で孤立していることに等しいかもしれないということにもなり得るだろう。

これらは現在と近未来における懸念だが、社会の変化がどの方向に動くかはわからないし、隣の大国では民主主義が十分に機能していない現実があるから、一般市民の側も懸念を共有して対応することが常識になるネット文化をつくっていかなければいけないのではないか。