表現の自由、自由権、社会権、生存権、進歩主義、多文化主義、機会平等、男女平等、公平公正な分配、弱者とマイノリティへの慈悲と救済および支援。能力主義は公正な倫理観が前提となりそれに加えて生存権を重視しての結果の平等の必要性を社会は理解すべきではないか?

理想的な社会にするために僕たちは何をすればいいだろう -2-

(この文章は日本にある不条理をなくすにはどうすればいいかを考えた結果のもので、もしかするとある種のイデオロギー的な誤解を招きかねないものだけれど、実際はイデオロギーとはたいして関係なく特に色も何もついておらず、せいぜい唯物論(左翼)と唯識論(中道)の間(中道左派)という程度だが、むしろ単に論理としてのみ理解してもらいたいものです。)


僕は中道左派だ。故に急進的な変革における反動という副作用を避けつつ、現実を理想に近づけたいと考える。

これは理想をただ主張するだけでも否定するのでもなく、理想を急進的に追った結果それが逆に理想の否定になるような反動形成を避ける必要性と、そのなかで何とか理想を実現するにはどうすればいいかという観点から書いている。

左派は理想主義でありその意味では性善説ということになるかもしれないが、現実的には社会には善も悪も存在するのだから、そのなかで現実を理想に近づけようとした人たちはかつて資本家を性悪説でとらえる二分化思考をする傾向があった。しかし単純な二項対立では社会の問題を解決することにはならない。

社会の格差を是正して全員の人権が保障される政治を実現するためには、左派の理想に加えて中道の思想と弁証法により理念を徐々に現実化することを人類は試みるべきではないか。

理想を実現化しようとした歴史上の人物で最も有名なのはマルクスだが、初期マルクスはリベラルな左派(ヘーゲル左派)という立場であり、そこで語られるのは疎外論だ。

19世紀のマルクスの時代は、産業革命からはじまった新たな経済社会の歪みによりそれまでの秩序が破壊されて不当な労働があると同時に経済的に成功する新たな富裕層が現れる非常に不公平な社会構造が生まれていた。

マルクスはその不条理な歪みを、資本家が不労所得として利潤を得ることによって労働者が「疎外」されていることに原因があると捉えていた。

それから百年以上が経過し、マルクスが支援した欧州の社会党社民党が提言していた政策(短時間労働、教育医療の無償化、結社の自由、普通選挙、民主主義、人民による裁判と無料の司法、累進課税相続税)などの大部分が現実化した国が多くある現状において疎外論をどう捉えたらいいだろうか。

実際のところ法外な所得を得る人が多くいる資本主義の現代において格差は大きいし不条理も多く、特に日本においては機会平等があまりに遠いから微々たる改善はあってもまるで不十分な状況ではあるけれど、それでも百年以上前のマルクスの時代の欧州に比べると日本を含む先進国やその他の中進国では絶対的貧困は激減し、実体経済の何倍もの金融経済の存在により資産格差は大きいものの、実質的なモノの分配という観点では資産の数字上ほどの巨大な格差はないはずだが、それでもこの構図による資産格差の大きさからくる労働疎外はあまりに大きい。

第二次世界大戦を経てケインズ政策による(もしかしたら根底にソ連への競争の過程でマルクスの思想が米国を含む世界に大きく影響していたかもしれないが)平等の実現が一定程度進んだのはピケティの著作にある累進税制の変遷からも明らかだが、高い累進課税が課されていた時代の後に新自由主義の時代が到来し、それにより競争の徹底された過去半世紀に生じた格差社会に我々はいまだある。

しかしその結果としての底辺層の不幸を除けば、底辺労働者による不要の犠牲により大多数は裕福な生活をしており、彼らは疎外の構図のなかにいてもそれを感じられなくなっている可能性がある。

だからといってかつてのように新富裕層が既得権を打破するために市民の不満を利用して革命をするようなことを底辺層に期待されても不可能な状況であることは確かで、現在は民主主義が存在するから、それを有効活用し社会にある多くの不条理を是正改善できる政治をつくる必要がある。

社会の富の総量からすれば技術革新によりその実質的物的富はまだまだ増やすことが可能と思われるので、それらの分配を十分にする必要があることは明らかだ。

そういった時代変化の経緯からの文脈では疎外という概念がかつてのものから変容している可能性があるのではないか。

21世紀前半現在における疎外は、労働の疎外というよりも機会平等や結果平等という理念からの疎外であり、これは富める豊かな社会のはずの現代において格差の是正が十分になされていなかったり、健康で文化的な最低限の生活という日本国憲法で全員に保障された生存権が十分に機能していない現状においてあるものだろう。

もちろん労働疎外の問題が解決したわけではないし、企業の剰余価値が投資家の利益としか捉えられないような状況も残っているだろうが、それ以前に金融緩和で資産が過剰に増加している現代ではまるで異なる問題が生じている。

そんななかでも社会が大きく変わってSDG'sのような資本側からの理念という動きもでてきている。

民主的で豊かな時代が長く続いたことにより資本側も上品な人が増えていることは確かだが、しかしそれは社会における格差が深刻になっていることから、その解決の必要性が広く認識されたことによるものだろう。

実際に格差社会の不条理として社会的排除のような状況が底辺にいる一部の人に生まれていれば、それは現代における疎外そのものだ。

その疎外は、労働疎外の構図により消費経済の主役たる労働者の一部がそうはなれない問題ということだが、もしかすると今後数十年以内に、労働自体が自動化され労働者自身が不要なものとして生産から疎外される可能性が危惧されている。

この問題に関しては消費経済の中心としての役割を人々に担わせるために、ベーシックインカムが配られて市民が消費者として経済社会に支配される状況になるかもしれない。

しかし2021年現在においてはそこへの移行の揺籃期に過ぎず、たとえそれらが実現するにしても構造変化への意識がスムーズに進むとは限らず、既存の価値観から抜け出せない人々による抵抗が生じる可能性がある。

我々は平等の理念からは程遠い現実のなかに生きているし、人々は既存の価値観に縛られ、新しい価値観がどれほど優れていて自分たちに有利になるにしても、それをすべてが理解するには世代の交代など時間を必要とする。

そのために生産から疎外されることの問題への対応として、金融緩和により企業に実質的な利益とは異なる報酬を得させることで雇用を増やし、雑用を多くつくることで所得を得させて消費経済の主役をつくりだしている。

こういった現在における豊かな社会での新しい疎外に対して、どのようにすれば理想的な観点から問題を改善していけるだろう。

左派の目的を即日で実現することは不可能であり、高度な理想ほど実現に時間を要するのも事実なので、そういったものは漸進的に徐々に実現に近づける必要がある。

そのために必要なものは左派の理想論に加えて中道の思想や弁証法だ。

日本の場合は中道の思想としての仏教哲学があり特に大乗思想の内容は左派の理論と相性がいいのではないかと感じている。

マルクス主義者や社民主義者のなかには中世ヨーロッパの思想やギリシャ時代のものなどを論理展開に導入する人がいるが、日本にはもともと存在し言葉や風習に大きく影響している哲学としての仏教思想がある。

カントの直系を自称するショーペンハウアーが、生は苦であり諦観で苦を免れるという仏教哲学に影響され、その影響を受けたニーチェの理論が物議を醸したのは有名だが、それらの発想の基になっている原始仏教と、ここでいう大乗思想の理論は同じではない。また、そのこの場合は大乗思想のすべてではなく、理論として活用できるものを選んでのことに過ぎない。

社会を平等にする社会主義も、ときに所有さえ否定することがある仏教哲学も、共に平等理論であり理想主義の一つだ。

理想主義を実現するためには現実との相克があるが、かつては啓蒙により無知(無明)を啓くことで社会を進歩させることが可能だとみなされたもののナチスなどの詐欺的理想主義の登場により、啓蒙という人間がすべてを制御可能だとして行動することが問題であるとされた時代を経て現在がある。(啓蒙の弁証法:ホルクハイマー、アドルノ古代ギリシャの詩人ホメロスオデュッセイアを例にナチスとそれに騙される市民の問題を書いている。)

しかし、社会を理想的な状態にすること自体は誰しもが望むはずのものであり、その実現のためには誤解や偏見を解消して全体主義ではない多様な社会における平等の理想を、対立や衝突を最小限にしてじわじわと浸透させる必要があるだろう。

そのうえでは中道左派という中道性がある人による左派の理論や目的を理解するというケースでは問題はないが、極論をいう人や多様性を理解しない人、理想を理解しない人、保守的すぎる人に対して、誰もが理解を示すだろう理想を知ってもらいそれを実現していかなければいけないということになるので、日本の場合は土着の平等思想である大乗思想を応用することが現実的な対応になる可能性がある。

この場合には強制性はなく多様性を重視するのだから問題はないと同時に、これ自体が僕の立場と完全に同じではないということで、これは日本があまりに保守的な社会で格差の是正も機会平等も不十分なことから、自分とは異なる人たちを含めて社会を理念的にするにはどうすればいいかという命題に基づいてこれを書いている。

実際のところ現実的には左派の唯物論と大乗の唯識論は相互に干渉せず補完が可能で、左派の唯物論は心ではなく物と経済を捉えるものだし、唯識論はある種の認識論であり心の構造を表現しているが、たとえ唯物論では心がモノによってなりたつものであるとしていわゆる神経伝達物質ニューロンによってできる現象で捉えたとしても、その心のはたらきを表す現象自体をどのように表現するかは別の手法が必要なこともあって、そういう意味では唯識論と唯物論は補完状況にあって全く干渉しないということがいえる。

この発想の構図が決して間違ってはいないことは、ドイツのフランクフルト学派第一世代がマルクス主義を前提に時代の精神をフロイト精神分析を用いて解釈したことからもわかるのではないか。唯物論では心の問題を捉えられないからフロイトを使うのも唯識論を用いるのも同様の試みということになる。

また左派に比べて仏教哲学が保守的と思われる傾向があるとしても、実際のところでは大乗の中心思想である三法印のひとつ諸行無常は、すべての現象(諸行)は常に変化して(無常)いることを意味するので、保守的なものとは相反してむしろ進歩的である。

三法印の一つである諸法無我に関しては、永遠に独立して全てを支配するようなもの(我=アートマン)はどこにも(諸法=全てのものに)存在しないという意味で、要するにものごとは関係性により相互依存で成り立っているということになるが、これはある意味では、やがては国境というものすらいつかは不要になるときがくることを示唆する。

国や権力なども永遠ではなく人々は比較優位にある経済活動や言論活動と同様に相互依存で成り立っており、そういう意味ではすでに経済と情報における国境の概念は過去のものかもしれない。

三法印の残りは涅槃寂静というものだが、これは煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静かな安らぎの境地(寂静)であるということ。

かつての不幸な時代はそれを生死を超えたものとして捉えることもあったようだが、現代は非常に豊かなので人々の意識次第では悟りの境地を現実のなかで可能にすることは比較的容易かもしれないし、それ以上に長期的な社会改革により現実のなかで心が平穏で満足した世界に皆が生きることができるようにすることも現実的技術的経済的物理的に可能になりつつある。

その過程で仏教哲学なら煩悩や強欲を減少させ悟りの世界で八正道的な正しい生き方をすることを目的にすることが可能だし、現代の知見であれば認知行動療法という心の歪みを減らしてありのままで正しく生きるという手法もあるが、一般の誰もがそれに近い平穏な境地で生きられる幸せな社会を実現することは、21世紀の現代においては不可能ではなくなっているのではないか。

また、啓蒙に近い発想として悪人正機という親鸞の考えがあり、哲学的真実を理解できないすべての人(悪人)ほど衆生を悟りに導く力(他力)により救済されるという概念によって、すべての人が強欲のない状況に導かれてその結果として理想の追求と実現が近づくという論理展開が可能になる。

仏教哲学は煩悩や欲を滅することが本来的に重視されるが、これに客観的現実性を踏まえて解釈すれば諸々の問題の根源である煩悩はない方がいいのは当然で、しかし欲という文字でそれを表現すると意欲まで問題視しかねない過ちに陥りかねないため、あえて欲という表現を強欲という表記にして制限している。

もし強欲を滅した人ばかりで民主主義をした場合は、多様な価値観や生き方の人が同居した社会であっても、それぞれがそれぞれの立場で明確に自らの状況を説明しその自己主張により様々な矛盾や不条理を浮き上がらせることにより問題を提示して解決への道を作り出す場合においても相手の主張も尊重することが可能になるため、時間をかけて弁証法的手法により合意形成が容易になっていくだろう。

そういった社会においては、民主主義の作法としての言論の自由と透明化されて客観的に検証が十分になされる議論が必須であり、それらを通じて理想的状況が漸進的に実現可能になる。

全ての人が強欲を滅し利己性から解放された社会ができるなら、言論が完全に自由な社会をつくることが可能だろう。

そこでは経済界の意向や政治の意向などに関係ない議論がなされるが、その過程で公平性が十分に維持されるなら、様々な問題に対して、綺麗に「場合分け」された解決策が採用されるはずだ。

全てが強欲を滅して利己的ではない社会という性善説の極端な理想主義を前提にしているので実際に現実のなかではそれが難しい場合も想定し、もしデマや謀略による流言などに惑わされる可能性があることも否めないケースがあったときにそれを回避するシステムを周到さをもって準備しておく必要もあるかもしれないが、それには透明化や信頼できる第三者による検証などの仕組みが常に議論にあたっては社会のなかに組み込まれるようにすべきだ。

そういった客観的で信頼できるシステムのなかで強欲を滅したプレーヤーがコミュニケーション的行為としての議論を重ねることが民主主義で理想を実現する道になるだろう。

その過程で弁証法的な論法により多様な意見から合意形成をすることになるのだろうが、その弁証法は正+反→合を繰り返す単純なものではなくて、もちろん各論において局面ではそうなるのだが、弁証法に関してはヘーゲルの絶対精神といったやがて絶対的なものになるという考え方をとるべきではなく、それは絶対というものにおける恣意性の問題がどうしても免れることができないものだからだが、仏教哲学を用いての空・仮・中の三諦偈なら絶対的なものを否定するので、絶対という過ちによる全体主義的な支配性のある状況になる懸念は小さい。

むしろ弁証法が直線的ならせん構造だけでは社会の複雑性を処理できないため、議論は必ずしも常に一つの結論にしていく必要はなく、各論で柔軟に弁証法をしつつそれらの議論を綺麗に整理してそれぞれの項目ごとに「場合分け」し、その各々に公平でそのときどきに最適な方策を適応すればいいということになる。

それらの経緯の結果として動的平衡としての全体最適が公平性という観点から維持できればいい。

そのような社会システムがある状況が実現したなら、AIやロボット労働が導入されていく時代においても、人的労働の総量が大幅に減少し労働自体が不要になるケースも多々ある経済社会構造の変化に対して、人的労働が少なくても「同じだけの生産と流通が可能になる」のだから、労働をシェアして超短時間労働の社会にすることが自然だが、同時に消費経済の主役としての市民という存在の必要性から、時給のかなり大幅な増額や、ベーシックインカムとその財源としてのロボットAI課税およびその現実的に可能な水準なども、客観的に議論し実現していくことが可能になるだろう。

これらの論理はあくまで思考シュミレーションだが、実際に世代を超えて教育を十分にすることで実現も可能なものと思われる。

もしこのような経緯を経ずに社会の変革時期をのり越える場合は、為政者が善人で理想を説得できる人であるという条件が必要で、それらが偶然に依存するものであるのは人類の歴史からも明らかであり、現実の世界での社会の構造変化はもしかしたらそれなりのいたみを伴うものになってしまうかもしれない。

人類の未来のためには理想的な状況をつくりだす空気を醸成した方がいいだろうと思うが、そのためには十分な社会教育と柔軟な価値観の導入および感情的にならない人格形成が必要ではないか。