表現の自由、自由権、社会権、生存権、進歩主義、多文化主義、機会平等、男女平等、公平公正な分配、弱者とマイノリティへの慈悲と救済および支援。能力主義は公正な倫理観が前提となりそれに加えて生存権を重視しての結果の平等の必要性を社会は理解すべきではないか?

2050年からの世界への希望

僕の考え方がリベラルすぎるという批判もあるが、この場合のリベラルとはは中道左派社会自由主義的なものであり、要するに革新を前提とし社会的市場経済において再分配を十分にすることで市場経済での格差を是正する民主的な社会という意味でのリベラルなのだけれど、日本社会の保守的な価値観では21世紀の大変動時代を乗り切るのは難しいのではないかと日ごろから感じているので、革新なりリベラル左派なりの価値観をベースとした社会にしていく必要があるのではないかと思う。

 


新たな経済のあり方とは

経済は需要と供給によって成り立つが、需要は市民の社会生活にとって必要なものからなり、供給は人口の一割程度の一次・二次産業が生産したものをサービス産業などの三次産業が分配するなどして成り立っている。

かつての牧歌的な社会ではない高度情報化産業社会においては、生産に直接従事する人は極めて少なく今後AIとロボットの利用が進むにつれて、生産従事者はますます減っていくと思われる。

人の労働を前提とした従来の社会モデルは、近未来においてはイノベーションにより効率が悪くなるため維持することが難しくなることは明白で、一次二次産業は機械化が進み産業従事者は減るばかりのため、サービス産業などの三次産業に従事する労働者の比率は上がるばかりだ。

その結果、現在の日本社会のようにサービス産業が低賃金労働であるという価値観のまま未来を迎えた場合は、低賃金労働で生産物を流通するだけの非常に貧しく忙しい社会になる懸念すらある。

少ない労力で生産が可能な社会においては、本来なら人は労働から解放されても生活水準は維持できるどころか豊かな社会を享受できるはずなのだが、素直にそう理解する人があまりに少ないことには不思議な感じを抱かざるを得ない。

実際のところ生産に携わる人が少ないのだから、雇用を維持する目的もあってサービス産業などで労働の場をつくることにより、少ない労働量で作られた生産物を流通させて経済が成り立っており、その結果全体として経済の分配機能が発揮されている現代の社会だが、これはあくまで雇用と労働により経済社会を維持するためのものであり、生産以外の国民生活のためにどうしても必要な流通や小売などの産業に必要な労働量も効率化すれば実はそれほど多くないのではないか。

現在、近未来での実現化を目指して自動車の自動運転の研究が進められているが、その技術が可能になる時代のAIの機能はその他の分野でも応用が可能だろうけれど、そういった社会が成立すれば生産も流通や小売もより少ない人的労働で経済が廻るわけで、それ以外は行政の維持を除けば雑用や娯楽で社会経済がなりたっているだろうことが予測できる。

行政においても制度を複雑化することなくシンプルな制度とシステムにすれば仕事量も大幅に減り、シンプルなシステムは専門家でなくても理解しやすいため民主主義に多くが参加しやすくなる。

誤解は避けたいが、これは一見するとかつてネオリベラルといわれたものに似ているけれど実際はまるで異なり、必ずしもネオリベのように小さな政府を志向するのではなく、むしろ大きな政府における新しいアイデアの一種なのだけれど、故にネオリベのようには福祉や医療の予算を減らすことはせず、むしろ大きな政府の下で医療福祉教育を無償化し充実させることを志向するものだ。

そういった未来を前提にしなくとも現在であっても、実際のところは無駄な労働を省けば最小限の労働量で社会と経済が機能するのが実態であって、それ以外は国民経済を維持するための賃金労働の場を便宜上提供するためにつくられた雑務と娯楽産業だとするなら、必要なものだけに労働を整理して、市民を労働から解放することは可能だろうし、そうであるなら新たな価値観をつくりだすことが模索されていくだろう。

日本のように働く人たちが効率の悪いながら仕事であってもより長時間働くことが評価されるような価値環境があると、前述のような社会の変化に対応することが難しくなる可能性がある。

社会は人によって成り立っているけれど、社会を構成する人々はそれが労働現場でなくとも、目的に向けて作業する場合に必ずしも最も効率のいい手法を選ぶとは限らず、共同作業の過程でも互いに足を引っ張るようなことが往々にしてあり得るわけで、仕事でなくても人間関係の構築のなかには苦労するようなことが含まれるわけだから、実際の人の労働に関しても本来の労働時間は実際よりずっと短い可能性がある。

それらがAIに代替された場合は、人では想像できないレベルの効率化が可能になるだろう。

それなら、本当に必要な仕事だけはみんなでシェアして、一人あたりの労働時間を大幅に削減することが可能になるため、残りの時間は社会活動およびボランティアやNPO、政治活動、研究、生涯学習や趣味、スポーツなどをして暮らせばいいことになる。

 


ベーシックインカムは可能か

人はものを消費して生きているのだけれど、生活必需品などの生産物が配給されるのでなければ、通貨などの商品と交換するための何らかの手段が必要であり、一般的には通貨を利用する。

その際の収入だが、前述のようなワークシェアリングによる短時間労働に応じて時給を文化的で健康的な生活を営むために十分以上になるレベルに大幅にアップさせる手法を選ぶか、法人や金融に課税してベーシックインカムを配ることを基本とした社会経済にするかということになる。後者の方が本質的に公平で平等な仕組みだろう。

ちなみにこの場合の時給に関しては、企業の総利益に対する雇用者報酬である労働分配率を維持するか増大することを前提にすべきだろう。

医療福祉教育は無償で提供するので、ベーシックインカムや収入は生活面に活用されることになるが、住居の提供を公がやるかは考えなければいけない課題だ。できることなら住居も公により提供されれば、収入は衣食などの生活のみに使われる。

これはあくまで現状において可能な範囲ではあっても実現はどこもしていないかもしれない。

上述の前者に近いワークシェアと高い最低賃金という組み合わせに関しては、欧州の一部ではそれに近い状況にあるようだけれど、日本ではそうではない。

そもそも日本では最低賃金が低く、自動車産業や商社などの外貨を稼ぐ法人と、一般の中小企業労働者との賃金格差は大きい。

グローバル産業は国外との競争が激しく、しかしマネーは金融緩和などにより大量に提供されているから、優秀な人材を確保するための高報酬競争により非常に高い賃金を得る者もいるが、その場合の報酬は一般レベルではないにしても、グローバル企業の従業員に関しては全般に高い賃金を得ている。

それに対して、ローカルな産業は国内が相手なのでそれに応じた報酬体系になっているけれど、小売の価格競争などで値下げが進むと同時に賃金も抑制されたから、グローバル企業に比べれば非常に低賃金になる傾向があった。

これが日本のデフレの原因のひとつでもあったはずだ。

そういった低価格競争がなければ、国内産業は経済の仕組みによって分配がうまく機能すればいいだけなので、グローバル企業に優秀な人材が採用されることを阻害しない範囲でローカル産業も高賃金にしてもうまくいくようになるだろう。

ただし、その条件下では物価が安くなるわけではないから、実際のところ輸入品が手ごろになる程度の状況だろうけれど、結果として国内の格差は小さくなるはずだ。

その際には、最低賃金を十分に引き上げておくための政治的な社会制度と経済システムを安定的に維持する対応は必須になる。

これは現状における最低限の対応策であるが、日本に関しては採用しなかったにしても、現在までの欧州ではそのような手法が用いられていたと思われる。

この手法だと内需が豊かになるため経済発展もしやすい。欧州の場合の内需は教育医療福祉というサービス産業にリソースが多く投入されているから持続的な経済が維持されている。

技術革新と十分な生産増強にともなって途上国が中進国になり先進国になっていく過程でも前述のような仕組みが望ましいのではないか。

ただし、世界中で消費が増えることになるので、生産量が間に合わなければインフレになりかねないが、教育医療福祉というサービス産業への消費に多くを割けば、過剰なモノの消費という問題は起こりにくく、教育医療福祉という社会を安定化させるインフラ投資により理想的な状態が維持できるはずだ。

今後はより高度な社会を志向すべきだから、イノベーションを最大限活用しつつ平等で公平な社会を築くために必要な手法を考える必要があり、ベーシックインカムを志向する社会に向かっていくと思われる。

 

 

マネーゲームのある未来にしていいのか

経済を簡単な言葉であえて表現すれば、作って配って消費する、ということだけれど、消費するまでの過程を自動化できる時代がいつかくるとすれば、通貨に関する価値観やあり方にも変化が生じるだろう。

そもそもが自動化された生産により、いつか市民は労働から解放されるわけだから、それを全員に公平に分配することができればいいわけだ。

そういった社会が到来すれば歓迎だが、実際のところ現在からはまだ遠く、いまの課題を解決しながら社会が技術に追いつくのを待たなければいけないだろう。

大きな社会変化においては、税制と給付という大きな課題があるが、それさえ克服できれば社会システムの移行は難しいものではないのかもしれない。

現在における課題としては金融課税が可能かどうかにあるが、金融緩和でベースマネーを大幅に増やしているにも係わらず信用創造が十分に機能しておらず国債の購入などに廻り政府が公共投資が可能になるが、この手法では国の負債が膨大に膨れ上がるだけだ。

故に実質的には金融課税の方が借金に依存せず健全な経済を構築できることは言うまでもないことだ。

これは従来の人が働いて生産し流通させるなかでの社会的市場経済を前提としているわけで、市場経済の範囲において投資家が巨額のマネーを操り、経済のあり方を決める手法における、一般市民の生活に格差が忍び寄る問題を再分配により是正することが前提だが、これですら実際は単なるマネーゲームに過ぎない懸念がある。

それでは未来における生産が自動化された社会の経済とはどのような機能と役割を果たすのだろう?

AIによる流通革命があるはずで、生産も人口構造と需要が予測がつく範囲においては自動化が可能と思われる。そのためマネーゲームのような経済の仕組みは不要になり、ベンチャー企業によるイノベーションに期待する部分にのみ投機的なあり方が残ることになる可能性がある。

マネーゲームの勝者による支配となるようでは、健全な民主主義の社会を維持するということにはならない。

もしそのような時代が存続するのでであれば、SDG'sのような企業による理想の実現が重要な価値観なのだろうけれど、企業の存続が経済社会の維持に最も効率的かつ効果的かということには疑問が生じる時代になるかもしれない。

現在の経済のような仕組みにおいて企業体が存在する場合は、企業自体を民主化することでSDG'sのような理想を体現する存在としてありつづける可能性がある。

マネーゲームではない社会経済モデルが存在したらどうだろう?

前述の通り未来における経済の分配手法の一つにベーシックインカムがある。ベーシックインカムの場合は配ったあとに回収しなければインフレになるわけで、通常は税制により市場のマネーを回収するのだが、金融機関を介してマネーが巡回するケースもある。

しかし、その手法が全てだろうか?。

例えば公がベーシックインカムを配り、消費者が商品やサービスを消費したときにマネーがそのまま公に戻る仕組みを考えた場合は課税の問題はなくなる。社会主義のひとつかもしれないが、課税を嫌がる人々の持続的な忌避感を回避できるし、仕組みがシンプルなので問題が生じ難い。

ただし、市場経済の要素が小さいためAIなどで完全に調整できるならともかくも、固定化された仕組みになってしまい社会変動に伴う修正が十分にできない場合は経済の硬直性を招かない保障はないので、何らかの柔軟なシステムと並存させる必要がある。

何らかの柔軟なシステムとは何かということになるが、ひとつに市場経済の手法を消費の過程で利用するという方法だが、ある意味においては当然のことかもしれない。

消費に関してはベーシックインカムで適切な需要に応じて経済が廻るが、その需要に応える供給においては実際の経済動向と共に、AIを用いて市場予測をして状況に応じた多様な供給が可能になる柔軟な経済システムをつくることになるのではないか。

この手法の利点は、最初から計画で全てを運営し配給に近いかたちで分配するのではなく、状況に応じて人々が自由に消費できる状況があって、それにより全体の調整がなされることにあり、生産側の利点は効率が最大化するということにある。

市場経済において供給の面で金融機関が果たしてきた機能をAIが担うことになるが、もしかしたらそのAIを政府ではなく現在における金融機関が提供することになるかもしれない。その場合は金融機関は市民に対する説明責任が伴うだろう。

 

AIの担う経済:公的サービス+ベーシックインカム総量=社会インフラ+教育医療福祉+住宅+エネルギー+生活必需品+サービス商品

 

その過程で見えない新たな需要をどのように捉えるか…アンケートや意見募集などを使うだろうけれど…ということや、イノベーションを生産供給にどう反映させるかという、AIではできないだろう柔軟な対応は人的な関与により追加的に常になされていなければいけないだろう。

 


未来における民主主義のありかたとは

需要をAIに予測させて供給を決めるような方法に問題があるとすれば、決定の過程が不透明になることだ。AIが一部の人間に都合よく利用される可能性もあり得て、それが一般市民には分からないかもしれないという懸念がある。

消費において市場経済の手法を導入しても、結局は個人における不透明さが混入し誰かが不正や詐欺行為をしていないかという問題が残るが、それに関しては現在と同様に経済犯罪を取り締まる仕組みが必要かもしれない。

AIの利用の裏に政治支配や経済支配が隠れている可能性から公正さに関する懸念があるということになるが、これを解決して公正で公平なシステムをつくるには、全てを開示して皆で不正をチェックする民主的手法が必須となるはずだ。

懸念の最大のものは見えない独裁にならないかということにあるからだが、現在の民主主義および社会民主主義が、文明が高度化する過程の手前における人を完全に監視するようなことが不可能な人間的な時代につくられたものだから理想を目指すことが容易になったわけであって、これをいま失うと今後は民主主義のような権力に反対できる社会システムをつくることができるか疑問もあり、そこに大きな禍根が残りかねない時代の節目にあるわけだから、現状の民主主義を最大限活用して新たな時代に対応する必要があるだろう。

従来の労働価値観からパラダイムシフトしなければいけないようなイノベーションの時代になっているのだけれど、同時に社民主義フランクフルト学派第一世代が20世紀にナチス独裁を批判したように、この価値観の変動期において問題を最小にして独裁などが起こりえないシステムを維持形成し、理想と現実の狭間で弁証法的解決を見出す必要性がある。

やはり情報公開がその中心になるだろうけれど、一般市民の関心とリテラシーへの啓蒙的な対応を、特定の価値観ではなく思考の基本と社会のあり方を考えるという観点からなす必要もあるかもしれない。

現時点では希望的近未来のなかにある懸念でしかないものだが、パラダイムシフトの足音は着実に近づいているので、いまから社会のあり方の移行のための準備を政治も含めてしておく必要があり、もし成り行きに任せた場合は、大失業時代と不十分な生活保障という恐ろしい状況を招きかねないことに十分に想像をはたらかせ対応する必要もある。

税のあり方から生き方まで全てが変わる可能性があるイノベーションが現在の科学技術情報というかたちで目の前で展開されており、しかし、それに対する政治的な動きは遅く、故にメディアやアカデミックな世界における様々なかたちの抵抗と懸念も大きいように思える。

SDG'sのような新たな動きもあり、世界的には準備が進みつつあるのは確かなようだが、日本においては意識が低く、むしろAIの普及に対する失業懸念ばかりが先行している。

フランス社会党がテロに対し緊急事態を宣言して国民に嫌われて崩壊してしまっているが、当時の党首が非公式にロボット税の必要性とベーシックインカムについて言及していた。リアルな政治としては先を考えすぎたのかもしれないが、その視点は無視することができない重要な示唆を孕んでいる。

現状においてはまだまだ人でなくてはできない労働が多いが、イノベーションのスピードは恐ろしく速いので、どこかで実現性がはっきりするような状況が訪れるだろう。

実際に極めて少ない労働で国民経済を支える生産が可能になった場合は、労働を基本とした価値観では社会の仕組みとして矛盾してしまい、現在とおなじ観念で社会を維持できなくなる可能性があるので、ベーシックインカム生涯学習等の組み合わせによって社会を再構築すべきときに、社会的価値観のあり方までが問われる時代がくるのだろうけれど、もし、従来の価値観を維持するようなことがあれば最悪な場合、雑用をみんながする経済のままになりかねない。

日本では労働の効率より長時間働くことの方に価値を置くような社会が長く続いているようなので、21世紀の本格的なパラダイムシフトにおいては、非常に苦しい経済から抜け出せなくなる懸念があることに大きな危機感を抱かざるを得ない。

だからといって拙速に先走るような対応は失敗を招くだろうから、その場合は致命的に理想から社会が遠のいてしまうかもしれない。

慎重かつ果敢に長期的な議論を展開しはじめなければいけない時代になっている予感があるということだ。