表現の自由、自由権、社会権、生存権、進歩主義、多文化主義、機会平等、男女平等、公平公正な分配、弱者とマイノリティへの慈悲と救済および支援。能力主義は公正な倫理観が前提となりそれに加えて生存権を重視しての結果の平等の必要性を社会は理解すべきではないか?

幸福な社会は可能か

人は究極的には何を目的に生きているのだろう。

ときに認識において一瞬でものごとが氷解するようなことがあるが、そのときにはそれまで畜積してきた情報が時間をかけて脳内であるネットワークとして熟成していった結果として、ある瞬間に最後のパーツがうまくはまったかのようにすべてのネットワークが矛盾なくつながるという経過をへていると思われる。

ものごとは一定の時間をおけば常に何らかの変化をしており、日常の変化は連続的で小さいものが複合的に関係して生じているが、科学的発見などの場合、それにより一瞬にしてすべての世界が同時に変わることもときにあり得る。

世の中には様々な人がいるのだろうけれど、心の中まではわからないものにしても親切な人も気がきく人も負けず嫌いな人も元気な人もそうではない人も日々一生懸命に生きており、その人にとってはそれぞれに一度しかない人生なのだから、相互に干渉せずに機能する互恵的社会システムをつくっていくべきであり、我々が生活しているその社会は因果関係やネットワークにより成立しているのだが、それは歴史の中でつくられた慣習と時代変化により柔軟に変化するものなので、変化や進歩を阻害することはそれが修復困難な破壊でない限りは問題であるから、それゆえに深い議論と調整により構築される社会システムは皆が幸福になれるものを目指すべきではないか。

その際の長期的な議論はものごとを発展させるために必要なものだが、議論といっても対立を煽るのでは逆効果になるので、相互の理解とそれぞれの歩み寄る姿勢が望まれ、しかしそれが阻害的妥協にならないようにしなければいけないと思う。


心の理論とミラーニューロン

人を知るとは自分を知り他者を知るということだろう。

自分の内面は自分しかみえないが、それだけで自分が何者かを理解することは不十分で、誰かとの違いを認識することによりその差分から自分の他者との相異がわかって、自分と他者を知ることになる。

自分が意図や推測をするように他人もそれをすることを予想する能力が人にはあるが、この心の機能を「心の理論」という。この機能があるから人は他者にも心があって、それに共感したり、ときに何とか心を読もうとして過って誤解したり、配慮したりできるということがわかる。

そもそも心とは何か。人に心があると理解できるのはどうしてか。

まず我々は何をどう認識しているのかだけれど、ものを見て理解するときに主に視覚からそれの意味を捉える。視覚像が、形や色、位置という概念に分解されて、それぞれに意味付けがなされ、それが統合されたところに認識と理解が生まれる。目の前にある現実を認識すると同時にそれについて考え、その直前からの文脈の流れでいまを理解し行動目的を捉えるための機能として、短期間の記憶が形成される。

普段の日常では慣れた行動習慣と目の前にある現実を照らし合わせて常に行動を決定している。より思慮深い判断の場合は、過去の記憶からその状況に関連した情報が引き出されて、理性や嗜好性によりそのときのシテュエーションに応じてその情報が参照されて、適切な優先順位付けがなされてそれなりに妥当な判断が選択される。

しかし、すべての人があらゆる状況に対して常に適切に優先順位付けができるとは限らずミスをするものだが、そのミスは感情とともに記憶されて、行動選択においてミスを回避するために使われる。これらの処理が上手くいかないとトラブルが増えることになってしまうだろう。

心とは脳が機能したときになされる認識、想起、理解、予想、判断、それらに伴う感情を統合したところにできるものと考えられる。

心の作用としては、様々な志向性…たとえば理想や夢、好き嫌い、打算や煩悩など…があり、それに加えてそれをしたいという意志と、抑制役となる不安などの情動が絡んた思惑が関与して、全体としてバランスをとりながら人は行動を選択する。

この場合の行動は一個人によるものだが、人が行動をするとしても必ずしも1人とは限らず、個人の周辺には社会やルールが存在する。その中で他と干渉せず問題なく目的に達する必要があるし、ときに他者に頼ったり助けてもらうこともあるだろう。

そういった社会の中で生きていくためには人の気持ちを理解して、相互に協力したり対立を避けたりする必要があるが、そのための心(脳)の機能としてミラーニューロンが存在する。

ミラーニューロンは相手の行動を観察したときに、それと同じ行動を内面につくり出す神経で、行動だけでなく快不快などの感情も同様であって、そのため共感にも関係しており、しぐさの理解に続く言語獲得の過程にも関連がある可能性がある。

ミラーニューロンの存在によって、我々は他者から学び他者を知り、自分を知ることができるようになる。

脳にあるそういった機能が人の高度な社会性を生みだしており、言葉を含む社会機能の高度化が人間か人間である所以である証左だろう。


自由

しかし、近代以降の社会の高度化による自然から疎外されてしまった人間にとっての本来のあるべきと姿は現代の巨大な都市や国家にはなく、それは手が届く範囲のコミュニティのなかで差別も排除もしない人々と助け合っていくことで担保されるものかもしれないが、現実は巨大な経済社会に翻弄されて自分自身ではないペルソナを纏って現代社会を生きているのが普通になっている。

仮面も鎧もない裸の自分で生きられるような世界と現実の世の中との違いは何なのだろう。

ヒエラルキーがある格差社会においては、社会構造の複雑さが背景となってそのような自然ではない状態が存在するのだろうが、イノベーションが複雑性を補うことで、巨大な社会の中にあって疎外されない状況をつくり出すことを目指すことは可能だろう。

いまの世界の複雑さは、人の能力が数百人の小コミュニティの範囲でしかものごとを把握できないのに億のレベルの人を一つの社会や国家として運営しているので、それを細分化しグループごとに別けて立体的に階層化して扱うしかないのかもしれない。

現在のコンピューターテクノロジーは人では把握不可能な情報量を処理できるので、階層のないフラットな構造の社会をつくっても、普遍的な同じルールを適用して経済と生活を維持できるのではないかと思われる。

実際に大企業レベルではそのような中間を抜いた組織構造の簡略化がなされるケースもあり、結果として硬直したシステムから柔軟なものへと移行した方がうまくいくという結果ももたらされているようだ。

それが一組織で可能であるということは、社会全体でも一定の基本構造を残しつつであれば、階層のないフラットな構造の社会をつくり出すことも期待できるのではないか。

フラットな構造は意思疎通が容易なため基本的な目的を共有したり、シンプルなルールで組織が機能するようにできる可能性があるようだ。そこでは自律的で相互作用が働く小グループが、目的に合わせて柔軟に組織全体が機能するように動くことで効果的にシステムを実現していくことができるだろう。

しかし、現実には巨大なピラミッド型の官僚組織が支配していることが多く、フラットな構造の組織形態をするには決まったことを決まった通りにする人材では不足で、自ら考え他者と話しあい状況に適した判断をしてそれを協力して実行する人の養成が望まれる。

また、正しい判断をするためには正しい情報が必要なので、正しい情報を供給できる社会状勢がなくてはいけない。

ものごとの根拠となる情報の何を信頼すればいいのかも難しい時代なので、まず必要なものは信頼できる情報であることから、信頼できるジャーナリズムと有識者及びシンクタンクなどの正確なデータをつくり出せる組織の存在が望まれるということになる。それらを生み出しているのは人(AIも人の模倣にすぎない)であり本質的なところでは教育なので、そのあり方が健全なのかの検証も必要となる。

人のすべてが倫理的とは限らないので、不正がないかのチェックや監視の仕組みもなければいけない。誰もが安心して安全に幸せを感じられる社会を望むのは当然のことで、そのために我々が学ばなければいけないものは人権や立憲主義および倫理であって、歴史は過去の失敗からの教訓程度で十分なのかもしれない。少なくとも悪智恵を歴史から学ぶ必要はないが、それへの歯止めと対策はすべきだろう。

プラトンの「国家」にギュゲスの指輪という比喩がある。指輪の所有者は意のままに透明になれるため不正が発覚することがないが、それでも人は正義を貫くかどうかだが、透明になれる指輪を拾ったことで王を殺して権力の座につく不正の是非が正義の観点から語られている。

不正の方が正義より得になるとは限らないが、そう考える者がいるのは確かなことであり、それにより多数が損害を被るため社会は透明であることが望まれるが、一般人も不正をしてはならないことは当然にしても、権力側の不正が社会に及ぼす問題の深刻さは大きく、この場合の透明性(情報公開や不正監視)の優先順位付けは市民の側の有識者がすべきではないか。

現在は規制をしなければネット監視が簡単に可能になる時代であり、同時に国民背番号制の導入が進められている。

不正をする者がいると困る時代ではあるけれど、報道の自由が落ちている時代に、権力による市民の監役ができる社会になりかねない懸念があり心配している。

人類の歴史は実際は庶民の生活と経済活動によりつくられているはずだが、教科書の歴史は権力の興亡により彩られている。その背景には常に様々な策謀があるはずであり、クリーンなだけで権力の座に就く人は希だったに違いないし、たとえそうであってもその周りの誰かにはそうではない特性があったはずだし、もしクリーンな権力であったとしても何らかの不作為の作為があり得たのではないか。

権力には不作為の作為を回避する努力が必要なのはいうまでもないものだし、そのためには権力の側にも市民の側にも正確な情報が必要であって、それには公平で間違いのない統計情報、および公文書の保存、情報公開、報道の自由言論の自由表現の自由の最大限の尊重が望まれる。

もし社会に自由が十分にあれば、それまで正しいと信じられていたものが間違いのときに容易に修正することができる。

ニュートン万有引力の法則により地球上で通じる物理学をつくったが、アインシュタインは宇宙の基準が地球の寸法では問題だと考えたのだろう光速不変を基準とした。結果として時間も空間も不変ではなくなった。

光は物質に遮られる性質があるが重力は遮られることがないものだから、たとえば仮に未来に重力を宇宙の法則の基準にすべきだという学者が現れ新たな提言と証明がされたなら、世界にパラダイムシフトが起きるかもしれない。

しかしそういうことも言論の自由がなければ簡単にはできないものになってしまう。

社会というものが人の価値をつくり出すのだから、それが誰にでも望ましい選択肢を提供できているかが重要であり、自由があることの必要性は極めて高い。

自由の対義語は束縛や統制だ。

疎外されるほどに人は不自由を嫌い自然な自由を求めるものだが、それに反して支配の側が統制をするケースは秩序の維持が目的だったり権力者の支配性の問題だったりするだろうけれど、その結果として社会だけでなく科学や技術の発展も抑制されるのでは問題だろう。

ゆえに支配側も市民も立憲主義法令遵守は当然であるが、人のミラーニューロン及びメタ認知能力(自己を客観視する能力)が十分に機能していれば人の気持ちに配慮するようになるはずなので、自由な社会においてもそういった方向に育った人々によって構成された社会の秩序は安定したものになるだろうから、それぞれが相互に干渉せずに互恵的に生きていくためにも、たとえば教育においても学力ばかりに偏らないバランスのとれた姿勢で対応した方が、社会全体にとって望ましい方向性があるように思う。

それ以上に誰もが包摂された寛容な社会状況をつくるのは喫緊の課題であって、そこに向けて漸進的に社会を進歩、発展させることが望まれるだろう。

 

公平な社会と合意形成

論理的な言葉による公正公平かつ透明な話し合いの環境が整った状況があっても、人々が利己的すぎればどのような正しい議論も無意味化しかねない。

人の心は情動が安定していれば問題を起こすことは少ないが、常に平穏な心を維持できるとは限らないので、心を乱す原因を見つけて問題が生じ難い状態を総合的に時間をかけて自らつくった方が、個人においても望ましい人生を送れるようになるだろうし、それが結果として社会の安定にもつながっていくと思われる。

心に乱れが生じると、不要の猜疑心や疑心暗鬼により何もないところにトラブルができて場合によってはそれが周辺に拡大しかねない。それらは不機嫌からくる怒りや恐れがつくり出す被害妄想念慮の類いであり、心の状態が改善すればそれらの問題は消失する。

偏りなく正しく思考するための方法は一つとは限らず多々のアクセス手段があるだろうが、心を乱す原因を見つけて問題が生じ難い状態を自らつくるためには、たとえば呼吸を整えて心を安定させるための瞑想や自律訓練法で欲や自我をなくすこともその一つであり、現代的手法としては認識のレベルで問題を回避して行動を改善する認知行動療法によって自分の思考の癖を知って、それを修正改善していくこともその一つとなると思われる。

多くの市民が健全な社会形成のために普遍的価値観を有することは望ましいことだが、普遍を体現するには、まずは偏りのない思考習慣を身につけなければならないのも確かだろう。

そういった姿勢が一般化したなら、社会を構成する個人がそれぞれに自己実現を叶えながら活躍して、同時に皆が幸せになる社会システム生まれて実際にが機能するような世界が実現するときもくるはずだ。

これらは性善説だけで世の中がよくなるかどうかという話ではなく悪人を善人にする意図も含まれているということだが、同様に健全なコミュニケーションがあれば意思疎通が容易になって社会関係を良好にすることができるから、それらにより問題の改善等が円滑に進むことが期待できる。

コミュニケーションといっても個人間で成立するものもあれば、ルールやシステムを決めるための合意形成のためのものもある。

後者に関しては分野違いの複数の専門家の意見も参照されるだろうけれど、異分野間の意思疎通を円滑にするためには言葉の語義の不一致を解消する努力も必要になるのではないか。

それぞれの人がもつ言葉の知識の個人差が、同じ言葉から異なる理解をつくり出すというトラブルにもなり得るので、分野を超えた用語の語義の定義の一致がなされれば、少なくとも不用なトラブルや混乱は最小化できるのではないか。

合意形成にあたっては、異なる意見を調整しなければいけない。

そもそもその正しい目的が幸福な社会といった抽象的なものならばともかくも、喫緊の問題については各論であり目の前の課題解決に終始するだろうから、その目的や手法についてはそれぞれに熟議しなければならず、それと同時にその最終的な目的の一つがたとえば全員の幸福であるといった、眼前の課題と普遍的目的という二重入れ子構造になる目標設定が望まれる。

それはある意味では立憲主義下における立法行為という憲法と法律の関係と同様で、カントの定言命法において普遍的な目的に則して各々の決定をしていくことと似ているはずだ。

また、開かれて透明かつ検証可能な経緯によりつくられた客観的な合意は、ルールやシステムとして問題がない限りは機能しているとみなされ、単なる意見の寄せ集めの全体意志でも、特定団体の意見でしかない特殊意志でもなく、一般意志という普遍に基づいたものに近づけるべきだろう。

政治における合意はそれを目指すべきだ。

それぞれの主張に意義があって折り合えないときには、共通部分を抽出して周縁の合理的妥協を客観的な優先順位付け等により図ることになるだろうが、その際に本未の目的と総合的な機能性を損なわないかの検証も必要になる。

社会は異なる見解をもつ個人が集まって成り立っており単純な合意では偏った問題が生じかねずバランスと理念を尊重すべきだからだが、加えて社会を構成する個人がそれぞれに自己実現を叶えながら活躍して同時に社会が機能するようなシステムを模索し実現できたなら、非常に幸せな世界になるに違いない。

そのためには機会の平等と自由および失敗しても救済されて再挑戦ができる社会システムが必要で、それは近代以降の社会が生んだ人権思想の具現化があればそれで十分であり、技術革新が進んだ現在においては、その実現性は社会的合意さえあれば比較的容易になっている。


公共

公共空間が健全であれば、ネットを無償化して誰もが公平に情報を得る機会がある状況にでき、社会システムを平等にできれば、公正に分配することも技術的には容易になる。難しい状態に陥った人をみつけて救うことも、支援することも可能になるはずだ。

技術革新は人々を幸せにすることも支配することも簡単なので、後者への懸念から民主主義の重要性と情報公開の必要性があるが、それを実現して公の透明性を得るためには、民主主義を徹底していく市民の努力が必要になるから、教育の段階から市民社会の歴史や民主主義の意義を教える重要性は増す。

しかしその道は簡単ではないようで、どうしても為政者は問題を隠したがるし、権力に迎合する者は後を絶たない。問題が隠されるということは、一般市民にとって都合の悪いことが表に出ないのだから、どこかで社会にとって不都合な状況が生じることになるはずだ。

それを放置した場合には予測できない問題に対拠せざるを得ないことになり得るのだから、情報は公にして多重のチェックがなされた方が、たとえそれが批判であっても問題に適切な対応をすれば、社会の安定は維持されることになるのではないか。

公共の信頼性が高ければ、経済社会における分配およびそれに関するルールも機能的なものになる可能性が高いので、公正なルールの下で市場における分配が一定以上に公平なものならば格差は小さくなる。そういった市場による再分配が適切になされればいいのだが、そうでなければ福祉国家的公共の市場への介入は大きくなる。

現代における福祉国家は小子高齢化により制度の継続に苦しんではいるが、21世紀の経済がサービス業中心になっていることもあり、医療や福祉とそれ以外のサービス及びその他産業により経済を維持し再分配によって社会が安定的に発展することが可能であることが証明されている。

資本主義市場経済は放任すると格差が拡大するものだけに、一定の適切な規制を入れたり再分配することで不条理を是正して公平な状態にしなければ人道に反するから、公共政策が経済や社会問題の歪みに対して補うかたちでなされる。

たとえば金融緩和は緩和マネーが金融市場という経済の上層に滞る傾向があって、現実としてトリクルダウンが幻想でしかなかったことは明白であり、よって金融に課税して公共投資により社会の問題を解決するのが正しい対応ということになる。

緩和縮少に対しては、ワークシェアリングなどシェアリングエコノミーを目指し実現することが可能だったとして、同時に同一価値労働同一賃金や最低賃金の引き上げ、非正規労働者中小零細企業従業員向けの全国的な労働組合などや生存権の保障の充実があれば、市場において資本主義経済における格差などの社会の歪みを正すことができる。

金融緩和政策は拡大と縮少がそのときどきの経済の状態に応じてなされるため、公共政策は公的再分配の重視の時代と、市場での分配機能を促すための規制(前述の同一価値労働同一賃金など)を重視する時代に選択が分かれるので、政治判断が政党の立場だけでなく経済状況によって左右されることを知らなければいけない。


人権

基本的なところでの平等政策が実現していれば社会の至るところで波及が生じて、その他の男女平等などを含む社会のあり方など幅広い制度や慣習に民主主義の下で影響するから、一定の柔軟で平等な社会が実際に存在するようになる可能性がでてくるに違いない。

平等な社会であれば不条理に遭遇する確率が現在より大きく下がり社会における不満の合計は小さくなるが、個々人によって異なる平等に伴っての自由の拡大と縮少のバランスをどうするかにも配慮する必要がでてくるだろう。

平等にするということの意味は、機会を等しくすることと同時に生存権や健康権をすべての人に満たすことであり、それ以外にどうしても存在する格差をどこまで許容するかという課題にも向き会わなければいけない。

どこまで平等にするのかということに対してそれと干渉するのはどこまで自由を許すかということだが、人々が自由に行動するとどうしても発生するのが何らかの人権衝突であり、その定義をどうするかは大きな課題にしても、人権衝突を回避することを前提とした自由は一定の平等とは矛盾しないはずだ。

公平な社会であるべきなのは当然のことで、個々人は皆それぞれ個性があり同じではないのでそれは尊重すべきものだが、生存権という観点からの平等はそれらと干渉するものではないと同時に人権尊重とも矛盾しないので、社会と公共はその実現のために常に怒力する必要がある。

一般論としても学問においても社会権自由権における人権の制約は異なり、自由権を重視して制約を人権衝突にだけ限定するのと、平等のために社会権の経済的制約に限って一定の制限を課すのは、二元的内在外在制約説として理解されている。(※ちなみに人権衝突については公共の福祉で扱うべきかどうかについての見解の違いがある分野なので、その学術的議論に関与するつもりはないのです。)

人権の衝突を回避する範囲での自由が社会システムとして機能していれば個人の自由は許される限度内で最大化でき、生存権や教育、労働条件、社会保障の権利など社会権が十分に保障されていれば、不安なく十分に自由で公平な社会で生きていくことが可能になる。

現代においては憲法国際人権規約によりそれらが保障されているにもかかわらずまだまだ理想が遠い現実は、民主主義や社民主義が浸透していないことがあるからだが、前近代とは異なり国際的にそのような理想を目指す姿勢が普通となっている時代だけに、価値の共有と普及が十分にいきわたること、及び、理想を理解しない利己的な勢力に対して理解を求めることが共に十分ではないので、それらについて何とか人類が漸進的に努力することで皆が幸福になる社会を築いていく必要があるだろう。

そうでなければ人間が本来は利他的な存在であるにもかかわらず、一歩間違えば集団間の利害関係や個々の間にある葛藤の表面化などの制御ができなくなるがために、社会の秩序の維持が難しくなって人々は不幸な時代を生きることになってしまいかねない。

人は生きて生活する限りにおいて小さな幸福を求めるものであり、自ら不幸を願うことなどあり得ないことで、社会と公共はすべての人々の幸福を目指すべきものとして近代以降は設定されている。


幸福とは?

幸福とは何かという問題の原点は重要なものなので、古今東西の賢人が幸福についてどう考えたかを簡単にまとめてみた。

アリストテレスはテオリア(観想)を重視し、ものが機能を十分に発揮している有用さのある状態がアレテーであり、人間の場合は理性的にものを探究している最高善の状態を幸福とした。また倫理的な善により治められた国家で生活する者は幸福であるとも考えた。

ショーペンハウアーは、私たちは苦悩の中に投げ込まれた存在だから、できる限り苦を少なくする生き方は、目先の環境に振り回されるのをやめ、すべては空しいと諦観することで精神的落ち着きを得られる。才知豊かな人は外部のものを必要としないので孤独の中にこそ自由があるとした。

マズローは(幸福のためとは限らないが)欲求5段階説を提唱し、生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求 / 所属と愛の欲求、承認(尊重)の欲求、自己実現の欲求を段階的に満たすことを目的に人は成長するとした。

古代インド思想や原始仏教思想においては、瞑想により認識を得て輪廻や身のまわりの様々な執着からの解脱により苦悩のない平安な自由と平等及び幸福が得られると考えられた。

古代ギリシャエピクロス派は、最高の善は肉体的快楽や苦痛を超えた精神的快楽で徳と不可分であり、そのためには節制に基づくアタラクシア(心の平安)を求めるとした。ストア派の思想はアパテイア(心の平安)によって苦痛から解放されるというもの。古代インド思想の価値感に近いものがある。

スピノザは万物の内在的な原因である神の無限の属性の中の有限の人間が幸福をみいだすためには、自己保存のコナトゥス(衝動)の原理に支配されている共に神の属性である精神と身体が、ものごとを永遠の相の下で見ることで外部の力でしか破壊されない自己の感情を克服し理性により神の直観知を得ることとした。

華厳経は人を包含する世界を、慈悲に基づく他者に対する利他の働きかけがあれば限りなく広大で美しい種々の荘厳の総体すなわち華厳の輝きわたるものの法身とみなし、この広大で美しい世界は自らの理想として信解するそれぞれの人の理想へ自己を投入しようという行いによって幻のごとくに顕現するとする。

ベンサムやミルによる功利主義は、行為の目的を最大多数の人びとに最大の幸福をもたらすことだとする最大多数の最大幸福を提唱している。これは格差の存在をどう扱うかの問題を孕んでいるが、近代が成立していく変動期の不幸な時代に理想を求めるきっかけとなるものだった。

アダム・スミスは、道徳感情論において幸福は平静と享楽にあり平静なしには享楽はありえないが、人間がどんなに利己的なものでもあきらかに人間の本性には別の原理があり、人間は他人の運不運に関心をもち他人の幸福を自分にとって必要なものだと感じると考えて、共感と同情を重視した。

マルクスは、資本主義は物と物との関係による物象化により価値が決まる貨幣がすべての世界をつくるが、資本家のために剰余価値を生むための搾取から労働者が解放された疎外されていない状態が、本来の人のあるべき幸福のかたちとした。

マルクーゼは社会が疎外された禁欲労働とそれに耐え忍ぶための仮の幸福としての文化に分極することを憂い、管理的生産性追求を否定し支配と解放の両義性を懸念しつつも苦役を減らす自動化技術で可処分時間を増やし、ものを産み出す快楽を伴う自由に対象と戯れる遊びとしての人間労働と文化を目指した。

ヘーゲルは、個人的な欲求の満足という意味での幸福観は共同体との一体性を喪失し実際は不幸であるから、幸福を自他の相互承認を介して成り立つ個と全体との調和的統一のうちに見いだした。

ルソーにとって幸福へ至る道には意志・欲求が充足される自由が必要で、欲望に対し能力が不均衡にあるなら欲望を減らし力と意志とを平衡させればよく、同時に自らの弱さを知り反省すれば自他共に愛情を注ぐようになり、自分の意志と市民の意志を一致させて社会に役立った満足感が幸せな生き方となるとした。

「幸福を求めるのではなく幸福に値する者となれ」
カントにとって幸福は個人的目的でしかなく、普通的道徳法則に従う善意志をもつ者が互いを尊重する国際社会を含む理想的共同体を望ましいものとした。

幸福の条件や定義は前述の内容を鑑みると、安全、平安、平静、享楽、理性、知的探究、自己実現、自由、有用感、承認、社会に役立った満足感、共感、調和、尊重、愛情、利他の実現した世界、無欲、普遍といった多様なキーワードが並ぶが、この範囲の賢者とされる人の意見には意外なことに所有に関するものがないようだった。

ここでの幸福の条件に所有がないようだが、所有すらできない場合は別として、十分なものの所有でも幸せになるとは限らないことが示俊されているように感じる。挙げた条件には享楽や自己実現といったものもありマズローはそれを人間の目的としたにしても、すでに自己実現を果たしたかつての偉人たちはそれ自体を幸せの条件とはしなかったようだ。

自己実現を果たした人たちが本当の幸せを追求したときに、おそらく成功とは異なる承認欲求も含まれるのだろうが、それ以上に自分を超えたものもしくは社会全体への視点が生まれてくるのではないか。利地的な行為が社会の多くの問題を解消することに気付く俯瞰的視野が啓かれていったに違いない。

基本的には束縛も不安もなく落ち着いた状況において楽しみを得られることは普通に幸せだし、それよりも志が叶うことにより周りに認められることで得られる幸福感は大きいだろう。

より高次の意識水準に達して見返りなく社会に貢献することで最高の幸せを感じられるならそれ以上のものはないかもしれない。

安定した平和な社会が前提となるが、それを構成する個人がそれぞれに自己実現を叶えながら活躍して同時に社会が機能するようなシステムにするには、近現代が到達した人権思想から生まれた結果の平等と機会の平等が実際にあって機能している社会状況があればいいわけで、実際のところそれが技術的に実現可能な段階になりつつあるのは確かだ。

ではどうしてその実現が遠く感じるのだろう。

人々がそのようなことに無感心であることが大きいが、それは時代が変わって不要になった慣習がいまだに維持されていることによって、それがつくりだした既存の観念という障害が、実現可能な範囲の理想の実現にとって最大の障害となっているからと思われる。そういった観念が様々な組織や集団をつくり出し、社会変化に伴って何らかを失うことを恐れる既得勢力として存在することもあるだろう。

しかし彼らのそういった怖れは、何かわからないものへの疑心暗鬼やあまりに利己的で初歩的な誤解からくる思い込みによるものも含まれているはずなので、そういった誤解をなくす努力も必要になるのではないか。社会がつくり出した偽善のなかにはそのような誤解に基づくものも多いと思われるので、単に誤解であれば解消した方がいいだろう。

いまの技術水準であれば社会不正をなくし公正に分配することが可能なので、本来の理想的あり方から目を背ける別のものによって社会改善を阻害し人々を疎外させる問題ある構造があるならそれは改善したい。

本当の意味での幸福な社会が実現するなら実際は彼らも失うものより得られるものの方が大きくなる可能性があり、そこへの理解が必要なので対立概念にするよりコミュニケーションの対象として時間をかけて話し合うことで、社会が漸進的に良好なものに変化していくことへの期待がもてるのではないか。

賢者とされる人たちの幸福の条件は、安全、平安、平静、享楽、理性、知的探究、自己実現、自由、有用感、承認、社会に役立った満足感、共感、調和、尊重、愛情、利他の実現した世界、無欲、普遍など多様なものだったが、そういった結論に達する道筋をそれぞれの好みに合わせて共有することもあっていいかもしれない。

私たちは生きているのだから幸せを目指していくことが自然であり、すべての人にその権利があるのだから多くの人が幸せになった方が幸福の総和は大きくなる。

同時に多くが幸せな社会のなかに不幸な人がいたらそれは幸せな社会といえるだろうかという視点は、前述の条件を鑑みても人間存在としても必要だろう。

技術革新が進んだ現代においては、かつては不可能に思えたような理想が実現可能な段階にきているのだから、固定概念に縛られることなくオープンかつ柔軟に話し合うことで社会のあり方を徐々に改善してみんなが幸せになれる世界をつくることをあえて否定する必要はないだろう。

幸せな世界とは、社会を構成する個人がそれぞれに自己実現を叶えながら活躍して、同時に社会が公平なかたちで機能するようなシステムが実現しているものだとすれば、誰もがそれを望むはずだし、そういうことが可能な時代になっていることを多くが認識することから一歩がはじまるのだと思う。


認識の問題

それではどうしたらそういったことを多くに認識してもらえるのだろうか?

これに関しては、人にはそれぞれに生育環境による価値形成があるが、伝統的な価値観と人権思想が必ずしも同じものとは限らないことについて、人権思想がより上位の概念なので社会を健全に発展させることを知ってもらい、人々に古くさい固定概念に囚われることなく理想を追うという望ましい姿勢を選んでもらうにはどうしたらいいだろうか、という直接的な言い方にしても同じかもしれない。

どうして人は固定概念に囚われたり、自分にとっても皆にとっても望ましいものを否定したりするのだろう?

ものごとを正しく認識するということはそんなに難しいことだろうか?

そもそも我々がものを認識するとき、実際は何を見て何を根拠にわかったと感じているのだろう?

これについても古今東西の賢者の意見を参照しようと思う。

フッサールは、自分と周りの世界の存在を知っている自然的態度を批判した。人は自らを世界の存在者として認識するにとどまりそれ自体の意味を問題にできないので、関心を抑制し対象へのすべての判断を停止すること(=エポケー)により、意識を純粋な理性機能として認織する態度を提唱した。 

唯識派はすべては識としての心の奥の阿頼耶識が現わした世界にすぎず物事はすべて関係性の上で縁起として現象していることを人が認識しているだけで心の外に事物的存在はないと考える。記憶は阿頼耶識に保存されるとされる。
(※これは科学の未発達な時代に、心の問題及び原子論について上座部が哲学論争をしても矛盾だらけになったために、大乗においては確実にわかる心の中=識だけを捉えるようになった結果だろう。)

フロイト精神分析で精神過程を意識、前意識、無意識(イド=エス) の3層に分け、超自我は3層をまたいで規則・倫理・理想等を自我に伝えるとし、無意識層に抑圧された願望を対話・夢・連想から意識化して神経症を治療した。ユングは無意識の中に遺伝や過去の痕跡のある集合的無意識が存在すると考えた。

カントは人間が認識をすることが可能な現象界に対し、認識の起源となるが不可知である物自体及び普遍的な道徳法則のある英知界が存在するとした。

カントにおいてはアプリオリは経験に先立って認識される概念である。人類共通の経験の仕方である感性の形式として時間及び空間を先験的純粋直観的(アプリオリ的)に認識し、人間に共通の理解の仕方として悟性のカテゴリーがあるとした。
(※悟性のカテゴリーは、分量[総体性/数多性/単一性]、性質[実在性/否定性/制限性]、関係[実体性/因果性/相互性]、様相[可能性/存在性/必然性]に分類される。)

それらによってものごとを認識するので対象が意識を規定するのではなく意識が対象を規定するというコペルニクス的転回をもたらした。

ルーマンは社会をシステムの観点から読み解いた。 世界とは私たちが現実に体験できる事柄だけでなく、それを超えた可能性からなる不確実で複雑なものなので複雑性の縮減のため私たちは意味によって世界を秩序づける。その相互コミュニケーションにより行為やアイデンティティーが成立すると考えた。 

ルーマンは社会システムに生物学における生命システムの固有性を記述するために提唱された概念であるオートポイエーシスを導入している。

システムは複数要素が互いに同一性を保持し相互に依存するループである。
システムは自己の内と外=環境を区分して自己を維持する。
システムは複雑性の縮減を行うことで予期し適合して安定する。
システムは外部環境が存在する場合に意味を持つ。

これらオートポイエーシスの概念を基準にして、生命システムとの対比によって社会の構造を究明した。

我々や我々が所属する社会自体はルーマンのいうオートポイエーシス的な存在として機能している可能性が高い。

それは進歩主義的観点からはやや柔軟性に欠くものかもしれないが、社会の発展は短絡的には難しく、様々な利害関係による複雑な構図にある問題の改善には、正しい目的に則した時間のかかる調整が必要で、それを繰り返して間題の改善を図っていくという大変な労力が求められるため、不屈の努力をする覚悟も必要になるのだろう。

しかし秩序を自動的に安定化するような構造は、それが最初の設計の段階で理想的なものならばともかくも、必ずしもそうではないケースにおいては改革が必要になる。それでは何を基準に合意を形成して社会を発展させる原動力を生み出せばいいのだろうか。

合意を形成するためには異なる立場の人たちと時間をかけて丁寧にコミュニケーションをとらなければならない。そこで用いられる道具は言葉ということになる。

人の意識に上る世界の複雑性を縮減させた意味そのものも言葉によって表現される。

人は言葉によりものごとを認識しているのだからより正しい言葉は、超自我機能によって無意識領域に浸透して人の認識を正していくと思われる。

脳科学の観点においては、人間の認識は最初は非言語的な五感によってもたらされるが、それが脳の中で分類されて後頭連合野・頭頂連合野・側頭連合野に送られて色や形及びその意味や位置など各要素ごとにバラバラに認識されたものが前頭連合野で統合されていわゆる意識が生じる。

五感で認識される外部環境の要素が脳の各連合野で統合されて一定の意味として理解されるが、人は社会的存在であるがためにコミュニケーションをとる必要があり、そのための道具として言語が発明されていった。

人は幼少期に自然と周りから言葉を習得する。

言葉は人が社会の中で周りと交流する課程で高度化したが、地域によって語彙や文法及び活用等に違いがある。

どこで生まれたかにより習得する言語が異なるので、言語は後天的に身につけるものであることがわかるが、言語の構造そのものはもともと人が遺伝的にもつ能力であるとする生成文法という理論がある。

ゆえに成生文法は経験知に先んじて存在する理性的なものを前提としているので、合理論の属性の理論であって経験論的ではないということになるらしい。

言語以前にある認識のあり方も様々な分類が可能と思われるが、たとえば前述のカントは合理論には限界の存在を経験論には科学的客観性を示し両者を止揚したが、認識における先験的な悟性の12のカテゴリーもその一つだろう。

言語もそれ以前にある認識も、人の知性には遺伝子レベルでそのような構造を捉えることが可能になる仕組みがあると思われる。

ちなみに生成文法では、それぞれの言語によって異なる語彙規則、意味規則、音韻規則、それから句構造規則と変形規則からなる統語規則があるが、その前提となる構造が脳に遺伝的に存在しているとされる。

それぞれの言語の句構造規則による構造に語彙を挿入すると言葉における意味の相関関係である深層構造が成立し、それに変形規則を適用すれば文の具体的な形である表層構造ができるとのことらしい。

言葉が後天的に学習されるものだとしても、その認識や理解の前提となる構造は遺伝によるのなら、ミラーニューロンにより学習理解をする人類は基本的に「同じもの」を理解し共有できる可能性があるのだろう。

しかしその「同じもの」が望ましいものであるとは限らないケースもあり得るはずだ。

言葉と文章によって意思の疎通が可能になることで家族やそれを超える集団が発生し、集団同士が衝突していくなかでより大きな社会や国家が成立していったことは自明だが、やがて文字の開発に伴ってそれが時代と共に情報の畜積を生み複雑な制度やルールの適用を可能にした。結果として社会は文明を有して発展していくが、文明はある種の本質において支配を意味するものであって、人々が望む人間本来の自然な状態や皆の幸福を目指すものとは限らない傾向があった。

人間の中には支配性という志向性が存在する。それは社会が大きくなった結果として前近代までは秩序を安定化させるためにそれなりに意味のあるものだったのかもしれないものだが、権威主義的パーソナリティをもつ人間が存在する限りは過度に支配的で危険性を伴う政体が成立しかねない懸念があり、それは近代以降は人類にとっては脅威以外の何ものでもなかった。

産業の発展と資本主義社会の形成に伴って格差と社会矛盾という不条理が拡大し、そのなかで革命やその輸出により民主主義が広まった後の世界においては、支配的統治は望まれないものだったにもかかわらず、何が正しいのか判別できない人々の権威ある者への服従と弱者に対する攻撃性により容易に民主主義が崩れるという恐しい事態が戦争や弾圧を伴うかたちで発生したからだ。

技術発展は生産性を上げる人々を過酷な労働から解放するはずのものだったが、同時に人々を監視したり巧みに支配する道具としても利用可能なものでもあった。

民主主義もマネーの支配する巧みな傀儡と容易になり得るものであり、それを回避するのに一般市民の意識は高いとはいい難いものかもしれず、民主主義を理想的なものとして運用していくには、より多くの努力と工夫が必要と思われる。

人の価値感はその人が生きている間にその人の生活環境と情報環境によってつくられたものであり容易に変化するものではない。しかし、その人が知っている世界より優れた社会システムが存在する可能性を知ることはできるかもしれない。

だからこそ普遍的な正しさを選んで望ましい価値形成を志向すべきで、少なくとも皆が幸福な社会システムを目指すべきであるという意見は、その実現可能性に関する議論を除けば、否定はできないものの一つだ。

ただ人はそれらを認識するだけでは不十分で、認識が価値変容に繋がらなければ意味がないかもしれない。

社会の改善は誰かの実際の行動が伴わなければ実現しないし、行動の前に必要な情報を届けなければ認識すらされず、認織されても価値変容がなければ行動の動機すらないことになってしまう。

それでは認識が価値変容に繋がるためにはどうすればいいのか?

強要はしてはいけないものであることは人権上の常識ではある。人は自由を好む生きものであって故に強制は逆効果になるのでしてはならない。

しかし同時に人は良いものに傾倒する性質があるので、その情報の普遍的価値の良さと実現性を重視することが基本的には正しい対応なのだろう。

人の記憶形成は短期から中期の記憶を司る脳の海馬の近くにあって感情の核である偏頭体に影響されるから、強い感情が伴うと記憶ができやすくなるが、この脳システムはどちらかといえば古い脳である辺縁系に属する動物的なものなので強い不安や恐怖に反応しやすい。

それはリスクを回避するために具わった仕組みであり、理想などの大脳皮質でかたちづくられ判断されるものとは異なるが、しかし理想は悲惨な状況を避けたい人々が生み出すものでもあるのだろうからまったく関係ないとはいい難いのかもしれない。

一度海馬に保存された情報は睡眠中などに整理されて重要なものは大脳皮質の変容というかたちで長期記憶となる。そうやって形作られた大脳の神経ネットワークを使って我々は思考をしているのだから、子どもの頃から得た情報が意図せず無意識に認識や行動に影響する。

価値感とはその人の脳に記憶されているものであり、それは無意識の領域に作用して多くの場合に瞬間的に反応するので、それを意識化しなければ基本的に短期では変化しないが、しかし人は魅力的なものにはすぐに惹かれるし、好ましいと判断したものには影響されるものでもある。

正しい情報にふれる機会が多いと人はそれを長期記憶にしていくものなので、一般人にとってはジャーナリズムと一般メディアの存在が仕事を含む日常生活以外の価値形成につながる情報ということになる。子どもの場合は教育の影響の方が大きいかもしれない。生涯教育を受ける大人もそれは同様だろう。


社会における間接互恵性や効果的利他とその延長にあるシステムについて

人類の普遍的価値の中の一つに利他があるが、(一見すると)自分の利益になるとは限らない利他行為をすることで幸福を感じる傾向が人類に具わっているのは、おそらくその特性が集団や社会全体の利益となり、その結果としてそこで生活する自分にも何らかのかたちで利益になることを、何万年もの人類の歴史のなかで遺伝子のレベルにおいて学習しているからと思われる。

それは1対1での互恵的相互利益を超えた複数者間もしくは社会におけるものであり、廻り廻って皆の利益が大きくなるような間接互恵性という概念があるが、ここでの利他はそれに近い発想になる。

それらの行為が人類に存在するのは人の脳内にあるミラーニューロンが関係している可能性があるが、それだけでは説明できないかもしれない。利他的な方が集団として他より有利になるのは誰でもわかることだが、個人においては人は自己利益を追求するのが自然だから、人や生き物が利他行動をするのはミラーニューロンが共感を伴うかたちで作用し、誰かの喜びを自分のことのように感じられるからではないか。

動物行動学の範囲において互恵的な利他行動が生物の間で存在することが知られている。集団で洞窟に暮らすチスイコウモリは夜間にほ乳類などの血を吸うが、2割程度は全く血を吸うことができないため、血を十分に吸った個体は飢えた仲間に血を分け与える。

それによって受益者の利益が行為者の損益を上回る。しかし返礼をしない個体は群れから追い出されるらしく、この利他行動や排他行為はあたかも人間集団における群集心理かのようにみえるが、あくまで動物においての行動であり、より高度な知性を有する人間がつくる社会では人権思想に基づいたより寛容で包摂的な対応が望まれるだろう。

人の脳の機能においてだが、視床下部で合成され下垂体後葉から分泌されるオキシトシンという一般に幸せホルモンといわれる物質がある。幸せホルモンだとか愛情ホルモンといわれるが、身内や味方など同じグループに所属する者への共感性を高める効果があるとのことだが、同時に別のグループや身内ではない他者への排他性も強める傾向があるようだといわれている。

同胞への愛が外部への排他性につながる傾向があるという構図は実際の社会や集団ではあり得ることなので、必ずしも共感的であることが理想的な利他社会をつくるとは限らず、状況によっては集団を内輪だけにしか共感しない支配的で排他的なものにしかねないことは理解できる。

それは過去の人類が陥った数多の悲劇を生み出すことになった出来事の背景に必ずといっていいほどに存在する問題でもあり、戦争や内戦、場合によっては同じ集団内のグループ間における闘争などがあり得るが、その結果として人類は悲劇を経験し、その反省として人権思想を獲得するに至ったという歴史的経緯があることは多くの現代人と共有する事実だ。

故に皆か幸せになるためには、組織愛と排他性がつくり出す問題に対する懸念が払拭される構図を見い出さなくてはいけない。情緒的に間題に対処するよりは理性的に問題を扱った方が、皆が幸せな社会をつくるという命題についてはこの文脈では望ましい結果をもたらすかもしれない。

単純な発想を超えた深い思念なしには人類は同じ失敗を繰り返しかねないだろう。

直接の関係だけではない複合的で複雑な境界を超えた社会関係において思考しなけれはいけない。

たとえば効果的利他主義という「根拠と理性を使って、どうすれば他人のためになるかを考え、それに基づいて行動する」ことを提唱する社会的運動がある。

そういった「苦しみを減らす」ことを目的にするなど、広範囲な観点からのグローバルな利益に対する平等な配慮を重視してなされる現代のヒューマニズム的な慈善活動は、世界を改善する可能性があるだろう。ODAやSDG'sなども同様と思われる。

直接の関係とは限らないから結果がすぐにみえないために、総合的に考えた正しさと信じて理念的に行動する信念が求められるかもしれないが、正しのことをする喜びがそれを超えるのではないか。

間接互恵性に関しては、日本語で感謝の気持ちを表す「お陰さま」という表現でも理解できるが、このお陰さまという言葉は偉大な何かの陰でその庇護を受ける意から、みえないところで誰かから受ける恩恵を意識して使われる言葉で、廻り廻ってのみえない互恵性があるということを一般でも理解されているということになる。

直接の行為ではないから、みえない調整が自然とされることが意識される。アダム・スミスの「神の見えざる手」に近いものかもしれない。

ただ経済における神の見えざる手が自由放任市場において十分に機能しないことから、先進諸国が社会的市場経済の立場をとっていることを考えると、間接互恵性や効果的利他と同様のことを社会民主主義もしくはリベラリズムに則って、「公共」の項で書いたように、政府がそれを規制や公共政策を使って代替的にしていることがわかる。

神の見えざる手は各個人がそれぞれ自己の利益を追求すれば社会全体において適切な資源配分が達成されるはずが、そうではないのは情報の非対称性(情報格差)の問題や機会平等及び潜在能カに対する平等、それから各々における道徳が十分ではないことがあるだろうが、間接互恵性や効果的利他においてはそれを意識的に教育するシステムの不足があるのではないか。

効果的利他主義においての利他だが、利他という言葉には自分を犠牲にして他人に利益を与えるという意味があるものの、これは実際の行動を考慮すると余裕のある人が弱者である他者に配慮してその他者の利益となるように図ることすることを意味していると考えた方が、救済により格差を是正し社会を公正にしていくため、本質的には利他という言葉の正しい理解といえるかもしれない。

日本語での利他は仏教用語としてのものから理解するのが正しいと思うが、それは元を辿れば他力の意味でもあり、人々に功徳・利益を施して救済する阿弥陀仏の救いの働きをいう。

この分野においては自利がそのまま利他となり利他がそのまま自利となる自利利他円満という概念があり、この言葉は互恵的ではあっても一般的概念における一対一の関係での互恵とは異なり、世の中全体で自利利他が機能する理想を表現しているため前述の文脈とも一致する。

ある意味において間接互恵性にはある種の互恵的利己性も伴わなければ正しいことを主張する者が最大化しない懸念もあるが、聖人賢者しか利他的存在がいないのでは世の中へのいい概念の影響が小さくなってしまいかねない。

現代の社会は様々な工夫を重ねて間接互恵性的で自利利他円満のように機能する公共をつくり出してきた。

政府による教育、医療、福祉および生活扶助は社会的利他ともいえるものだが、これは皆がその恩恵を受けるだけでなく、それがない社会に比べて結果的に廻り廻って社会を安定化させ進歩、発展させることになる。一般的には政府の税制による再分配がその役割を担う。

再分配により政府等のサービスが受けられ、それによって社会の人権状況が改善するのだが、経済という観点においてもサービスの増加に伴って流通する貨幣を増やせば経済の拡大に繋がり、豊かな社会を生み出すことができる。

経済はモノの流通だけでなくサービスの拡大によっても大きくなるが、社会が発展するほどに生活必需品や贅沢品といったモノの比率よりサービスが大きくなる傾向がある。サービスのかなりのところを教育医療福祉といった公的な公共政策が占めていることから考えても、それが再分配政策であることを考えても、効率が過度に悪くない限りにおいて大きな政府は社会も経済も発展させる。

大きな政府か小さな政府か、社会保障制度の整備を通じて国民の生活の安定を図る福祉国家か、安全保障や治安維持など最小限の夜警国家か、といった論争は昔からあるが、欧州のような大きな政府による無償(無料)の教育医療福祉がある社会は安全で安心できる安定モデルだが、米国や日本のようなやや小さな政府は格差が大きく生まれた環境次第で格差が固定化された状能が継続するので、社会が若いうちはいいがどこかで社会は衰退していくことになってしまう。

米国は人材を外部から導入できるし覇権を握っている間はものごとを有利に動かせるからいいが、日本はそういう状況にない。

格差により機会平等と潜在能力の平等が十分でなければ、国内の才能が十分に発揮されなくなってしまう。

また規制のあり方が公平公正のためではない場合、要するに民間組織が公的機関へ働きかけて自らに都合のいい規制をつくる活動であるレントシーキング(rent=超過利潤 seeking=得る)がある場合に社会の格差が固定し進歩が止まるため、新しいアイデアや才能が活用できなくなる懸念がある。

間接互恵性における利他的行為が十分にある社会ならレントシーキングのような抜け駆けには抑制的になるだろうが、民間による公へのアクセスを監視するシステムの導入の方が効果的だろう。

小さな政府か大きな政府かという文脈において、自然状態の人間が闘争的か利他的かという哲学論争的問題があるが、自然環境に恵まれるかどうかも人の集団の性質を左右すると思われる。資源が限られた環境においては人る闘争的になるだろうけれど、豊かな自然の恩恵を受けられる状況であれば人の利他的行動は増えるはずなので、科学技術と社会システムが発達した現代においては、十分なモノとサービスの供給が可能になっていくので、実際には既に利他的社会が実現可能な段階にきているかもしれない。

そもそも自然状態の人間は利己的であるか利他的であるかという問題だが、この2つの正反対の要素は社会的生き物である人間にとっては車の両輸のように生きていくためには不可欠のものであり、一個人としての利己性と社会的存在としての人間における利他性はどちらも自然状態の人間の本質なのではないか。

認識論や現代文明下における民主主義のあり方への懸念および利他についてなどの考察をしているが、人類の幸福を追求し実現するには、社会のシステムを改善するだけで比較的容易にそれが実現可能かもしれないと考えられるような科学技術の存在する時代になってきているのは確かなことではないか。

同時に科学技術への懸念も多いことを事実であるけれど、しかしそれは情報公開や民主主義により克服できると信じる。


民主主義で実現できるのか?

それ故に民主主義の後退は問題であり、人類の数千年の文明の結果として得られたシステムに不完全なところがあっても、我々はそれを改善して進歩させることが可能なはずなので、過去の歴史的失敗でもある衆愚政治や独裁的民主も人類は必ず乗り越えていくことができると信じるべきだろう。

そのために最も必要な政治を背景とする社会的基盤は公平公正で理想的な教育環境と独立的かつ民主的なジャーナリズムということになる。

それが民主的な政治をつくりだすためには必須であり、それなしにはどこかで民主主義は失われていってしまう可能性があるからだ。

人間の知識や価値観は環境と情報に依存するので正しい情報入力が必要であり、それが多様で自由選択が可能なものであることには十分に配慮しつつ、理念的ではない政治的存在による恣意的な誘導がないように常に客観的な検証がなされて、問題があれば改善される環境がつくられなければいけない。

それらが十分に機能していない場合には不完全な民主主義という状況ができるのだろうが、その不完全性の健全化と改善は時間をかければ可能だろうから、どのような状況でもなるべく理念的に対応できることが望ましい。

いろいろな価値観が並存する時代だけに、それぞれの理想や希望が異なるなかでの合意形成等、難しい課題をクリアしなければいけない局面ばかりの民主主義というシステムだが、それでも他の政治システムに比べれば問題が小さく抑制的で安定するはずで、この場合の安定した民主主義システムとはルソーの一般意志に基づいたものであって、アリストテレスの時代の語義とはやや異なる。

ギリシャ時代の民主主義は衆愚政治に移行するものと懸念されるに至っているが、民主の語義も現在とはやや範囲が異なるようだ。アリストテレスは選ばれたエリート的代表と民主制の中庸を志して、幸福のためには損得より正しさに重点をおいた徳の政治が望ましいとした。

現代においてもデマや誤報などにより間違った方向への誘導があった場合に、それが糾されなければ人々が認識する情報が歪んで、その結果として正しくない選択肢を選んでしまう懸念もあるだろう。また誤解や誤読ににより正しい情報が歪められてしまうこともある。

それらを防ぐためには開かれて透明な政府とそれを公正な立場で批判するジャーナリズム及び十分に啓蒙された一般市民が必要で、そのために十分に教育された教員による小人数学級での妥当性の高い教育方針に基づいた公平な教育が必要になる。

多様な市民の希望から普遍的で実現可能な埋想を優先し、公正なシンクタンク的組織による十分に検討可能な情報に基づいて、市民から選ばれた代表が透明かつ公正な場で議論して決定するのが民主主義だが、人は不正や癒着をする懸念のある存在なので、現代の民主主義における野党機能は必要で、同時に与党政府が不十分だったときに、流血の改命を避けて権力を交代できる仕組=投票民主制は必須となる。

技術革新が著しい現代だけに既存の手法に限らない多様な選択肢があることは明らかで、不正さえ防止できればデジタル的手法を用いることにより投票率を上げられるなど民意をより正確に捉えることが可能になっており、それに基づいた様々な民主的手法を選ぶ余地は多分にあるだろう。

ただ単に投票等で民意を問うだけでは一歩間違えれば衆愚政治に陥る懸念もあり得るので、理念的な観点から創意工夫が十分になされた何らかのアルゴリズムと透明な議論によって問題のない公共政策を選定して実行するシステムが将来的にはあり得てもおかしくはないのかもしれない。

アルゴリズムといっても簡単ではないだろうが、たとえば人工知能が高度な言語理解ができるのならば、政治哲学の賢人たちの残した知見から開かれた場で議論して時代に合わないものを除外し現代に則した内容をインプットしたら、大量のデータにその理念を正しく反映させ導き出した見解を前提にして、それを民主主義のなかで活用しての政治ができるかもしれない。

これはあくまで推定の範囲のはなしで、もしそのようなことが実現したとしても、政治プロセスは透明で開かれた民主主義により時間をかけて実現すべきものであって、その目的が全員の幸せを実現することであれば反対する者は基本的にいないはずなので、漸進的に社会は改善していくのではないだろうか。

幸せを願わない人などいないという前提が正しいかどうかという疑問もあるかもしれないが、何かによって絶望している人も最初からそうだったということなどあり得ず、人生のどこかで躓いたとしても人は本質的に幸せを願うはずであり、一度しかない人生だけにその想いは誰でも強いのではないだろうか?

そもそもすべての人間は生まれながらに自由かつ平等で幸福を追求する権利をもつことが前提になっているのが近代以降の民主国家であり、国や公共はその実現のために努力をしなければいけないことは憲法にも謳われている。

そういった近代以降の社会が百年以上続いているのに人権や幸福追求権などその理想の実現がまだ遠いのは、民主主義と立憲主義が十分に機能していないからであり、繰り返しになるけれど、既得権による問題もあるが教育とジャーナリズムが十分に人々を啓蒙できていないことが大きな原因に思える。

立憲主義という立場は近代国家全般が採用しているもので、憲法に幸福追求権が謳われている国なら権力はそれを実現しなければいけないし、国民はそれを要求する権利があるのだから、それを知る人は周りにそのことを伝えていくべきで、それが啓蒙というものなのだろう。