表現の自由、自由権、社会権、生存権、進歩主義、多文化主義、機会平等、男女平等、公平公正な分配、弱者とマイノリティへの慈悲と救済および支援。能力主義は公正な倫理観が前提となりそれに加えて生存権を重視しての結果の平等の必要性を社会は理解すべきではないか?

口分田って現代ならベーシックインカムですよね

あるものとそれを否定する何かがあってそれぞれが相互に関係ある場合に、それにより干渉があるかどうか、あれば弁証法による止揚の状況ができるか、できなければ消えるのかどうか、そういうことが繰り返されてものごとが流動的に変化しつつ存在する世界において、懸命に生きるのが人であるという事実。

啓蒙などではないし、合理論でも経験論でもない。なぜなら演繹による結果と帰納法による結果が異なれば、どちらかに問題があるのだから、それが一致する構図を客観的に見つけ出せばいいからで、それを繰り返すことで真実が浮き上がることは確かで、そこにしか真実などないのではないかということ。

かつて理想主義は牧歌的な全体主義であった時代が長くあった。しかし人類が民主主義を経験して百年程度の間に、ナチススターリンによる独裁を経験して、全体主義というものの危険性とダイバーシティの重要性の理解が一般化している。

現在の常識としては全体主義が悪であることは独裁と管理社会への嫌悪感から当然のものとなっている。もしかしたらかつての理想主義が全体主義であったことを理解できない人もいるのではないかという時代になっているのではないか。

人類が情報化するより前の農村的かつ牧歌的な社会では情報は比較的僅かしかなく、農作業など家族や共同体が同じ行為と知識を共有しているのが当然だった。そういう時代に理想を描けば、皆が一緒に共感する価値共有のなかでの多幸感が続くような、毎日が祭りで共に共鳴するような幸福を想定しただろう。

そういう時代においての社会の不条理は、基本的には貧困と無知に問題があるとされ、貧困が解消され皆が教育を受ければ不条理は解消されると考えることが一般的だっただろうし、その時代の識者もそれに希望を懐いて理想を模索したケースがあったはずだ。

しかし、豊かになっても人の心が豊かになるとは限らず、不正をはたらく大商人や豊かな役人などと無垢だったはずの民との差が小さくなっただけでしかなかった。もちろんどんな時代にも無垢で純粋な理想主義者は一定程度は存在するだろうが、人類は別の不条理問題に向き合う必要が生じただけだった。

もちろん現在以前にも理想を追求した偉人は多くいるし、政治体としてもギリシャアテネやローマ共和制、それから隋や唐および日本の律令時代の口分田など、民主主義や社会主義に近い当時としての理想を実現した時代も僅かにあった。

しかしアテネ奴隷制に支えられていたし、ローマの民会の権限は少なく期間も短かった。口分田に関しては日中共にやがて制度が崩れて荘園など大地主の時代にシフトしている。しかし理想を実現した時代の大国は周辺に大きな影響を残しているのは確かだ。

律令時代の日本の口分田では後に墾田永年私財法により制度が崩れて荘園が生まれているが、口分田(班田)は二百数十年続いていたようだ。教科書では口分田という平等制度よりも、墾田永年私財法のような資本主義的なものを評価するかのようにみえるものだったが、我々はそういう教育を受けている。世界に冠たる制度の評価が残念ではある。

そういう保守支配の日本の社会だが、民主主義にありながら戦前にすらあった政権交代の機能が現在は低く、アジアでは民主主義の指導的立場にあったはずが、近隣の韓国や台湾の方が政権交代ができる政治になって久しい。日本社会の保守性の問題は深刻なのだろうか。

戦前も含めると百三十年以上の民主主義の歴史がある日本だが、戦中の翼賛体制は別にしても、これだけ民主主義が続いていながら、何故に社会や市民は民主主義国らしくならないのだろうか。空気を読むという表現があるが、それは独裁国家における民のあり方に近いだろうから不可解だ。

現在における理想主義はいまだに社会主義だろうし社会民主主義と表現した方が一般には望ましいのかもしれないが、封建時代には民主主義すら理想主義だった。それがありながら、自ら民主主義者たろうとしない社会を日本の権力は誘導しているようだが、これに異議を唱える声はもっと多くてもいいはずではないか。

ちなみにここでいう社会主義は原義どおりに平等主義であり資本家による資本の独占を再分配など何らかのかたちで平等に社会に還元することで、その実現に必要な政治はある種の民主主義であって独裁ではあり得ないものだから、社会民主主義という言葉が誤解を生みにくいと考えたということになる。

故に現在における理想主義は多様性を重視しながらの社会民主主義であり、これは実現が可能のものだから、かつて民主主義も社会主義も夢物語だった時代からすれば半ば実現していることもあり、やがて社会は現在からみれば理想的なものに進歩していくに違いない。

すくなくとも民主的な時代を百年も経験してきた社会は、誰かの一方的な理想の押し付けのような全体主義ではなく、多様性を重視して個人が自由を謳歌できることが前提となっての自由権と生活保障がある社会権が両立した制度を模索するだろうし、それが可能になる技術が存在する時代になりつつある。

ここまでは日本や中国の歴史に、口分田という全員に土地を公平に分配する古代の社会主義があるのに、それを重視する教育がないがという疑問につながる。

なぜにその時代にそれが可能だったかを知りたくて、口分田という古代の社会主義ができた時代の思想を調べていたら唯識という古代ギリシャ哲学に似た認識論から発展した華厳思想の影響があることを知った。

これは禅が不立文字を謳う前にあった思想で、認識論とも社会思想とも理解できる応用の利く理論が展開されている。

 

 

 

口分田の時代にあった仏教哲学とは何か

瞑想のようなものをすると意識の深遠から心の機能が見えるようになるというが、だからといって意識の世界がすべてで外の世界は虚妄であるということにはならないだろうが、そう感じる世界が存在するらしい。彼らには解脱や禅定がすべてなのだろうが、結果として利他的になるならいいのかもしれない。

すべてが原子などの細部から構成されておりそれが変化するからといって、実体が存在しないなんていうことはあり得ないが、それを主張する人というのは認識するうえで名称としての実体は認めつつ、その存在自体は無常で関係性だけがあり、変わらない実体などないということらしい。

すべてが部分の集合でしかなく人の実在はないというのは瞑想の世界でしかないが、時間を俯瞰すれば人はいつも同じではないのは確かなので、その範囲でしか空の思想を捉えることはできないし、それなら矛盾なく正しいことになるけれど、空だからといって人の実在まで否定するのは時代の不幸だったのか?

解脱という状態では、見る自分と見られる自分の違いがない絶対智に達するらしいが、あまりに瞑想をしすぎて脳を酸欠にした結果、脳の自他を区別する機能が低下するのではないか。それで欲や煩悩が消えて平等性や利他性が高まるのが事実なら支持もするし純粋性は尊いが、世の中に卑怯な人がいるのを回避できるのだろうかという疑問も生じる。

しかし多くの情報で混乱するなかで、情報を整理し重要なものを上手く優先順位付けして、すべきことを明瞭にすることについて、それを思考するのではなく瞑想により自然に意識(=脳のネットワークの機能)がそれらをしてくれるようなことが実際に意識機能に存在するなら、それは何なのだろうか。

脳科学の知見によると、人が創造的なひらめきを得るのは思考をしているときではなく、脳の活動が静まってボーっとしているときらしいが、そういった創造的な脳の状態を自らつくりだすことが瞑想によって可能なのかもしれない。雑念と煩悩をなくしたときにいい結果がもたらされるのは自然なことだろう。

人は五感を通じてものごとを認識し、それを意識によって概念や言葉として理解するのだけれど、我々が認識しているどんな論理も社会すらもすべて我々の意識(脳)が捉えているだけなので、その機能と構造を理解することを世界を理解することだと哲学は認識しても、しかし個々人の違いはそこにはない。

ものごとには何らかの関係性があってそれが常に変化しているのは確かだろうが、それを体感するために深い瞑想をしてすべてが融合する境地を経験したとしても、それは個人の内部で生じている現象であり、個人は個人として独立しているから問題が生じないのであって、他者と融合しているのではない。

瞑想などにより自他の区別が緩くなって融合的な意識が高まったとして、それがことば通りの自他の区別がつかないでは困るが、高次の知性が機能して他者の立場を理解したり共感的になって、それにより人間的に成長したり、社会に貢献するようになるなら、瞑想にも大きな意義があるのだろう。

大乗思想は中観派唯識派に分かれるが、それとは別に否定の哲学である般若経と肯定の哲学である華厳経があり、現実的な法華経や不立文字の禅宗、浄土系、密教などがほかにもある。これらはインド哲学仏陀を経て発展したものだが、基本的には空の思想になる。

弥勒から発展した唯識派だが、それ以前の思想が原子をどう考えるかを議論するなか、外界にある原子のあり方を議論するよりも、それを認識している我々が捉えているものが何かを思考し、外界は実在の証明が不可能だったので考えないという立場をとった。

大乗の唯識においては、上座部説一切有部における五感を経て得た情報は流れるように存在するだけであるという解釈に対して、それでは何をもって認識を意味のあるものとして捉えるのかという疑問から、過去の認識が想起できる理由がそれを蔵する阿頼耶識があるからであるとして問題視している。

過去に得た情報は種子として阿頼耶識に記録され、何かのきっかけで末那識を経て意識の表層に流れ出るのだが、それが善であったり悪であったりするのはその瞬間の何かが作用して種子が出てくるからで、悪であれば煩悩であり、それら煩悩を滅するにはどうすればいいかが議論される。

輪廻といえば一般論では生まれ変わりを意味するが、これは仏教以前のインド思想であり、唯識においては種子が阿頼耶識から次々と流れ出て思考や認識を作り出していくことであって、これらは識であり空であるから、それに気付くことで煩悩からの解脱ができる。これは誤解された輪廻における死ではない。

唯識の時代に華厳も非常に盛んに研究されていたが、原典はほとんどが漢訳でしか残っていない。認識論としての唯識に比べて、総合的で肯定的な華厳は大乗仏教思想の最高峰であり、過去のものとなっているが現在の多くの宗派に影響している。華厳の認識論は多様で柔軟なので様々に応用が利くものだろう。

般若経中観派上座部等に対する全否定から空の理論を生んだが、唯識派も既存の価値観を批判して認識論を形成している。華厳はそれらを総合的に理論化した美しい経典だが難解で、日中共に不立文字の禅宗に影響している。瞑想で無分別の主客の対立を超えた真理を得るのが禅定だ。

華厳に縁起相由というものがある。そのなかにある諸縁各異という概念は、縁起している事物はそれぞれが自性と個性を保ち独立しているということで、互遍相資という概念は、個性は全体のなかの一つであり社会連帯性をいう。倶存無礙という概念はその両方を備えていること。これは華厳の縁起相由の一部に過ぎないが、人権が自由権社会権からなるのに似ている。

華厳のなかに一即多多即一というものがある。one for all, all for one のような言葉だが、あるものの一部がそれぞれ独立しながらも次々と全体と繋がっているが同時に全体も一部と繋がりつつ変化するという認識論であり人がものを捉える過程なのでニューロンの連動の変化を推定したものかもしれない。

一即多多即一は一見すると後件肯定や前後即因果の誤謬にみえる構図の懸念もあるが、ある意味においては人の認識のありかた次第であり、正思惟できるかが重要だろう。これを私的に解釈すると、社会的応用においてより複雑な帰納法的な観察による構図とすることで、演繹と帰納止揚できるのではないか。

 

  仮説(規則?←観察): 帰納は観察と仮説により規則を規定。

  前提(規則→結論?): 演繹は規則から結論を規定するが前提条件が限定される。

  前提?(規則⇔結論): 規則と結論から仮説形成(アブダクション)することは前提条件を推定する。

 

もしかしたらこれらを複合した認識を意味するかもしれない。

一即多多即一というものは部分と全体が相互に関係し続けて相即するということ。学術的には異論があるかもしれないけれど、構図としてはホーリズム的な全体理解の手法に近いだろうし、部分がすべてでも全体がすべてでもないバランスのいい理解は判断を誤り難くし柔軟なので政治的全体主義とも異なる。

一即多多即一は捉え方によってはトップ(一)が多くの市民(多)の代表であり市民はリーダーを選ぶという民主主義の発想でも捉えることが可能だ。空の思想における性起(すべての人に仏性がある)は人権思想だしすべての人に投票権があるという民主的権利思想としても理解可能ではないか。

一即多多即一が相即して円融するという表現は関係性の融和を意味するものでもあるが、分斉境位というすべてが融和した世界においてもそれぞれが自律的に独立して存在しているという概念が前提になっており、ホーリズムとも矛盾しないし、民主主義とも社会自由主義社民主義とも矛盾しないものに思う。

一即多多即一は応用しやすい構図をもち、経済における需要と供給の動きにも社会権を充たすための再分配の構図にもつかえるのではないかと感じた。市民が資本と政治の癒着に疎外されて民主主義ができていない現状においても、分斉鏡位という個の独立を重視する価値観は、問題ある癒着の改善を要求する。

仏教哲学では時間そのものはないということになっているようだが、それは諸行無常という変化の概念があるからで、唯識という認識論においては記憶の作用とそれによる認識の照らし合わせを考慮するが、時間とは人の記憶と認識によってできるものに過ぎないのだろう。それを計るのも人の認識である。

肯定的な華厳経に対し否定的な般若経といわれる。華厳経は総合的で認識における縁起の法則を綺麗に整理している。仏教なので時間に対して現在過去未来(三世=十世)を同時に捉えるが、一即多多即一で無常も表現されている。無常は変化だが唯識の変化に伴う阿頼耶識に蔵す記憶は時間を理解できる。

般若心教の色即是空空即是色受想行識亦復如是。これは唯識に近いが、五蘊(色受想行識)の認識過程はすべて空であるということ。それが意味するのは全てが仮であり空間軸において常に変化する瞬間的なものは実は実体はなく空であり識でしかないということだが、そのことに気付くと執着から解放される。

これらの大乗哲学はデリダの思想に共通するものがあるように思う。ものが空間的な差異と時間的な遅延により認識の過程で少しずつ齟齬が生じることを「差延」として、それにより物事の矛盾や無意識下にあるものを浮き上がらせることで「脱構築」がされるとしたことは、大乗と似た構図をもつのではないか。

空間的な差異と時間的な遅延から差延という造語がつくられたわけだが、脱構築により既存の価値を解体し再構築する意志と、諸行無常という変化(記憶があるから外の時系列変化を認識)と諸法無我という縁起を意味する空間関係があって、煩悩を滅し社会を清浄化する発想は、時代の違いを超えるものがある。

認識論としての空の思想だが、社会科学として応用することも可能に思えるものの、それがデリダの主張する他者との関係で同一がずれ続ける差延や、脱構築によって無意識が浮き上がるということを超えて、現代では社会の呪縛を振り解くより進歩的な発想で扱うことができるのではないか。

権力というものは固着すると腐敗と制度疲労でダメになるが、それに関しては無常観が金属疲労を回避できる発想になるだろう。スクラップアンドビルドの際にも急進的ではない進歩性を発揮して、関係性の理解が破綻なき再生への志向性になる可能性がある。

空の思想の無常は、社会が常に進歩することとしても理解できるし、関係性の問題も柔軟な未来の組織論として考えることも可能かもしれない。一即多他即一的空観も演繹法帰納法による弁証法として活用できると感じる。何よりホーリズム的な総合性に優れるように思う。

例えば時代や状況変化に際して、組織や関係性を見直すにあたって、過去なら自然に崩れて新たなものが生まれるのだろうけれど、これからはもしかしたら意識的に改善し不要な部門も切り捨てることなく救済的な人材の再活用などもあるべきで、そういう理念として理解することも可能だろう。

関係性が常に変化している価値観も、アナログ時代の組織では規制を減らして自由にすることでしかできないものだが、デジタルの時代は仕組みとして柔軟に取り入れることが可能かもしれず、それが機能するものとして最適な関係性を構築し修正し構築することができるような新たな発想もあるかもしれない。

華厳が肯定的な思想であるがために、肯定的に社会のあり方との関連を想定しているが、大乗教の本質は否定にあり否定から肯定を浮き上がらせる作用が十分になされたところに華厳があるということを忘れてはならない。

同時に大乗哲学は認識論であって、人がものをどう捉えているかというものだから人次第のところがあり、識における無常と空を理解して強欲の無意味を知ることが重要で、上述の内容は煩悩から離れた正思惟など八正道を極めた人物が思考した場合に正しく理解判断ができるという前提が求められるということになる。
 

 

 

  ---------------------

 

 

 

余談

僕の中道左派の価値観の両隣には左派のマルクス思想と中道の仏教哲学がある。それらは実は厳密性を除外して基本的な点や構造を捉える限りにおいては非常に相性がいい。


試しにそれらの時代を超えた類似性について要所だけのリストをつくってみた。


西洋思想やマルクスと仏教哲学の相性の良さ(厳密性を除く基本的な点や構造から)
弁証法       三諦偈
アウフヘーベン   中諦、空
疎外論       四苦八苦
認知行動療法    八正道
啓蒙        悪人正機
人権、民主     覚性、仏性(全ての人が持つ仏としての本質)


無知の知      無明
永劫回帰      輪廻転生
認識論       五蘊五蘊仮和合
観念論、現象学   唯識
実存、自我     末那識
無意識       阿頼耶識
定言命法、実践理性 現量、諸悪莫作+衆善奉行
集合無意識     諸法無我


限界状況      難行苦行からの悟り
対話的理性     他力、加持
アンガージュマン  化身、加持
脱構築       身心脱落
自由        諸行無常涅槃寂静、身心脱落
リゾーム      縁起、諸法無我
マルチチュード   縁起、諸法無我


これらはあくまで僕の主観的な理解から選定したので、僕が好奇心で調べていく過程で拾ったことばたちであり、学術的なものではないかもしれないけれど、なかなか興味深いもので、時代の違いもあって厳密性を捉えず俯瞰して本質や核心で理解しなければ分かってもらえないかもしれないにしても、関心があれば調べてみてください。

結構おもしろいものです。