我々が認識している現実とは何なのでしょうか。人間にとって外部情報は五感を認識する器官を介して得られるものでしかなく、実はそれを直接的に捉えることはできません。
我々は五感から得た情報を、我々が生きていくために必要なそれぞれの特定の種類ごとに一度ばらばらに分解してから、そのそれぞれを最も原初的な意識が認識できる簡単な情報ごとにそれぞれまとめて、初歩的な概念として解釈可能にしたあとに、それを元の総合情報に照らし合わせて再形成することで、光や位置関係にすぎない情報を具体的で意味のあるものとして理解していると考えられますが、その際に過去の経験に照らし合わせて元の情報にはないありありとした感情や感覚を付け足すようです。
そうしてできた概念情報が人にとっては最初の認識となって、それを先験的な構造と環境からの記憶によりできた特定の個人的および社会的な認識規則のなかで捉えて様々に解釈することが、我々が思考として経験している行為なのです。そういった通常では捉えられない微分的な認識ができると、現実の解釈である積分的な世界とは異なる、ものごとの原初的かつ本質的で生々しい世界を垣間見ることがあるようです。
それは非常にある意味では日常の社会的な空間から離れた孤独で静かな時間のなかでなされる、宗教的とも瞑想的ともいえる精神的状態においてはじめて可能になる認識なのでしょうけれど、主人公の男性はそのような日常を平素の日々として生きているから、それが自然のものとして経験できたのではないかと感じられる設定世界に暮らしているのです。
それに対して女性の方はそのような男性の価値観に戸惑う自他の違いから得られる社会性を相手の男性との関係によって日常的に得ているため、比較的普通の感性の状況にいることが想定されますが、男性の方は自分の思うままの世界に生きているがためにより主観的でこの世界設定の単純な環境においては、相手を共感を通して自分の主観と相手の主観が同じなので世界が存在することが認識できるという心的世界は存在しても、コミュニケーションによる社会性の獲得は独善性のあるものになり、そういう意味においては主観とは異なる客観的世界を認識することが十分にできないという状態下に生きている可能性があって、外部世界の存在を認識しつつもより唯心論的な状況にあるようです。
そういった男性に対する女性は女性らしい優しさと柔軟性からコミュニケーションをとっているようですが、それ故に男性の考える世界のあり方を理解しつつも、現実と心的意識の違いについてのものと心を別に捉える唯物唯心的な二元論という、21世紀前半の現代社会における普通の人と同様の一般的な認識をしているように思えます。
人の認識世界は、唯心論的なすべては心がつくり出したものであるというある種の真実のあり方が正しいようでも、実際の唯心論および唯識論では外部の世界の存在を否定するのでそういう意味では、作中の台詞から想定できるような、外部世界は存在するがそれは人からすれば心がつくりだしたものに過ぎないという捉え方は、外部世界の反映としての認識があり故に心がすべてではないので、心の状態によって観念とことばを使うことで認識世界を変えてしまうような唯心論ではなく、実質的には二元論と思われます。それは主人公たちがこの比喩のSF物語として作中において外部世界が実際に存在することを知るために一歩を踏み出すことからも分かると思います。
彼らがしたことは、理系的論理世界の正しさと芸術的非言語性における総合理解の融合からくる弁証法的な志向性によるという隠喩が物語りの底流にあることまで理解してもらえると、作者としてはありがたいばかりです。