表現の自由、自由権、社会権、生存権、進歩主義、多文化主義、機会平等、男女平等、公平公正な分配、弱者とマイノリティへの慈悲と救済および支援。能力主義は公正な倫理観が前提となりそれに加えて生存権を重視しての結果の平等の必要性を社会は理解すべきではないか?

価格と価値およびその剰余についての気付き

ちょっとしたひらめきというか気付きがあったのでメモしたい。

 

 労働価値という概念ではモノと金が社会の関係性のなかで交換されていく過程でさまざまな社会関係を経るという物象化において人が資本に疎外される様をマルクスは哲学した。ケインズはそれを需要供給曲線としてシンプルに法則化しているがそこに社会関係と格差問題の視点は介在しない。弁証法すべきか。

 

価格と価値およびその剰余について

商品の価格は一般の経済学では需要供給曲線によって決まるとされている。社会経済学では使用価値と交換価値があるとされ剰余価値が付随している。どちらの経済学も関係なく、労働者の観点から価格と剰余価値を見出すことはできないだろうか?

個人的な発想だが、その社会で健康的で文化的な生活をするために必要な最低賃金と技術的かつ生存権に基づいた社会的な労働生産性から最低価格を設定し、需要供給曲線においてその価格よりも上に価格設定するという条件を付与した場合、より正確な価格を導き出せるのではないか?

それを前提に最低賃金より高めの一般賃金の目安をつくっておき、それに基づきその時点での一般賃金と生産力の関係において生産性を算出すれば労働側からの価格が決まるが、それにより市場価格に対しての剰余価値を浮き上がらせることができるかもしれない。それが可能なら、新たな形での法人税制もつくることができるだろう。(のちにメモの分かり難いところを加筆訂正)

#剰余価値

 

ということなのだけれど、経済学というものにはリーマンショックのあとに少しかじっただけの知識しかないので何ともいえないが、発想としてはわりといいのではないかと感じた。

 

※補足

(アイデア:法人に強めの規制を入れて従業員数あたりの法人税の額に応じて規制を緩和してあげたら法人が脱税をしなくなる。すると公は教育福祉等のための税収が増えて公益サービスが活性化し、法人税が払えない企業は規制に縛られるため撤退するが政府は税収が多いのでその従業員の再教育も企業再生もしやすくなる。)

個人的には金融緩和が異次元レベルで続いているので、金あまり状態の金融市場に何らかの課税をすることの方が、負担感も少ないし税収も多いから、そういったものを優先すべきとは考えている。

課税のことを考えたのは、福祉国家を志向した場合、教育医療福祉の無償化が可能になるには税収を増やす必要があり、その場合は金があまって滞っているところから必要なところに分配することが望ましいからだ。

認識について

事実認識とは何なのか、事実も現実も外部に存在するがそれを認識するのは自身の意識と心であって生物学的には脳の機能により脳内に構築されている神経ネットワークの連合が次々と神経の連合体を変化させながら意識と認識を高度に形成していくが、そこで認識される事実は客観的で検証可能なものだろうか。

我々が事実を認識するとき何を根拠にそれを正しいと思うのだろう、目の前で見たものなら精神が蝕まれていない限りは事実認識するが、病んでいても病識がなければその人が信じたものが事実になりかねないから、誰が聞いても事実と認識される客観的なものでなければ本当に事実とみなすことはできないはずだ。

補足:認識をする過程で心の病気の人は病識がなければその人が信じたものがその人にとっては事実になりかねないが、だからといって健康な人の認識が全て信じられるものなのだろうか…というのは一般的には客観性が重要であるというのは認識論の文脈であって、ラカンのよれば本当の真実とは何かを追求すると結果として人は心を病むらしいが、マルクス・ガブリエルの認識に対して全肯定の理論も、結果として認識全てが事実ということからフェイクニュースも誤解も事実であるかのような正当化に利用されるのでは困る。

客観的な事実とは何だろうか、あるものを複数者が見たときに同じ認識をしたなら客観的な事実だし、見ていなくても誰もが同じ見解で捉えていたなら同様だが、見解や認識が異なる場合はどうだろうか、単純に多数決で事実は確定できるだろうか、もし一人しか真実を認識していないことだったらどうだろう。

実際には事実とは検証可能なものしか認定できないだろうが、その検証可能性とは狭義には実験により再現できるだとか複数の信頼性の高い文献や証拠で確認できるというものになるけれど、広義には状況証拠や聞き取りによるものなど事実認定するには不十分のものも含まれるだろう。

認識できないことも世界には存在するが、それを認識することは可能かというパラドックスについて、そもそも認識とは対象の有無に関係なく何らかの存在を意識が捉えることだが、その存在には具体的なものと抽象的な概念があり、人はそれを意味として認識していることになる。

認識できないことというのは、存在を知らないために分からないものごとだとか、そうでなければあまりに難解で存在は知っていても理解できないものということになるが、故にそれを認識するには自分以外の他者の助けが必要になるということがいえるだろう。

本来存在しない架空のものを人の精神機能と想像力で認識するケースがあるが、その人自身にとってそれは存在を認識できる意味のあるものであっても、別の人にとってはその相手から説明を受けて存在を共有しない限りは存在を知らないため認識できない何かを他者が認識しているということになる。

少なくとも人は知らないことが存在することを認識しそれを想像する能力を有しており、知らないことを知ろうとする好奇心があるが、我々は日常的に自分が直接接触できない情報をメディアを通じて得ており、そういった媒体を前提にすれば直接見ることができないものを文書や映像で認識することが可能だ。

媒体を介しての認識はそのメディアの信頼性に依存するわけで、その信頼性はそれぞれが判断することになり、その判断はそれぞれの価値観や情報咀嚼能力(メディアリテラシー)に依存することから社会に多様性が生じ、同時にデマやフェイクという戦略が利用されるような状況もできてしまう問題がある。

デマに関しては主要メディアが報じた場合に規制もあり得るかもしれないが、報道及び言論の自由が侵害されないために、それらの法の運用が憲法自由権社会権に反していないかの検証ができる憲法裁判所の存在と、それら司法が権力等と癒着していないかを検証する法曹への権限を有す第三者機関も必要だ。

直接認識できないことを間接的に認識する場合は、常にその情報が事実であるかの検証が必要であることを意識すべきだが、メディアを信頼する場合はそのメディアの発する情報が信頼に価するかの検証や情報発信を自らがしているか情報の裏付けが十分であるかなどを多角的に検討した方がいいだろう。

事実と自分の間にある中間媒体の信頼性は十分に確認した方がいいが、信頼性が不十分の場合はそこからの情報には注意して、それでも重要情報があった場合には事実確認ができるまで判断を留保した方が無難だろう、それで間違いを回避でき、もし忘れても重要なら再会するはずでその都度再検証すればいい。

理性や論理による認識に対して、感覚や感性及び観念による認識が存在するが、後者の場合は比較的デマ情報への耐性が弱いため情報を扱う場合は極力可能な限り理性と論理性を重視しなければいけないのは確かなことで、特に感覚においては人が錯覚に陥りやすいことが心理学で証明されている。

観念とは具体性を持たない概念だが、何らかの主観的な強い想いが反映されていることがあり、それはそれぞれ感情ある人間が各々の経験をする過程で意識に構築されたものであるためで、感覚はその前段階の認識の最初にあるものだが、それが観念の影響を受けた場合にその人の感性に何らかの変容を与える可能性がある。

というのは感覚はあくまで非言語的なものであり、それに対比するのは論理だが、しかし観念の場合は人の論理性に感情が介入して非論理的ではあるが言語性を有しているがために非常にその人の個性が反映されるものの、純粋な論理性に関しては恣意的に用いない限りは誰にでも通じる没個性的な性質があり、正しく論理を用いる限りはその文脈においては限定的な結論が理路整然と導き出されるはずで、その場合の論理は言語的ではあるが同時に数学的論理性が反映されていると考えられ、数学的な非言語性における論理性が感覚における非言語性にどのように関与するかは明確ではないにしても、その人の意識を形成する感情と価値観が非論理的に融合された観念の世界と、それとは異なる感覚や理性などの認識が一人の人間に共存して矛盾を捉えないようなところが人にはあるけれど、それぞれの状況文脈によってそれぞれの認識を使い分けるのが人の常であって、最も捉えがたい感覚という論理的でも言語的でもない認識が即座に人に影響するという現実は、人が何らかの情報を発信する際に大きく影響するにもかかわらず正体が把握しにくいものであるが、観念や論理が関与しつつそれらを超自我の視点から理性的に出力する場合に、無自覚的に感覚が作用している認識-意識の全体像が存在する。(191210に補足追記)

感性、観念による認識に関しては、人の嗜好性の影響が大きくその人の好む情報に主観的に賛同しやすくなるため、情報を扱う場合は客観性を重視し心理学でいうメタ認知超自我といった自己を俯瞰的に捉えて主観に左右されない状態を心掛ける意識を常に維持した方がいいだろう。

客観性と同時に主観も重要なもので、それは人が自己同一性を有し周りと協力しながらも独立して活動する存在であり、活動する際に直接的に動くのは当然の如く自分なので主観なしには自身の最初の行動選択もできなくなるからだが、主観だけでは社会的存在として問題を生じかねない為に客観性が重視される。

主観においては架空の存在などの認識できるにも関わらず実際に存在しないものがあるが、それは認識していても事実ではなくその人の意識のなかだけに存在するものに過ぎないため、その存在はその主体においてのみ重要だが、もしそれが小説などで発表されたら存在するものとしてたちまち世界に現れる。

認識できるものはその人にとっては存在するのだからといって認識を存在と同義で扱っていいだろうか、この場合は認識したもののうち実際に世界にある存在と世界にはなくても私の認識にある存在に分けて解釈することが必要かもしれない、後者の存在には一般にない世界があるということになる。

一般にはなくても私にはある存在についてだが、実際にあった存在が時が経過してそれを認識していたひとの記憶のなかで何かの変容があった場合に過去の世界にあった存在がその人のなかにだけ存在する世界にはないものに変わることすらあるだろう、それは作られた記憶や妄想に過ぎないかもしれないけれど。

一般世界にはないのに存在するものに対して、逆に存在するのに認識できないものに関してはその人にとっては存在しないということになるが、己以外の第三者により認識されている事実が世界には存在しているので、知らない何かが実際に存在することを推察する意識の機能は、心理学でいう心の理論に近い。

心の理論とは、他者には他者の心があり自分とは違う考えや信念を持っていることを理解する心の機能のことで、脳においてはミラーニューロンが正常に機能しているかが重要であって、例えばシンパシーを感じなくとも相手の立場に立って考えてみるエンパシーの能力が十分かということでもあるだろう。

心の理論は言語能力とは異なる知性で、具体的なものや概念などを言語化するのとは違い自己および他者の状況によって異なる心の動きを理解する機能のため、それがない場合は社会生活で様々な困難を伴うといわれるアスペルガー症候群とされるが、彼らにも正常な言語性があるので教育過程で適正な対応があれば特殊分野で活躍されるだろうから、個別に最適化した教育のあり方が望まれる(現代の技術はかつて不可能だった個別最適化を可能にするため適切に用いれば様々な社会問題の改善に貢献するだろう)。

言葉は時間をつくりだすものの一つであり、というのは世界にあるのは実際は変化に過ぎないにもかかわらずそれを記録することが可能な場合は、変化に前後の順番が把握できるようになるがために時間という概念が生まれるからだが、言葉は脳の記憶と共に変化を記録する道具の一つということになる。

人は高度な認知機能を獲得したがために長期の記憶能力を得たが、それは他者と集団で生きる過程において意思の疎通を可能にする言葉を生みだしたことも関係あるはずで、人類が社会を発展させるに伴い文字が発明されて記録の正確性はともかくも遠い過去や他者とも一定の経験を共有できるようになった。

場の変化を記録する場合に、文字が発明される前は洞窟画等があり、20世紀の技術革新によって写真や映像が記録のための道具として利用されるようになったが、現在においても最も利用されるのはいまだに言葉であってときに図を伴うものの、昨今はネットの映像投稿サイト等により新時代が到来している。

文書と映像による記録の違いとしてある種の主観と客観かのように思える要素があるが、一見すると客観的に思える映像であっても撮影主体の意向が強く反映されるのは無視できないもので現実のある部分を抽出して記録されており同じ場でも画面の外の出来事は映らないことによる状況の読み間違いがあり得る。

記録は誰かの認識や価値観を経てつくられるため、それが社会的に重要なものであるほどに同じ対象に対して複数の記録から客観的に実体を浮き上がらせる努力が望まれるが、多くの記録はそれぞれにおいてはそのような努力がなされているとは限らないことを前提にして接するべきだろう。

記録の正確性の有無を捉えるのも人の認識だが、それ自体はありのままのモノをそのまま捉えることは不可能のため意識および認識という脳機能のフィルターを通していることになる、ラカンによるとありのまま捉える現実界に触れたときに人は病むが、現実を受け入れられない状況の人の心理を表現したものだ。

他者の立場でものを考える能力をいう心の理論がなければ客観的に人の世界を捉えられない可能性があるが、心の理論と関係ない言葉に非言語が捉える認識がどう反映されるかを考えれば、言葉の記録から事実を認識するには多角的な検証が望ましいが、言語認識でも映像でもない心のはたらきはどう扱えばいいだろう。

言葉以外の認識は五感(視聴触味嗅)によるものがあるがここでは精神機能を扱う、例えば視覚に映る像を絵画的に形と色に分けて認識するのは脳の側頭葉の機能だがそこは言葉と概念の認識の場でもあり、しかしその像にある位置関係は頭頂葉で捉えられそこは数的論理や幾何学的認識を含む論理の場でもある。

心の理論に関しては脳機能との関係はミラーニューロンについていわれている、主に前頭葉の共感や感情の調整機能を司る前帯状皮質、意図を評価し行動に関係する下前頭回、頭頂葉、側頭葉、後頭葉の三つの頭葉の間に近い下頭頂小葉にあって言葉の意味と認識などに関係があるところが関与している。

相手の心を推測する心や脳の機能は言葉以外の要素があるということだが、感情的な共感や相手の置かれた状況を自分のことのように捉えて脳内シュミレーションしてみる必要があり、その結果が自己と他者とでは同じではないし、完全なシュミレーションができるわけでもないにしても、それ相応に相手の気持ちや状況を汲み取ることは普通は可能であって、それは人が他者と共同生活し社会を形成する上では必須の脳と心の機能でもある。

心の論理とは異なり、直接の言語コミュニケーションはそれぞれの意見を相互に交換し、互いに理解を共有したり意見の違いを認識することが可能だが、同時に人は嘘もつくことがあるため、そこで相手の言葉の真意を図るために心の理論が必要になるだろう。

事実に基づかないデマは人の悪意ある何らかの意図もしくは無知から生じているのだろうけれど、もし人が事実に謙虚で忠実かつ慎重であるならばそのようなことは生じ得ないが、例えば学校の数学の問題のように予め結論を恣意的に想定したら間違える類いのものであれば、自己の都合のいい解釈を許さないため、事実の比喩としての数字や要素と公式に忠実であれば一定の条件下では信頼性の高い結論が出るが、これは言葉を介さない論理であって言葉のような曖昧さをもたないため正確な論理展開が可能であるだろうけれど、言葉の場合は人の恣意性に左右される要素を排除できないため、ときに政治的に利用されたり、根拠無きデマが流布したりすることがある。

しかしそれでも言葉は社会のなかで特に力を持つが、それは社会の仕組みが法律という言語によりつくられており、社会を構成する組織や個人が法の下で言葉を介してコミュニケーションをとるからであり、そこで認識されることは基本的には事実に基づくがケースバイケースであって、故に言葉で事実を記述することは可能でも、同時に言葉はありもしないデマを簡単に作り出すことができることには前述や昨今のフェイクニュースの問題同様に注意が必要なため、重要なコミュニケーションや決定においてはその過程の経緯と事実関係の確認が十分なされる必要がある。

特に政治においては、言葉の論理性に特に注意が必要な分野であって、政治家は自らの言葉に常に責任を持って言動することが求められるが、いつの時代もそうかもしれないし今後に改善があることを期待はするが、2019年現在の政治事情は必ずしもそうとはいえないという現実があるのは多くの方も認めるところだろう。

言葉の論理も恣意性のないものであれば数学の問題のように比較的に正確な出力があるだろうが、どちらにしてもそれらは一定の前提があることであって、その前提条件がどうであるかが問われるものであり、一見普遍的な論理展開でも前提が異なると違う結論を導き出すだろうから、論理の正確性と同時に前提条件が何であるかのチェックが、物事の真偽を捉えるうえでは重要である。

それと共に、条件の違う世界が振幅が大きすぎず安定して上手く調和しているという世界の事実を踏まえると、それぞれの現象が複雑性を帯びながら人が認識できないかもしれないレベルで相互補完になっている可能性を考える必要もあるだろう。

それは小宇宙としての人体のなかでもある現象であって、例えば人の心は脳ではなくその機能のなかにあると思われるけれど、この臓器の機能性は複雑なニューラルネットワークによって担われており、それにより世界に生じている様々な現象を捉え認識し特定の概念として理解することが可能になるが、人の臓器の相互機能が人の活動を可能にしているというレベルでも同様の複雑な相互補完の関係性が見出せる。

人のニューラルネットワークの機能が高度に知的成長をした場合は、それにより複数の関係性を俯瞰して理解し見えないものを推察したり新たなものを想像する能力までもそこに内包するようになるが、それも感覚器官を経て外部情報を取り込み記憶しそれに基づいて思考することから、その人が置かれた状況や世界という外部情報が前提条件としてあることが分かる。

世界は一人で成り立ってはいないから、自己以外の他者が複数存在して相互に補完しながら社会は成立していることも、前述の論理が正しい可能性を推測できる。
(社会におけるその相互補完を乱す者があった場合は社会は法に基づいて相応の手段で対応するが、その場合も近現代においては人権を重視した法体系により権力がその支配において人権侵害ができないようになっており、それは人類の歴史上における非常に貴重な獲得物であって、その立憲主義や法治および福祉国家という社会のあり方は、今後も発展継続させるべきものである。)

脳内の認識の仕方においては、例えば複数の存在があったとして、それら認識される事象の関係性によりそれぞれの意味と位置づけが浮き上がることでその存在が何であるかが認識され、そのような認識が連なっていくことにより世界の全体像が把握されるが、その世界は外部にあるのに世界観は内部に構築されたものに過ぎない。

脳の認識する世界は外部からの感覚世界を言語や概念を含んで内部の感性が広い意識を形成するが、それは主観的観念に始まり他者から構成される社会のなかで客観的で理性的な論理性に発展していき、感覚から社会のあり方までの外部によりもたらされるもので内部に世界を作り出す脳の機能が人間存在だ。

世界を認識している私は、世界の中にあって世界を俯瞰視できるという意識があるのだけれど、一見矛盾するこの構図では最近流行りのマルクス・ガブリエルによれば、「対象としての世界」は「わたしたちが世界について考えている場としての世界と同じ」(なぜ世界は存在しないのか-121頁)であるから、「世界全体について考えると同時に、当の思考それ自身についても考えるような思考」(同-117頁)を「超思考」と定義し、それが意味するのは私の超思考の中に世界があり、同時に超思考のなかで超思考している私はその中で世界を認識しているという「果てしない入れ子構造」によって、認識しようとする世界は遠ざかるばかりで捉えることはできない。

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世界それ自体と世界を認識するそれぞれの人による世界観はそれぞれが存在するものであって、それぞれの事実が別に存在しており、だからといって一方の存在世界を認識している間に他方が無くなることはないので、結果としてすべてを包摂する存在や世界はないということらしい。

「対象としての世界」が、実際にある直接は認識できない現実の世界と認識対象の世界であり、認識対象の世界を認識する私は世界の中にあり、世界の中に自分がいるという認識は、実際はそれを認識する自分の中にその世界の認識があるということに過ぎないのに、自分は世界の中にいるという事実が想定できることの不思議な認識経験は、世界が視覚的に自分の周りにあるからであって、それを認識するのは自分の意識や脳の機能であるから、それらは前述のような説明が成り立つという人の高い認識能力の結果における思考経緯に過ぎないのかもしれない。

それでは世界はそれぞれの要素が独立して存在しているのかといえば、それぞれの独立した要素が実際は相互に重なり合って補完関係を形成している可能性が高く、それにより世界は安定的に破綻することなく調和を維持しているという推測は、世界を観察する我々の意識からもその事実認識の正しさが分かるものだといえるだろう。

その世界の多様性が、たとえひとつの法則で表現できるものではなくとも、あらゆる価値観を調和を乱しすぎない範囲で容認する姿勢につながると同時に、社会と世界は自然に変化していくものだから、特定の価値観が調和を多少乱す場合も寛容な態度で容認した方が、世界の変化に社会変化が追いつかずに破綻するような事態を回避できるので、人権侵害がないことを重要視しつつ人権を守りながら多様な価値観を認めていく社会のあり方は、社会全体としての利点となる。

故に問題は多様性における価値の衝突ではなく、しかしあらゆる認識を容認した場合に、性質のわるい客観的事実に基づかないデマなどをも容認することを正当化しかねないことにどう対応するかという、2019年の昨今におけるフェイクニュースという社会現象にもあるわけだけれど、社会を構成する市民の各々にそれぞれ様々な情報がもたらされる過程で、そこに所得格差やリテラシーの差による情報の非対称性という深刻な問題が生じており、特に昨今ではフィルターバブルというネット上で価値観等が同一の者ばかりが集まる現象とそれを促すシステムがあるがために、各々の得る情報に大きな偏りが生じていて、情報の非対称性の問題はより深刻化していると思われる。

現在における情報格差は所得格差と同様に深刻な問題であり、社会が率先して取り組むべき課題でもあるだろう。

 


 

 補足:

これはツイッター@furu_akihiroにおいて記述したものが途中のままに危機トラブルで記述できなくなっていたことから、それに一部補完した内容です。